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孫逸仙(孫文)はそれまでの37年間、イギリス、フランス、アメリカの援助を求めてきた。

個人的に同情し援助したものは確かにいたが、これらの国の銀行家、政府、および中国国内外の外国語新聞は毒舌を浴びせ「不平家」「夢想家」「広東製理論派」「官職にありつけない腐った人」などと呼んでいた。


1923年、孫逸仙は長い話し合いの後ソ連と同盟を結んだ。

新ソ連政府は民族の平等と植民地民族の独立権を宣言した。

さらにすべての不平等条約、中国政府と旧帝政政府との間に結ばれた協定、他の列強と一緒に結んだものもすべて廃棄した。

と同時に孫逸仙はミハエル・ボロディンを政治顧問として、ガロン将軍を軍事顧問として招いた。


諸外国の政府と中国国内の外国語新聞は、待っていたとばかりに孫逸仙と彼の政府に「赤」「過激派(ボルシェビキ)」の刻印を押した。

長く彼に従ってきた人たちの多くも労働者と農民の生活向上を目指すことを危険視した。

やがて「耕すものに土地を」と叫ぶ農民運動が広東省で発祥し、地主は地方軍閥と結んで戦うようになった。


とにかく孫逸仙は、1925年3月に亡くなるまであらゆる民族革命の勢力を統一していた。


その頃ゲッティンゲン大学にいた朱徳はドイツ語の能力は貧弱で、学問的な講義を完全に理解する力はないと自ら悟っていた。

哲学博士の称号を得ようという興味もなかった。

朱徳はゲッティンゲンにこのままとどまることは時間の無駄のように感じて、ベルリンに戻った。

ベルリンでは中国の歴史的発展についての自分の研究を続けながら、中国人の学生を孫逸仙政権の理念のもとに組織するつもりだった。


朱徳はその頃の思い出を侮蔑と怒りの感情を露わにして回想した。


「ベルリンの金持の中国学生たちは、新しい国民党支部に参加しないどころか、青年党と称するものをつくって、われわれとたたかおうとした。
彼らは、ドイツの王党派やその類似の階層のうちに同盟者を求めることまでやり、さらにドイツ警察にたのんで、われわれの組織と私が創刊した中国語の小新聞とを弾圧しようとした。


朱徳は謄写版で新聞を刷り、営業から給仕、品物運び、発送の宛名書き、郵便局への運び出しと一人であらゆる仕事をこなした。

ドイツの刑事が朱徳や仲間が行くところにはついてくるようになった。

こういう刑事たちは「植民地係」といわれ、かつて中国の青島に住んだことがあり中国語を話せた。


「ドイツ帝国主義者たちは、ワイマール共和国に浸透してゆきながら、ふたたび、青島の海軍基地や中国内でのドイツ権益を獲得する日を、夢みつつあった。

彼らは警察内にも入りこんでいた。

そしてほかならぬわれわれの同胞が、われわれと敵対するために、彼らを利用したのだ。

私は、このドイツで、中国人がわれわれを敵としてドイツ帝国主義者とむすぶのを見たとき、階級闘争における重要な第一課をまなんだ。

中国には古くからのことわざがある……鹿は虎とならんでは歩かない」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-29 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳はベルリンの街を歩きまわり、主だった街路、建物、施設をすべて見てしまっていた。

さらに行動の半径を伸ばし、中国領事館から紹介状をもらって、大工場の見学もしたし、ベルリンに近い工場や鉱山、諸施設も積極的に訪ねた。


やがてベルリンを知り尽くしてしまうと、資本主義への懐疑が深まってきた。


「私は、日ごろの、資本主義は中国を救いうるという信念を、うしないはじめた。
もし、ドイツのように熟練し、訓練ある、教育ある、組織化された労働階級をもち、高度に組織的に産業化された国が、あの時のドイツのように敗北国となることが有りうるとすれば、中国がその足あとを追うことは、ばかなことであろう。


4年後にドイツを去るまでに、ほとんどすべての重要都市を訪れ、観察をノートに書き留めた。

このようなノートやドイツの地図と案内書で1つのトランクがいっぱいになるほどだった。


やがて朱徳は1923年のはじめにベルリンを去って、ゲッティンゲン大学の政治学科に入った。

そこにも多数の中国の留学生が来ていて、最も強い共産党支部ができていた。

彼は旧皇帝の軍の将軍であった男爵の家に寄寓し、彼から軍事学についての個人レッスンを受けた。

その男爵は授業料と部屋代を朱徳が妥当とする金額よりも高く要求し、さらに中国のお金で払ってくれるよう要求したので、いい印象を持って回想しなかった。

朱徳も黙っていなくて、今まで知っていたことを教わっただけだと率直に言い返した。


彼はドイツ語の猛勉強をし、大学ではあらゆる講義に出席したが、中国共産党支部の週3回の夜の討論会で学んだことの方がはるかに有益だった。

国際情勢に関しては、パリの共産党支部が出す中国語新聞で知ることができた。


1924年のはじめに、彼はゲッティンゲンを去ってベルリンにもどり、広東の孫逸仙の提唱に基づく改組国民党の支部をつくることになった。

すでに孫逸仙は、かつての華南の革命運動の根拠地を奪回して、国民党の第一回全国大会を召集していた。

この党は、以前は地主、商人、資本家の階級から流れてきた中産階級の知識人からなる性格のあいまいな団体だったが、その当時、創建されて間もない共産党をふくむ、あらゆる党派と団体で構成される民族統一戦線という性質を築くまでになった。


有能な学生組織者周恩来は、朱徳の旧友孫炳文やその他数人の学生とともに広東に帰っていった。

帰国後、孫逸仙が新たに建てた広東郊外の黄埔軍官学校で、周恩来は政治部主任となり、孫炳文は副主任になった。

校長は朱徳とほぼ同年齢の軍人蒋介石だった。


蒋介石は1911年の上海での革命運動では端役をつとめ、その後上海で株式仲買人になり、悪名高い青幇(チンパン)との因縁を結んだ。

青幇とは地下組織の一つで、上海のあらゆる中国人商社から金を取り立て、賭博と売春の元締めをしていた。

この青幇の最も大きい収入はアヘンだったので、中国在住の外国人はこの青幇の封建的な親分のことを上海の「アヘン皇帝」と呼んでいた。


蒋介石は孫逸仙がソ連に短期留学させた士官の一人だった。

彼は帰国すると、国際共産党こそは全世界の非圧迫者の希望であると演説していた。


国民党を、すべての革命勢力の民族統一戦線に改組することによって、中国の新時代はひらけた、と朱将軍はいった。


孫逸仙は今までの「三民主義」に「三大政策」を付け加えた。


三民主義とは、民族、民権、民生、であったが、三大政策とは、共産党との協力、労働者と農民との利益の増進、およびソ連との同盟、であった。


                               紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-28 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳が周恩来の前で将来の決意を述べている間、周恩来も彼の目の前に立ち、癖で頭を少し斜めに向け熱心に耳を傾けて、終わると質問をした。


二人の訪問客がすべてを語り終えると、周恩来はちらっと微笑して「宿を見つけるお手伝いをしよう」といった。
それから、ベルリンの共産党の仲間に入れるように手続きはするが、申込書が中国に送られて返事が来るまで候補生として待ってほしいといった。

数ヶ月後、二人は正式党員として編入されたが、朱徳の党籍は外部からは秘密ということにされた。


朱徳は雲南軍の将軍として、最も古くからの国民党員の一人だったので、将来共産党からその雲南に送り返される可能性もあったので、必要な処置だった。

とにかく過去の経歴や旧社会とのあらゆるつながりを人々に知られることがなくなったので、肩から重い荷が降りたような心境だった。


当時ベルリンには何百人という中国の留学生がいて、その多くは豊かな家の子弟であった。

朱徳は彼らを避けて、息子ぐらいの年齢の若者といっしょにむさぼるように勉強を開始した。


中国共産党のベルリンの仲間はみな勉学に専念していた。

彼らは正規に入学した大学での学習以外に、週に3回夜に討論会を開いて、中国革命の諸問題をマルクス・レーニン主義に照らして研究し討議した。

朱徳と孫炳文は中国共産党による中国革命の歴史と諸問題を論じた文献資料を読むことに時間を費やした。

こういう資料によって、朱徳は自分の過去とその行動とを分析した。

さらに大学へ入学するためにドイツ語の勉強も始めた。


しかし朱徳はすでに学校生活を離れて軍人として過ごした時間が長すぎたこともあって、本に向ってすわる語学学習は苦痛だったらしい。

ヨーロッパに来た理由の1つは、ヨーロッパの強さの源泉である産業や文化を含めた文明を調べることでもあったので、彼は積極的に外に出て見学することにした。


まずベルリンの地図を買って、記されている街路と施設の名前を中国語に訳した。

街路を歩いて、博物館、学校、画廊、ビヤホール、料理店、工場を訪れ、歌劇や演奏会、国会、公園にも行った。

個人の家庭にも訪れ、どんな暮らしをしているかを知ろうと努め、教会まで入り込み、中国の寺と比較した。


ほとんど一人で行動したが、時おりベルリンで友人になった演達といっしょだった。

演達は後には中国革命の最も高名な指導者の一人になるが、1931年同志の裏切りで上海で拘束され処刑された。


達は朱徳の好奇心のままに博物館や美術館や音楽会について行くが、体力がついていかず途中で挫折してしまう。
それだけ精力的に朱徳は歩いた。

朱徳はベートベンの音楽が特にお気に入りで、ベートベンが作曲したものをすべて聴いてしまうことを目標にしていた。


こうして、毎日、毎夜、勉強から立ちあがっては探検に出かけ、いつまでもいつまでも、歩きにあるいた。

ベルリン軍事博物館では、過去の戦争の武器や、ドイツ軍が捕獲した軍旗などを見た。

その軍旗のむれの前では、一度、急激な衝撃をうけて立ちすくんだことがあった。

眼の前に、義和団の乱のときにドイツ軍がとった中国の旗があった。

どのくらいの時間それを見つめていたかはわからなかったが、かつて上海や南京や北京で経験したように、彼の脳裡を、ふたたび幻の大軍勢が行進しはじめ、彼はその将軍として先頭に立ち、戦闘に突入し、中国の敵をうち殺し、または海につき落とす。


朱徳はその幻を振り払うように首をふっていった。


「私の頭は、ただ軍事的にしか、はたらかないようだった!」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-12-27 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳と友人孫が乗ったフランス客船はイギリスやオランダの植民地だった南洋の諸港を経由していった。

その地では何百万の中国人が移民していて、一儲けを目指したり、鉱山や大農園で働いたり、原住民すらいやがるような厳しい労働を炎熱の中で行っていた。


友と二人で、張りきって上陸はするが、何時間か後にもどってくるときには、やりきれぬ絶望感につつまれていた。


半分中国化した地域ではあったが、移民たちはどん底の貧困の汚臭にまみれて生きていた。

やがて船はインド、アフリカ、エジプトを通過していき、中国人が見えなくなると、寂しさが心に染みてくる。

この地域の住民たちも病気のように痩せ衰え、はだかであえぎあえぎ白人の主人のために重荷を担いでいて、劣悪な環境の中で暮らしていた。


「どこへ行っても、眼に入るものは、苦しみの暗黒世界だった。
中国は、地上のもっとも悲惨な国ではなく、多くの中のひとつだった。
貧しく隷属化された人民の問題は、どこでも同一だった。
また、フランスに上陸してみると、ヨーロッパも、想像していたような近代科学の楽園ではないことがわかった。
フランスの労働者は、中国のそれより衣食ともによかったが、やはりみじめな存在であって、フランスの政府は、やはり高官どもが売買する市場だった。


朱徳たちはフランスの街を朝から晩まで歩きまわり、ヨーロッパ大戦の戦場をたずねて行った。

二人は中国人の商人の家で宿泊したのだが、そこで最近中国人学生の一団が中国共産党の支部を作ったという話を耳にした。

朱徳は主人から、一団の組織者の中心は周恩来という名前の学生だということを聞き出すことができた。

この周恩来と同志であった陳毅、聶栄臻(ジョウエイシン)、李立三、李富春とその夫人蔡暢(サイチョウ)たちは、後日中国の歴史を作ったのである。


朱徳はこの一団と接触したかった。

誰かが周恩来はすでにドイツに行き、そこで同じように共産党の組織を作りつつあるといって、ベルリンの居場所を教えてくれた。


二人は汽車の旅をして、1922年10月末にベルリンに着き、周恩来のところに向かった。

朱徳は周恩来が果たして自分を受け入れてくれるかどうか心配だった。

軍閥としての過去の経歴を問われるだろうか。

すでに青春時代は通り過ぎた36歳という年齢も強く意識していた。


周恩来の室の扉がひらかれたとき、二人が見たのは、人並よりやや背が高くすらりとした、眼のかがやきの強い、じつにりっぱな、美貌ともいうべき顔の人であった。
だが、それはまじめで聡明な、男らしい顔であった。
朱は、彼を二十代のなかば、と見た。


周恩来は静かに思慮深く、そしてはにかみすら見せて二人を歓迎し、椅子をすすめて「何か力になりましょうか」といった。

朱徳はすすめられた椅子を断り、自分よりもかなり若い若者の前にがっしりと立ち、落ち着いた声で過去に何をしてきたかを語りながら自己紹介した。

そしてベルリンの中国共産党の仲間に加わって、旧社会の生活に戻る以外のことなら何でもしたいという決意を周恩来に述べた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-26 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳たち3人は孫逸仙との会見の後、国民党右派の指導者胡漢民を訪れたが、ほんの短時間いただけだった。


「反動そのものだった。香港の買辦階級の典型的な代表人物だった」


ときっぱりと言い切った。


次に訪問したのは汪精衛(汪兆銘)だった。

彼は国民党左派に属し、知識人の指導者でしかも孫逸仙に最も近い人物とされ、評価されていた。

だがその会見以降の汪精衛の無節操と裏切りの15年を振り返ると、思い出したくもない人物だったようだ。

しかも朱徳にとっては政治的立場からだけでなく、人間的にも不快な人物だった。

身振り手振りが女性的で、しかもそばにいた夫人は大金持ちで男勝りだったらしい。


「汪を見ていると娼婦を思い出した」と嫌悪感をかくすことなく叫んだ。


次に文化復興の主要な指導者で、高名な大学教授、輝かしい論客、編集者、そして共産党を組織した中心人物の一人であった共産党書記長陳独秀と会見できた。

陳は当時40歳で、精力的で決断に富み、慎重で軽はずみな行動は取らなかった。

共同租界に接した中国人が密集して住む区域に簡素な生活を営みながら、共産主義運動を指導していた。


朱徳はこの陳独秀との会見を語るのを好まなかった。

理由はその後の過ぎ去った歳月の間の陳を取り巻いた大政治闘争のことだけではないようだ。

朱徳は国民党加入の時のように誰でも希望すれば共産党に加入できると思っていたし、加入後は新しい革命への道に踏み出せると確信していた。


陳独秀は冷静に注意深く朱徳を観察して、軍閥が横行する地域の将軍がどういう理由で中国の貧しい者の党に入りたがるのかと質問した。

朱徳はうまく答えられなかった。

陳独秀は朱徳の軍人としての長い経歴を鑑みて、もう少し時間をかけて研究と誠実な努力が必要だろうといって加入希望を拒んだ。


「みじめな時期だった」朱将軍は、なさけなそうに語った。

「私は希望をうしなって混乱した。
私の片足は旧秩序の中に残り、他の足は新秩序にふみこみ得なかった。
そのころの上海には、雲南省からの亡命者がいっぱいきていたが、彼らは仕事もなく、生活の道をうしなっていた。
毎日、私に金をねだり、私は大儲けをやった男ではない、ということを信じてくれなかった。
説明しても本当にしなかった。
毎日、私を取りまいた。
私は罪人にでもなったような気がした」


1922年の9月はじめに、朱徳と友人孫炳文はフランス客船アルジェ号に乗船した。
いよいよ祖国解放の秘儀を探求する異国への旅が始まった。

                               紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-25 09:00 | 朱徳の半生

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上海に戻った朱徳と友人孫炳文は当時フランス租界に夫人とともに住んでいた孫逸仙の家ですごした。

朱徳が雲南省から脱走した時の仲間の金漢鼎将軍もいっしょだった。


朱将軍は、深い感動とともに、この偉大なる民族指導者との、最初にして最後の会見について回想する。


その時56歳だった孫逸仙は37年間を革命運動のなかで過ごしてきていた。

動作は機敏できびきびしていて、敗北につぐ敗北を経験していたのに、未来に対しては楽観視していた。


「謙遜な非常に誠実な人だった」朱将軍はいった。


孫逸仙は部下の一人の将軍に裏切られて広東から追われていたのだが、その広東を奪回してふたたび共和派政権を樹立しようと計画していた。

そために広西省にいる雲南軍に朱徳たちが戻り、再編成して援助してほしいと願った。

そのための準備金として10万ドルを渡せるといった。

金漢鼎将軍は申し出を了承したが、朱徳と孫は断った。


「孫博士は、われわれの拒絶の理由を、注意ふかくきいた。


朱徳たちは孫逸仙や国民党のこれまでの戦術をもう信用しなくなっていた。


「われわれは、孫博士に向って、われわれは外国留学の決心をしており、ふたたび中国の国事に入る前に、共産主義者に会い、共産主義を研究するであろう、といった。

香港の大ストライキの勝利、また全国の労働運動の勃興を見れば、共産主義者たちが、われわれの必要とするところの何ものかを持っていることは明白だった。


孫逸仙は共産党に対してはまったく偏見を持っていなかった。

そして外国へ行くなら進歩的な制度があるアメリカの方がいいのではと提案してきた。

それに対して、朱徳たちはアメリカに長期に滞在する十分なお金がないことと、社会主義者が最も強いのはヨーロッパだから選んだと答えた。

さらに孫逸仙に「アメリカはあなたの共和主義への闘争を少しも助けてくれなかったではないか」と注意を促した。

孫逸仙は長い革命運動の間、終始アメリカに援助を求めていたからだった。

ヨーロッパ諸国も同じだったが、新しい社会的勢力がある分、頼もしかった。


「孫博士は同意した。

国民党の新政策を制定したいといった。

しかしそれが果してどういうものであるかは、その時は聴くことができなかった。

それが明かになるまでには、二年を要した。

その時に彼は、広東革命政府とソヴェット連邦との同盟を結んだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-24 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳が上海に着く1ヶ月前に、鉄路労働者が第一回の全国労働大会を呼びかけ、一日8時間労働、労働者の人権尊重と教育機会の付与、笞刑その他工場における労働者虐待の廃止を要求した。


外国人であれ中国人であれ、工場主や職場長たちは、手に鞭をもって工場内を歩きまわり、のろのろと働いているものや、機械相手の過労で居ねむっているものを見ると、容赦なくむちうった、という事実を、朱将軍は強調した。


労働者が殺されたという話もよくあることで、賃金も居住環境も劣悪で、労働者に対する保護法もその頃も現時点の1937年にもなかった。


「ただ上海の労働者だけから絞りとられて外国人や中国人のものになった莫大な富に対して、どれほど人間の生命が払われたかを、計算してみたものはない」と朱将軍はいった。


上海では死体運搬車が毎日動き回って、路上の死体を拾っていき、難民墓地に埋められる。

そうした死体は上海では年間3万から5万に達する。

その他親類や友人の手でなんとか葬られた死体や「故郷に帰って死ね」と工場から解雇された疲労困憊した労働者が何千といた。


朱徳は上海の町を隅々まで観察することにした。

大建築と舗装された道路、電気水道の設備がある外国商社や住宅の地域を歩き回った。

彼はまた何千という小工場をのぞいた。

そこには飢饉や戦禍の地方から買ってこられた少年たちが、原始的な機械の前に倒れ死ぬまで奴隷のように働かされていた。


彼の言葉によれば、その市は「少数者には無限の贅沢と堕落、多数者には無限の労働と苦悩の地獄だった」

夜になると、家のない労働者らが、彼らの手が建てた近代的な大建築物のかげの、かたい舗道に寝るのを見るが、「その体は、その上にローラーをかけたように、やせて平ったくなっていた」


資本主義に奉仕する近代科学は、中国では何の利益ももたらしていないと朱徳は考えた。

南洋のイギリス領、オランダ領の中国人移民は夢のような富をつかんでいるらしい噂は聞いた。

西洋の国々は近代科学による楽園にちがいないとも考えたりした。


「ただ一つのことだけは、たしかだった」と朱将軍はいった。

「地球上のどの国にしても、中国のように悲惨なのはない」


彼は上海や南京、北京の街を絶望的な気分で歩いているとき、長く軍人をやっていたので、幻の軍勢が立ち上がって外国人を打ち殺し、海に投げ込む白昼夢が沸き起こった。


「私はながいあいだ軍人だったものだから、私の心が軍人的にしか動かなくなっていたのだろう」


南京では明朝の創設者で朱徳と同じ朱姓の農民で紅巾軍と呼ばれる軍隊を育て、外敵蒙人を打倒した人の陸墓を訪ねた。

それから北京で仕事を辞めて待っていた旧友の孫炳文といっしょに旅をした。


北京政府は、彼が侮蔑をこめていうところでは、「封建のふんぷんたる臭気につつまれた亡霊的政府でしかなく……腐った汚水のたまりでしかなく、そこで旧弊の官人と軍閥とが、政治ごっこをやり、宴会をし、女を買い、阿片を吸い、彼らは、高値をつけるものに中国を売っていた」


孫炳文は朱徳に労働者の夏季学校で教えていた学生たちを紹介した。

朱徳は共産党の指導者に会いたかったのだが、書記長陳独秀は上海にいて北京を留守にしていた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-12-23 09:00 | 朱徳の半生

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舟が揚子江を上海へと下っていく間に、朱徳はヨーロッパに向かう前に3つのことをしようと決意した。

一つ目はアヘンを止めて以来苦しんでいた不眠症を治すことだった。

二つ目は沿海地方と華北、特に南京、上海、北京の大都市をできるだけ見学すること。

三つ目は北京の新聞社に勤めている友人孫炳文を通して、五四運動の指導者や孫逸仙に会うことだった。


上海に着くとすぐに不眠症の治療のためにフランス病院に入院した。

1週間の入院中は友人が持ち込んだ本や新聞を計画的に読破していった。

彼が読んだ新聞は、新しい労働運動やそれを導く共産党の記事でいっぱいだったので、共産党に加入しようと決めた。

共産党の理論はよく分かっていなかったけれど、ただ1つはっきりしていることがあった。


外国の帝国主義者たちが、あらゆる悪口雑言をもって党を攻撃していた。
もしこの党が、中国の外敵によって、脅威と見られているとしたならば、まさにそれこそ朱徳の求める党だった。


共産党は朱徳が上海に来るちょうど一年前の1921年7月1日に創建されていた。

五四運動の申し子であり、反封建、反軍閥、反帝国主義であった。


1922年の1月、朱徳たちが雲南の山地を逃亡していた頃、英領香港の中国人船員たちが賃金引き上げと地下活動していた海員組合の承認を要求していた。

英国人船員は組合を持っていて、賃金の大幅引き上げに成功していたところだった。

しかし香港の英国人は、中国人のあらゆる要求を退けて、要求した海員組合の指導者たちを投獄した。

牢獄では体刑を加えられて、一人が死んだ。


逮捕を逃れていた指導者蘇兆徴の呼びかけに応じて、全船員と香港のすべての労働者がストライキに入った。

イギリス勢力の自慢の拠点香港が50日間麻痺状態になった。

ストライキは、海員組合の承認、少額の賃金引き上げ、体刑を加えられた仲間への謝罪をいうことで終わった。


これは中国人による外国の帝国主義に対する最初の勝利だった。

広東の孫逸仙政府はストライキ基金として20万ドルを送り、多くの中国人の将軍たちは巨額の金を出し、全国の労働者もわずかばかりの金を捧げた。

ソ連の労働者は彼らのために金を集め、イギリス労働党は下院においてこのストライキ問題を取り上げた。


香港労働者の勝利は、中国人民と国家との解放運動における中国労働階級による最初の烽火だった、と朱将軍は言明した。


こうしたストライキの指導者の中に共産党員がいた。

そしてインドのような他の植民地国家と同じように、単なる経済闘争だけに終わるのではなく、軍国主義と帝国主義に抵抗する道へと進んだ。

共産党によって指導されていたからだった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-22 09:00 | 朱徳の半生

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土匪の首領レイの領地を離れると、朱徳の一行は名前を変え職業は商人にして旅をした。

雪をかぶった山岳地帯を馬で越え、大渡河を渡った。

そこは60年前に石達開率いる太平軍が全滅したところであった。

13年後に中国紅軍を率いてここを通過することになったのだが、その経験は大いに役立った。


雅州地方に入って、東方の四川に降りて行った。

朱徳はこの雅州でアヘンを断ち切った。

アヘン中毒を治すために広東の薬草を煎じて飲んでいたが、不眠症や体力の消耗など苦しいもがきは続いた。

一行が朱徳の妻の南渓の家に着いたときにもまだ不眠症に苦しんでいたが、少しずつ克服していった。


四川軍閥の手先が至るところにいたし、逃亡者の到着も知っていたのに、敵が手出しをしないのを朱徳たちは不思議に思った。

彼の妻や旧友たちは雲南府で捕らえられた同志たちの悲惨な最後を語り、一方で四川軍閥は経験を積んだ軍人を味方に入れようと努力しているとも教えてくれた。


一行はすぐに舟に乗り、海岸に向かったが、
朱徳は数日妻子のもとですごすことにした。

息子は6歳になってぺちゃくちゃおしゃべりをして、朱徳のミニチュアのような快活な子どもだった。

朱徳の膝に乗って、本を読むのが好きな子でもあった。


いよいよ朱徳も海岸に向って出発しようとする間際に、四川東部を支配する軍閥楊森から電報がきた。

朱徳を賓客として重慶に招きたいという内容だった。

朱徳は承諾したことを返電し、妻子に別れを告げたが、この時から二度と会うことはなかった。

というのは、13年後に妻子は西方の軍閥によって殺されたからであった。


朱将軍の舟は重慶につき、楊森将軍は、武装の護衛兵の間から踏み出してきて、まるで二人の友情には影がさしたことが少しもなかったように、あふれるばかりの感情をみせて挨拶した。
あたかも劉湘将軍も成都からきて、秘密軍事会議をしているとのことだったが、朱は、その意味をたずねようとするほど無分別ではなかった。


孫逸仙の対軍閥の遠征は失敗に終わっていた。

孫逸仙が前線に出た後、留守を守っていた省長は香港のイギリス銀行家たちに買収されてクーデターをやった。

孫逸仙夫人の宋慶齢は上海に逃れて孫逸仙と合流した。


ふたたび革命は流産した。

北京にいるイギリス帝国主義御用の軍閥呉偑孚が全国を支配していた。

四川の軍閥が呉と同盟を結んでいるが、本心では忠誠を誓っていないこと、楊森も劉湘も互いに相手を裏切って全四川を支配する隙を狙っていることもすべて朱徳は知っていた。


重慶での1週間のことは朱徳はいやいやながら手短に語った。

宴会や麻雀賭博が続き、あふれるほどの酒と歌妓と胡琴の音色、アヘンの煙で包まれていた。

酒をくみかわしつつ、二人の軍閥は朱徳に過ぎた戦争での活躍を誉めそやした。

秋の落葉のように散った兵士のことや、苦悩する農民や踏み荒らされた農作物のこと、さらに孫逸仙や中国の運命については一切触れようとはしなかった。


朱徳が予期していたように、楊森は彼を幕僚として迎えようとした。

そして36歳の敗戦の将軍である朱徳が申し出を拒んだ理由が楊森はわからなかった。

スメドレーも同じだった。


「どうして拒絶したのですか」と私も朱将軍にたずねた。

「私はそれほど老いぼれても堕落してもいなかった」と彼は返答した。

「では、どうして重慶などにいらしたのですか」と私はさらにたずねた。


スメドレーは朱徳の生涯を取り巻いている封建的因襲や蜘蛛の巣のような勢力関係の実体を完全に掴みきれていなかった

その上、すでに力と特権の味を知り、ある程度の生の歓楽を知った貧農出身の男の心の惑いを理解できていなかった。


朱徳は楊森の招きを断れば、彼と家族は危険だったろうし、かつての旧友の革命家がいかに変わったかという好奇心にもかられたと一応説明した。


朱徳は二人の軍閥にヨーロッパに行くつもりだと説明すると、時間と金の浪費と笑われた。


「私が楊将軍に向って、それでも外国留学をするつもりだと答えると、彼は、帰ってきたらいつでも幕僚の席をあけて待っている、といった。一週間の後には私は上海にいた」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-21 09:00 | 朱徳の半生

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敵から必死に逃げていた朱徳たちは、土匪の首領レイからの思わぬ待遇に感謝して、その場でレイにいくつかのライフル銃を贈ろうとした。

レイは丁寧に辞退した。

それからレイは一団を山村の要塞に導き、豚、山羊、羊を殺して宴会を開き、何百人の客を呼んでもてなしてくれた。

さらに亡命者たちがいた10日間で、これから商人として敵地を旅することができるように、みんなの平服を作ってくれた。


朱将軍は、レイ・ユン・フィを深い同情をもって語った。
かれのいうところでは、この男はかつて貧農だった。
すべての貧農の例にもれず、彼もまた文盲であり、その教養といえば「百八人の英雄」すなわち『水滸伝』のような圧政への反抗の昔物語などによって形づくられていた。
1911年革命の前々から、革命のあいだにかけて、彼と哥老会の仲間とは、共和派の同盟会との間に、かすかなつながりを持っていた。
革命時には、彼はこの地方の農民と手を組んで、地主たちを追い、土地を取りあげて分配した。レイは、精力的で、まれに見るほどの指導と組織との才能をもち、農民をあつめて軍隊をつくったが、それはこの1922年には五千人になっており、また珍しいことには、ロロ族さえ含んでいた。
地主階級と四川軍閥とは、彼を凶悪な土匪の首魁とよんでいた。


朱徳はレイが土匪であることは認めていた。

しかし凶作になると、賑やかな町を掠奪して金持ちから取ったものを貧民に分けたので、軍閥よりはるかに潔白な市民だったという。


1911年の辛亥革命が流産して以来、レイは自分の領地に逃げてきた多くの人間を保護してきた。

民間の文学の中で活躍してきた昔の偉大で情深い匪賊の頭にあやかろうとしたのである。

1922年には彼の領地を征服しようとする四川軍閥と戦って追い返してきた。


「彼と私とは友人になり、何時間も中国の現状について話しあったりした。
するどい理解力をもった男で、私に数かぎりないほど質問をあびせかけ、また私に向って、この土地にとどまって相談相手になって指導してほしい、とせがんだ。
私が外国留学の決意をはなすと、がっかりした。
出発のときには、私はもっとも貴重なものー自動拳銃と、立派な美しい愛馬とをおくった。
そのかわりには、ただ山地産の小馬をもらって旅をすることにした。
私はまた、南渓の私の家内の居所をおしえ、彼がその地方に旅行するとか、または逃亡避難の必要があるときには、そこをわが家と思うように、といった。


レイは朱徳が出発のときには何里とついて来て、最後は武装の従者に領地のはずれまで送らせた。


何ヶ月か後に上海で朱徳は妻から手紙をもらった。

レイが朱徳の馬を届けるために南渓の妻の家まで使者を送り、私の安否を訊ねていたという内容だった。

さらに一年後朱徳はドイツで妻から手紙をもらって、わざわざレイが家まで訊ねてきて、自分を連れて帰ろうとしたということを知った。

妻の家ではレイを賓客としてもてなした。


それからまた一年たったころ、私が故国の新聞を見ると、彼は、四川軍閥劉湘の甥とたたかって死に、その領土は奪われた。
私は悲しくてしかたがなかった。
レイ・ユン・フィは、その敵よりもはるかに善い人間だった」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-12-20 09:00 | 朱徳の半生