帰国へ 探求②ー8

f0364260_19412757.jpg

蒋介石の広東でのクーデターは一時は失敗したが、彼はその革命軍を率いて上海に入る時を待っていた。

彼は6月か7月に北京軍閥政府打倒に向かう準備をしていた北伐軍の総司令官に命ぜられた。


われわれの中国革命は、多くの過失をおかしたが、1926年の広東における対蒋介石の処置も、その一つだった。


蒋の流産クー・デター、その他の反革命的行動と爆発とは、全世界にちらばっていた中国革命家たちを刺激した。

多くのものが故国を指して帰った。

私も、軍閥および外国帝国主義とたたかう北閥軍が7月に進出するまでには帰国したいと、学習に馬力をかけた。

その三、四ヶ月というものは、昼夜兼行で勉強した」


6月中旬のある夜、9人の中国人と一団となって、ベルリンでの中国問題に関する大集会に参加した。

ドイツ政府によって政治活動は禁じられていたので、聴衆として演説を聴くだけだった。


ところが、集会が終わると朱徳の一団は警察隊に逮捕され、拘置所に運ばれ、10日間監禁された。

朱徳は今まで二回逮捕されているが、いつも釈放されていた。


「こんどの逮捕でも、心配はしなかった。

私ははただ、拘禁の状況はどういうものかを知りたかった。

監房内は静かで平和で、私はこの数ヶ月勉強しすぎていたので、ここで睡眠不足を取りもどす時間を持った。

毎朝、守衛が私の小さな房に入ってきて、机のうえに、うすいコーヒーが入ったブリキ缶と黒パンの一かたまりを置いた。

私はそれを平らげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。

正午にも晩にも、守衛がまた入ってきて、机のうえに、黒豆の皿と黒パンの一かたまりを置いて、出てゆく。


10日たつと、裁判官は騒擾罪にあたるとして、24時間以内にドイツ国外に退去するように申し渡した。

中国大使が申し入れをして8人の追放は免れたが、朱徳ともう一人はだめだった。

内密にイギリス政府がドイツ政府に朱徳たち二人をドイツから追放するように要求したということを、朱徳はあとで中国大使から教えてもらった。


すでに朱徳は中国に帰る準備はしていたので、ソ連経由上海までの三等乗車券を買った。

レニングラードからバルト海を進む船の上で、朱徳は4年間の経験を振り返った。

1922年に中国を去った時と比べると、朱徳は西洋諸国について交友や勉強によって多くのことを学んだという自信があった。


革命的知識階級の、労農大衆との結びつきこそが、未来の中国の勝利への鍵であった。


エンゲルスによって定義された歴史進行の大法則を知ったことも朱徳の新しい知識の根底をなしていた。


その頃朱徳だけでなく、世界のいたるところから中国人が、故国を軍閥と帝国主義との桎梏から救う決戦に加わるために、帰国しつつあった。


朱徳は共産党員であることは仲間以外には秘密になっていて、ただの国民党員としてしか知られていないことを有難いと思った。

広東の革命政権は軍閥の中でも比較的害の少ない者を中立化させるか仲間に入れるようにしていたから、朱徳は昔の軍人仲間たちのために役に立てるかも知れないと思った。

たとえばかつては1911年の革命派だった四川の楊森将軍は、朱徳が中国を離れる前に参謀になってほしいと申し出ていた。


朱徳は四十歳になっていたが、今度こそは若かった日の数々の過失を避けて、新しい革命生活が始まるのだと感じた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-01-23 09:00 | 朱徳の半生

f0364260_09222332.jpg

中国国内での対英不買運動に呼応して、朱徳と仲間たちはドイツの労働者階級と連携しながら、2ヶ月の間に何回か大集会を開いた。

フランス、イギリス、オランダ、アメリカでも同じような集会が開かれた。


イギリス政府はフランス政府に中国人指導者20名を追放させた。

ドイツ政府にも同様の要求をしたが、ドイツ政府は中国人が国内で大集会に参加することだけを禁ずるということで妥協した。

つまり中国人は集会に列席するのは認めるが、そこで立ちあがって発言するならば、ただちに追放するということになった。

実際、3人の中国人が禁令を無視したということで国外に追放された。


朱徳はいよいよ帰国の決心を固めた。

しかし仲間たちは、もっとドイツにとどまり、まだ中途半端だった経済問題や国際問題の体系的研究に専念してからでも遅くないと止めた。

1925年秋から、朱徳はドイツ人のマルクス主義の学者のもとで、さまざまな資料の研究を進めることにした。


「統計的研究はとてもむずかしかったが、私に取ってはもっとも有益だった、――というのは、それは、事実にもとづかない理論は無用な抽象にすぎないということを、私に教えた。

それ以来、私は、ある人間のまじめさや、本や新聞記事の正直さを判断するには、彼らが、とりとめないイデオロギ的幻想をもてあそばないで、事実を用いているかどうか、によることにした」


孫逸仙(孫文)が亡くなるとまもなく国民党内の反動派は徒党を組んで、広東革命の基本理念だった三大政策をくつがえそうとした。


1925年の秋、孫逸仙の高弟であり友人でもあり、労農提携の主唱者だった廖仲愷(リョウチュウガイ)が広東で暗殺された。

下手人は胡漢民派に金をもらって、暗殺を引き受けたと自白した。


しかし、1926年1月に国民党の第二回全国大会が広東で開かれ、孫逸仙の三民主義と三大政策を再確認した。

さらに過去の革命の闘争の失敗は、知識階級が労働者や農民と同盟できなかったことが原因と戒めた。

この全国大会のことを知り、朱徳は心乱されることなく安心して勉強に励んだ。


ところが、広東の黄埔軍官学校長の蒋介石がクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立し、すべての国民党左翼と共産党指導者とソビエトからの顧問を市から追放した。

それどころか孫逸仙の三民主義をもたたきつぶそうとした。

しかし蒋介石の権力の基礎は上海であって、広東ではなかったので、このクーデターは短命に終わることになる。


共産党指導者の一部は民族統一戦線を維持することに焦り、蒋介石に孫逸仙の三民主義と三大政策を守るならば、自分たちは地位を捨ててもいいと妥協した。

蒋介石は時を稼ぐために合意した。

よって、新革命軍の政治部主任周恩来は職を辞した。

朱徳のベルリンでの友であった演達が周恩来の後任になり、朱徳の旧友孫炳文はそのまま副主任にとどまった。

ところが数年後演達は蒋介石の手下によって上海で捕らえられ、南京で蒋介石によって殺された。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



[PR]
by far-east2040 | 2017-01-22 09:00 | 朱徳の半生

f0364260_17070430.jpg


朱徳がドイツ留学中の闘争を語っているちょうどその時、偶然スメドレーもベルリンにいた。

近いところにはいたが、朱徳の存在を知ることはなかった。

ただ、朱徳が指導者の一人であった国民党支部によって召集された中国人集会にスメドレーも参加していた。

この集会は500人ほどが集まり、中国人のほかにドイツ人やインド人も混じっていた。

この集会に反対する保守派の中国人学生の一団も一角を占拠していた。

そして、一人の中国人学生が演説を始めると、彼らは罵声をあげて野次を飛ばした。

するとスメドレーは一人の中年の中国人が席の通路を激しく突っ走って野次の群れに向っていくのを見た。


そして、一言も発しないで、腕をのばして、ひとりの野次を首筋をつかみ、まさに通路に向って放りあげて、ものすごい勢で、後方の扉に向って押しやり、片足で扉を蹴あけてから、その野次を、まるでポテト袋かなにかのように、外に投げ出した。

その男は、またくるりと向きなおり、通路を、こんどは三、四人の中国人学生をしたがえて、大股にいそいできて、またひとりの野次をつかみ、なかば宙に持ち上げながら、後ろの扉から放り出した。

彼にしたがった学生も同じようにして他のものを放り出した。

こうして、ひとりひとりと追い出されて、しまいには野次といえば、ただ一人の頑固な女が、壇上の演説者に向って叫びかけているだけだった。

 聴衆が、しんと息をのみながら見つめていた中で、中年の男は、また通路を歩いてきて、腕をのばして、女を座席から引きずり出し、強引に扉の方に押してゆき、その仲間たちともどもに、突き出した。

これらのすべてのことは、十分とたたぬうちに終了し、すべて軍隊式にきびきびとしたものだった。


スメドレーが以上の光景を語り、朱徳にあなただったのかと尋ねると、彼は「多分」と笑って答えた。

反動派が会場破りにやってくる集会はいくつもあり、このように叩き出してきたのである。


さて、1925年5月30日に起きた上海での大殺戮の報が朱徳たちに届いた。

それは日本人工場で殺された一人の中国人労働者のために抗議に立った労働者と学生との列に、イギリスの警察が弾丸を打ち込んだ事件だった。


ただちに一切のイギリス製品を買わないという強い運動が中国に起こった。

外国租界には戒厳令がしかれ、外国の軍隊が上海に上陸し、外国の実業家たちは武装して義勇隊をつくり、白系ロシア人もそれに加わった。

アメリカ、イギリスを始めとするヨーロッパの労働者は中国の革命闘争を支持したが、支配階級たちは「中国に無政府的紛乱をおこす勢力」を弾圧しようとした。


対英不買運動は華南地方で完全に行われた。

やがて、6月23日、広東の沙面島にあった英仏の部隊は、対岸の街路を行進していた男女と青少年の群れに向かって、いきなり無制限発砲をした。

たちまち52名が射殺され、117名が負傷した。

イギリス帝国主義の大港湾基地であった香港の全労働者が16ヶ月の間ストライキに入った。

何万の中国人労働者が広東に入り、何千人かは新革命軍に入隊し、別の何千人かは広東政府の武装警備隊にはり、全広東省沿岸を警戒した。


沿岸や揚子江のいたるところで、イギリスの軍隊は中国人を殺し出したが、その殺戮のたびに中国人の対英不買運動は強くなった。

階級間の境界線も消えて、新しく変わっていた北京軍閥政府ですら、その運動を暗黙のうちに支持した。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



[PR]
by far-east2040 | 2017-01-20 09:00 | 朱徳の半生

f0364260_09063014.jpg

朱徳は国民党を組織したり小新聞を出したりするかたわら、ドイツの労働者の集会に出て発言したり、国際的なつながりを持つさまざまな会議にも顔を出すようになった。

またブルガリア革命運動弾圧のテロに抗議する会合に出たために2回も逮捕されるという経験もした。

最初に捕まったときは、中国領事館の要求によって釈放されたが、2回目のときは2日間牢獄に入れられた。

釈放後は、「植民地係」の刑事から自由になることはなかった。


1925年5月北京政府は中ソ新条約を結んだのだが、すべての外国の帝国主義者たちは、中ソ親善を妨げようとして横暴な行動を取ったとき、朱徳たちはベルリンで中国人大会を召集した。


その頃、朱徳の記憶では、一部のイギリス人やアメリカ人が黄禍論を騒ぎ立てて反中国運動を起こし、中国の自由と独立を主張したためにソ連を「白人世界の垣根の中の敵」と非難し、広東の革命政府を「過激派的なアナーキストの集団」と主張していた。


やがて孫逸仙博士の、北京におけるいたましい死が、1925年3月12日におとずれ、憂愁の気が世界のいたるところの、中国革命派の人々をつつんだ。


ベルリンでは朱徳たちは追悼会を開き、中国の解放に捧げた孫逸仙の40年の悲劇的闘争を紹介した中国語とドイツ語の特集パンフレットを出した。


外国の帝国主義者だけでなく、多くの中国人までが孫逸仙の死を喜んだ。

しかしベルリンの追悼会に集ったものはみな泣いたと朱徳は重々しい声で回想した。

長きに渡って中国革命を導いた孫逸仙の死によって、慕う人々は孤児のような寂しい境遇にとり残されたように感じた。

孫逸仙が偉大すぎて彼の地位を継げる人物はいなかった。

それどころか彼の死後、国民党内にもいくつもの徒党ができて、孫逸仙の革命への道を歪曲し破壊しようとするものが出てきた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-01-12 09:10 | 朱徳の半生