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夜が明けると、革命軍は城壁内のあちこちに隠れひそむ旧式軍の兵士を引きずり出した。


官邸の中では、寝台の下に、総督が「頭から足まで苦力のいでたち」をしてかくれているのを発見した。

革命軍が、彼の辮髪をつかんで引きずり出し、それからその辮髪を刀で切りおとし、蔡鍔の指揮所にはこびこむと、彼は、おのれが信頼した士官のひとりの顔を見ながら、よろめき倒れてしまった。


帝政派の士官と官吏の多くは銃殺された。

総督は後に北京に去ることを許されたが、この時の恐怖が忘れられず二度と政府の要職に就くことはなかった。


雲南省の他の地方でも新軍が立ち上がり、数日で全省は満州政権をくつがえした。

革命軍の損害は約40人の戦死と100人の負傷者だけだった。


「王朝はまったく腐敗していたから、一吹きすると崩れてしまった」と朱将軍はいった。


10月31日の午後、蔡鍔と他の指導者たちは、集合した市民と兵士たちに向かって演説をし、蔡鍔は雲南共和政権の軍政長官に推された。


朱徳とその中隊は市内の各街路を巡察するために行進した。

彼らは古民謡に即興で新しい歌詞を作って歌った。

その後の長い歳月、朱徳の部隊はつねにその勝利の歌をうたうことになった。


雲南革命軍は喜びにふける暇はなかった。

この蜂起の数週間前に、指導者たちは四川に遠征軍を送って、まだ満州政権を打倒できないでいる革命軍を助ける計画を立てていた。

他省から入ってきた軍官学校の候補生には、秘かにそれぞれ出身の省に送られて革命に参加していた。

四川省出身者にも、成都と重慶の同盟会指導者に連絡をとり、遠征軍の計画があることを伝えるように命令して出発させていた。


雲南軍が南四川の宜賓市に到着したならば、成都と重慶の民衆は起ちあがって、すでに叛乱をおこした他省と同様に、革命軍事政府を樹立するということになった。


蔡鍔将軍は蜂起の直後、みずから四川省人の二個大隊を含む八個大隊を率いて、四川に向かって進んだ。

すでに大尉に任命されていた朱徳もこの遠征に加わり、中隊を指揮していた。


3週間後に宜賓の場外で敵二個大隊と接触した。

敵は凄い叫喚の声を出し古い口装銃で一斉射撃するが、朱徳に言わせれば、旧中国の封建的後進性と無能との縮図に過ぎなかった。

一歩もたじろがず、雲南革命軍は前進を続けた。

敵の部隊は山に逃げ込んでいき、匪賊と合体した。


宜賓は、旗を立て歓呼して、革命軍をむかえ、共和派軍政府が、商人たちと、市にわずかいた同盟会の知識人たちと、雲南軍の代表とで、組織された。


予定よりも遅れたが、なんとか同盟会と哥老会が計画に従って成都と重慶でも蜂起し、共和派軍政府が樹立された。


その後三ヶ月間、朱徳中隊長は自流井という塩井の街を守備し、ときどき匪賊があばれたので小戦闘を交わした。

それまで塩井は匪賊の来襲や他の騒乱のために休業していたが、再開しても労働条件は過酷なものであった。

辛亥革命に共鳴した農民と労働者は再び絶望を味わうことになった。


「1911年革命は、しばらくもたたぬうちに、共和派と外国帝国主義との妥協のために、流産してしまった」のである。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2016-11-30 14:06 | 朱徳の半生

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10月30日夜9時に首都を進撃するという新たな命令が同盟会から出ていた。

非常に緊迫した雰囲気につつまれていたその時、どこかの村から銃声が起こった。

朱徳の中隊長は帝政派の人間だったが、二個小隊を連れて闇に紛れて逃げ出した。

朱徳は残った一小隊を指揮して後を追った。

隊長と何人かの兵は取り逃がしたが、兵士の大部分を連れ戻すことは成功した。


九時前に、すべての兵は、清朝への隷属の象徴であるところの辮髪を切りおとし、真ん中に「漢」の字をつけた赤い旗をかかげ、あらかじめ定められた集結点にあつまった。

九時きっかりに、蔡鍔准将が同盟会の指導者たちを引きつれてあらわれ、最高指揮者の地位についたことを見て、朱徳はおどろいてしまった。


蔡鍔は冷静で鋭い声で短い演説をした。

新軍がただちに雲南における清朝支配を打倒し、すでに北京から独立した共和派軍政府を樹立した13省に加わるという内容であった。


そのあと蔡鍔は何か報告することはないかと訊いたので、朱徳は前に出て敬礼をして、中隊長が二個小隊を連れて逃亡したが、自分が一小隊を率いて追い、兵の大部分を取り戻したことを報告した。

蔡鍔は朱徳にその中隊の指揮をとることを命じた。


「ただちに首都に進撃した」と朱将軍はいった。


途中の村々に駐屯していた旧式軍の兵は次々に新軍に合流してきたが、いくらかは逃げた。

総督から蔡鍔宛てに『匪を弾圧せよ』と伝えるために送られてきた騎兵連隊にも出会った。

蔡鍔がどこへ行くのかと訊ねると、その隊長は蔡鍔への命令を伝達しにいくと答えたので、蔡鍔はいった。


『自分が蔡鍔准将だ』

『どこへ向かわれるのでありますか』と、おどろいて騎兵連隊長はたずねた。

『雲南府に進撃して、満州を倒し漢族を興すのだ』と蔡は答えた。

『お前も漢人だ。――合隊せよ』


たちまち帝政派と革命派が入り乱れる大混乱が起こった。

騎兵は立ち回り、目標を定めず射ちまくり、兵隊は走りながらわめいた。

革命派の哥老会の兵は騎兵連隊内の血盟の兄弟にこちらにこいと呼びかけて、いくらかの兵士は投降したと思ったら逃げたりまた戻って来たりした。


この混乱の最中に首都の北の方から大砲の音が聞こえてきて、追放された隊長羅偑金が率いる四川人連隊がすでに攻撃を開始したことを知った。

革命軍もいよいよ雲南府に向かって急進撃を始めた。


軍官学校の候補生の一団にあらかじめ市内に潜入させていて、本隊が到着したら南門を開けて迎え入れる手はずになっていた。

古く重々しい城門の扉が開いて、革命軍はなだれ込み、各部隊は市内の各戦略的要所を占拠せよという命令を受けていたので、実行した。

城壁上の旧軍は発砲せずそのまま武装解除された。

兵器廠だけは激戦となったが、革命軍の砲手が入口を破壊して、兵器弾薬を味方に配給した。


漆黒の闇だったから、だれも敵と味方とを見わけることができなかった。
蔡将軍は、各部隊は夜明けまでは各自の部署を守れ、と命令した。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-11-29 08:51 | 朱徳の半生

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1911年7月、朱徳は軍官学校を卒業して少尉になった。

その頃帝政派は若い士官たちを恐れて軍隊の指揮は執らせず、ただの見習として軍隊の中に置くか、高級軍人の世話係のようなことをさせた。

朱徳もある中隊長の副官をさせられ、私用のためにこき使われていた。


しかし、数週間後に蔡鍔(さいがく)将軍の旅団に転任になり、中隊の給与係の任務をするようになった。

直接兵士と接触できるので、朱徳にとっては歓迎すべき仕事だった。


10月10日の武漢の蜂起の報告が雲南に届くと、総督は新軍の秋期演習の中止を命じ、すべての弾薬を没収し、四川人連隊の隊長羅偑金を省の辺境に追放した。

旧軍の諸部隊が首都に移ってきて、新式の銃器と弾薬を給与された。

総督の政庁のまわりの防塞を担当した隊長の一人が秘密の共和党員だったので、総督が革命派の嫌疑のあるものをすべて殺そうと計画している情報が同盟会に伝わった。


「総督は、われわれを袋のねずみにしたと思った」と朱将軍はいった。


ところが、秘密の共和党員だった軍官学校長と、総督に立憲帝政派として信任されていた蔡鍔が、数人の共和派を処刑したことが武昌叛乱を早めたので、性急な行動をとらないように総督に注意した。

さらに新軍にも平常通り弾薬を支給して、政府が弱腰になって怖がっているという印象を与えないために、例年の秋期演習を施行すべきだと忠告した。


武昌蜂起の後、朱徳は同盟会から、近くの村に司令部がある旧式雲南軍の師団長の護衛兵の中に政治的煽動をするように指令を受けた。

危険な仕事だったが、護衛兵の中の哥老会員の兵士から接触するようにした。
哥老会員は血盟の兄弟だから決して裏切ることはできない。


「ただ、連中にニュースを知らせるだけで十分だった」と朱将軍はいった。


総督は新軍に弾薬を支給し、中止していた秋期演習も許した。

「弾薬を大事にしろ」というささやきが兵士の間で流れた。

北京からきた帝政派の高級軍人たちは怠け者だったので、雲南府に入りびたって宴会をしたり、アヘンを吸引し陰謀にふけっていた。


10月30日までに演習は終わり、部隊は兵営に戻った。

四川人連隊の一つは首都から1.6キロほどの所にきたが、そこに隊長の羅偑金が追放地からひそかに抜け出して潜入していた。


10月31日の夜半が蜂起の時と決められていた。

しかしその夜の8時に何者かが蜂起の計画を総督に密告したという知らせが同盟会に届いた。


恐れ慌てた総督はウチャパの新軍司令部に直接電話してきたが、蔡鍔が何事もなく参謀もみな帰宅して食事をしていると返答した。

総督は革命派の疑いがあるものはひとり残らず鎖付きで連れてくるように命令した。

 

蔡鍔は答えた。「一時間以内に、みな引き立てて出頭いたします」


実際は、電話をもらったときには帝政派の参謀たちはみな逮捕されていた。

計画は裏切りによってもれたので、新軍の全部隊は夜半ではなく九時に首都に向かって進撃せよと新たに命令されていた。


「われわれは、いったい何が起っているのか、はっきりとは分らなかった」と朱将軍はいった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-11-28 08:56 | 朱徳の半生

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借款の締結が避けられないとわかったとき、孫逸仙(孫文)とその他の同盟会の指導者たちは広東での一大武装蜂起を指令した。

それが発火点になって、清朝打倒と共和国建設への最終闘争が始まることになっていた。


「広東蜂起は、のろわれた鉄路借款をとどめようとする最後の努力だった」と朱将軍は説明した。


その蜂起は1911年の3月末か4月に起こることになっていた。

国外にいた数百人の同盟会指導者たちは3月に広東に集まり始めた。

孫逸仙(孫文)は海外にいる中国人から募った資金で武器弾薬を買った。


ところが、準備が完全に整う前に帝政派に発覚したので、革命軍は準備不足のまま広東の新式軍隊と数時間激しい戦いの後、無残な大敗北をした。

同盟会の主要な指導者72人が戦死し、数百人が負傷し、他は命からがら逃げた。


「惨敗だった。この悲劇は国中の革命勢力に衝撃をあたえた。やっとその時に、同盟会は、心の底から、新式軍隊の兵士の間に、真剣な政治工作がすすめられなければならない」とさとった。


というわけで軍隊への政治工作が全国的に始められた。


同盟会の武装蜂起は敗北したが、鉄路借款への国民的反感はとても大きかったので、北京政府と外国人は6週間後に秘密裡に締結した。

借款の協定の中心人物は、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの部下であるウイラード・ストレイトというアメリカ人で、アメリカの四大財団を代表していた。

中国側の代表は交通大臣盛宜懐という悪名高い官僚の一人だった。

借款締結の後、政府は鉄路の中央統轄を声明した。

それによって、いかなる中国人も政府の認可なくしては鉄路を敷くことができなくなった。


朱徳は四川人連隊の兵士たちとこの憎悪の的になっていた借款について長々と話し合った。

1911年の7月になると、四川省は叛乱にわき立っていた。

商人、産業資本家、学生、知識階級らは成都の総督の役所の前に押し寄せて借款への抗議をしたが、兵隊が多くを殺傷した。

哥老会が率いる農民たちも抗議するために成都まで行進したが、同様に殺戮された。

その後、成都の総督趙爾豊は「人殺し」という名で呼ばれるようになった。


この虐殺の後には、四川の経済生活は麻痺した、と朱徳はつづけた。
人民は税を払うことをこばみ、商人は戸を閉じ、学生と教師とは、組織をつくって、全省を起ち上がらせようとしていた。
「人殺し」は、新式軍隊に頼りきれなくなって、人を見しだい発砲するチベット人部隊を招き入れた。


チベットからの兵隊は、叛乱する村々に向って送られたが、農民たちは待ち伏せして、みな殺しにした。


中国にいる宣教師を始めとする外国人たちは政府に向かって、いまのうちに叛乱を弾圧せよと忠告する一方で、国際的な武力干渉を要望していた。

孫逸仙(孫文)や他の共和主義者たちは、外国語新聞では「半きちがいの理論屋、夢想家、官職に就けない不平家、ひがみ屋」などと呼ばれ、中でも孫逸仙(孫文)は1925年に亡くなるまで外国人によってさまざまな蔑称で書かれ続けた。


このように四川省で人民の叛乱が続く中、1911年10月10日に武昌で新軍が蜂起し、総督を揚子江上の砲艦に追い、やっと最初の共和主義者の軍政府を樹立した。


その時、朱徳たち雲南軍官学校の全員は雲南府の総督の司令部に次々に入ってくる電報の知らせを知っていた。

北京の外国公使たちが、政府が袁世凱の追放を解除して、政府の首脳に復活させることを要求し、1週間後に北京政府がその通りにしたことも知った。


「洋夷の奴隷」袁世凱――その名をきくだけで朱徳は憎しみに燃えるのであるが、――その不気味な姿が、国政の舞台上に、立ちもどってきたのである。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-11-27 09:39 | 朱徳の半生

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朱徳が軍隊内で政治工作をしていた頃、国境の河口の町で同盟会が指導する叛乱が起こった。

四川人連隊はその河口に向かい、国境守備隊を補強し「土匪」の叛乱をおさえるように命令された。


ところが着いて見ると、土匪ではなく学者や商人までが「敢死」の腕章をつけ、手に銃を握って、兵士たちに向かって「夷狄の清を殺せ、漢族万歳!」と叫びながら戦っていた。

連帯は叛乱を鎮圧したが、国境警備隊から数百の兵士が革命軍といっしょにインドシナに逃げ込んで行った。

まるで第二の義和団の乱が起こりつつあるようだった。


兵士たちは、戦って相手を殺す叛乱軍の今までにない勇敢さに驚いた。

一方で四川人軍も戦って敵を殺した。

これから何事が起ころうとしているのか。


兵士たちは朱徳のまわりを取りかこんだ。
彼は、河口の蜂起を指導した同盟会の目的について説明した。
それから、卑屈で無能で無知な異民族の朝廷が、国家を洋夷に売り、洋夷に支払うために重税をかけて、百姓を乞食にして行く、ということも説明した。


どういう具合に国を売っているのか?


それは例えば、英、米、独、仏の銀行屋どもが、北京政府に押しつけてくる鉄路借款を見ればわかるだろう。
引きかえに、彼らは国のすみずみまで鉄路をしく権利を要求する。
鉄路は国のためにいいものではあろうが、外国の金貨がつけてくる条件では、だめだ。
国中が、さらに一歩独立をあやうくしようとする鉄路借款と抗して、騒然となっていた。
そうした借款は、外国人からの幣制借款と結びついてもおり、外国人が北京政府の高位に就いて会計を監督する、という権利を求めていた。

他の国々も、こういうやり方にかかって独立をうしなったのだ。
こんどは中国が屠殺人の台の上に寝かされている。


幣制借款とは幣制改革のための借款を意味する。
この西洋列強の金融資本が計画する鉄路は、南の広東から揚子江岸の漢口まで走り、そこから支線が西に伸びて四川の成都に繋がるのである。

すでに湘南や四川の中国産業資本家は金を集めて自分たちで鉄路を敷こうとしていた。

ところが西洋列強の金融資本は、北京政府にすべての鉄路計画を統轄させ、後に仕上げをしてやるという名目で自分たちのものにしようとしていた。


さらに朱徳はフランス人がインドシナから雲南府に進める鉄路について話しながら、鉄路借款の計画の性質を説明した。

このフランス鉄路利権は北京政府からもぎ取ったもので、最初の汽車が到着するのを見学した雲南軍官学校の教師が急に泣き出すと、続いて候補生全員も泣いたという。


鉄路計画と幣制借款への反対運動は、当時までの同盟会の歴史としては最大の悲劇をひきおこした。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-11-26 08:37 | 朱徳の半生

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新式軍隊が革命運動の弾圧に使用されたということを見て、同盟会は、孫逸仙(孫文)博士からの指令によって、新式軍隊の中で秘密な政治工作をせざるを得なくなった。


朱徳は同盟会によって四川人連隊での工作をさせられたが、新総督が革命側に広汎なスパイ網をめぐらせていたので、それはとても危険な仕事だった。


朱徳は兵士だったころに知り合いになった哥老会員らしき三人の兵士からまず働きかけた。

彼らと人目につかない所で座り込んで、個人的なことや金銭の問題などを話し合ったり、家族への手紙の代筆をしてやったりして、そこから国事の問題を語るようにした。

朱徳が発展させたこのやり方は後に中国共産党の政治工作の範例になった。


しばらくして、朱徳は彼らから哥老会への加入を勧められた。

朱徳は山中の寂しい寺院に集まった多数の会員の前で、古い儀式に従って会員になった。

具体的には数多くの叩頭、手首の血管を切って数滴したたらせて作った酒杯を回し飲みする兄弟の誓をするのであった。


これがおわると、朱は、会の盟約の兄弟愛、平等、互助の精神への死をこえての忠誠を誓った。
それから彼は、ある種の合図や合言葉を教えられたが、それによって、会員は、今日にいたるまで、どこの地に行っても、たがいに知ることができるのである。


これで朱徳は彼らから信用を得たので、政治工作はやりやすくなった。


「兵士らは、ひどくみじめな、動物なみの生活をしてきた、文盲の連中だった」と朱将軍はいった。


「しかも、その多くは、頭がよくて、知識と新思想とに餓えていることがわかって、私を感動させた。私は彼らを尊敬するようになった。
私は部隊をひきいるようになってからは、わたしの部下の兵を、士官が虐待することを、絶対にゆるさなかった。
とにかく、兵士の大部分は貧農の出だった」


ここでスメドレーは朱徳のことばをさえぎって、つまり「神の恵なかりせば、余もまたその仲間だったろう」といいたいのかと訊くと、それを否定して「伯父上の養子となる機会なかりせば、余もまた」と訂正した。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-11-25 16:45 | 朱徳の半生

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朱徳が軍官学校に入ってから数週間もたたない時に、同じクラブに属していた候補生のひとりが「同盟会」に参加しないかといった。

朱は承諾をし、ただちに忠誠の血盟をして、加入した。


この同盟会の組織は、学内で教官たちと候補生だけの二つの支部を持っていた。

さらに候補生だけの支部は7、8人ずつの別々の細胞に別れていた。
細胞間のつながりはなく、各細胞の一人が中央部と連絡をとれるようになっていて、細胞内の裏切りがある場合に備えていた。


十数年後に国の内外で、中国共産党の細胞組織はロシアのボルシェビキから輸入した外来品だと非難する人たちがいた。

スメドレーが朱徳にそのことを話題にすると、彼は笑っていたが、ひょっとしたら中国人は人間以下の動物だからそんな組織力なんてないと考えたのかも知れないと答えた。


彼によれば、細胞組織は、中国の秘密結社の歴史とともに古く、同盟会は、それを旧い哥老会から継承したのである。


同盟会の文献は沿岸地方からこの奥地の雲南に密輸入され、候補生たちは重要記事を筆写して回覧した。

国事が緊迫していたので、秘密の細胞会議では理論的な政治討議よりも軍事蜂起について語り合うことが多かった。


「そのころ、わが民族はこの上ない悲惨におちていた。多くの洪水、かんばつ、飢饉、があったが、その中でも、わけても最大の災害は王朝だった。


哥老会に率いられて餓えた農民たちが立ち上がり、地主、税吏、政治機関などを襲っては、政府の力でたたきつぶされた。

指導者たちの首は町や村の入口の柱に釘付けにされた。

一方同盟会はばらばらの革命蜂起をしていた。


「争闘の二つの流れは、決して交わらなかった。
農民は孤立して死物狂いの争闘をし、同盟会もまた同じことだった。

同盟会員は主として知識階級であって、それに一にぎりの商人その他の中産階級が交じっていたが、その階級的偏見からして、農民と手をつなぐことをしなかった。
結果は、どれもこれも押しつぶされるということになった。


さらに各省の新軍の兵士たちは近代的な制服や武器を与えられていたが、考え方まで変えることはできていなかった。

だから新軍が王朝の手先となって戦ったり、一般兵士を動物扱いするものもまだ存在した。


朱徳は、雲南軍官学校で、一般兵士をあたたかく取扱うという問題を出した最初の人だった。


青年士官のあるものは賛同してくれたが、軍の規則に阻まれ実現できなかった。

1911年の辛亥革命後に孫逸仙(孫文)によって、ようやく兵士の体刑が廃止されたのである。

しかし朱徳がいうには、1927年に南京で蒋介石が独裁政権をきずくと、この封建的旧習は復活させられた。


「蒋介石の士官は、いまでも、兵隊をどなり、なぐり、気が向けば殺しもする」


話を戻すと、1911年の辛亥革命まで、上流階級はいうまでもなく中産階級、革命指導者たちでも、一般市民や兵隊のための民権を考える人は皆無に等しかった。

大部分の同盟会員すら、人民には与えてやるという上からの立場だったし、兵隊は進歩的な若い士官の消耗品でしかなかった。


「われわれには、革命の指導原理はなかったのだから、血みどろの経験で学ぶほかなかった」




紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-11-24 10:37 | 朱徳の半生

蔡鍔 革命への道③ー3

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軍官学校の教官の一人は蔡鍔(さいがく)准将という、省総督の信頼を受けた青年将校だった。

スメドレーはもしこの人がいなかったら、中国の歴史の流れはかなり違ったものになっていただろうという。

蔡鍔はその当時まだ27歳で朱徳よりわずか4つ年上にしか過ぎなかった。


蔡は湖南の出で、貧しい読書人の息子だったが、その年少のころに、梁啓超――有名な学者で、1898年の改革運動の指導者――の弟子になった。
その、当時のもっともかがやかしい論客梁啓超は、湖南の長沙に、最初の近代的学校にひとつを設立しており、蔡はそこに学んで、その才華をうたわれた。
蔡は、それから日本に渡って、軍事学をまなび、それから中国に帰って、雲南省の新軍建設を助けていたのである。


蔡鍔の体が弱く色が白いところは典型的な知識人階級出身の特徴であると朱徳は回想した。

しかし、両目の間はひろく、顎はやや女性的だったが、口元には不屈の頑固さが感じられた。

態度は控えめで礼儀正しく、自己にも候補生にも厳格だったという。


一見弱々しいこの男が、生まれながらの組織と行政との手腕を持ち、最も悪賢い官僚もだませる能力を持つ活動的な指導者であったことが後にわかるのであった。


蔡鍔の旅団の司令部は軍官学校構内にあり、彼は毎晩遅くまで仕事をしていたので、朱徳は時おり自分の学習のことで相談しに行った。

蔡鍔の事務室の壁には日本語と中国語の本がぎっしり並んでいて、朱徳は持ち出して読むことを許された。

ワシントンの伝記やモンテスキューの『法の精神』、梁啓超や康有為の著作などを繰り返し読んだ。
この『法の精神』は中国で最初に翻訳された外国の著書の一つで、改革主義者たちに大きな影響を与えた。


そのほか新聞もあった。

蔡鍔の故郷の湖南からの新聞や時おり香港、東京からの共和派の秘密裏に発行されたものもあり「あらゆる帝政派を猛烈に攻撃し、清朝を武力でくつがえすべし」と紙面で叫んでいた。

蔡鍔は朱徳が事務室内でそういう新聞を読むことは許していたが、自分の意見は一切言わなかった。


それどころではなく、蔡は王朝にさからうような言葉はひとつも口にしなかった。
ほかの多くの教官とちがって、彼は、どの講義の中でも、革命思想を吹きこんだりすることはなかった。
来る月も来る月も、彼は、昼間は、奴隷労役とでもいいたいほどはげしく、学生ともどもに勉励し、夜になると、ひとりになって、静かな、ひかえ目な、隠者めく生活をした。


朱徳は蔡鍔の天才的な頭脳と仕事の才能ぶりを尊敬し、強くあこがれた。


この農民とその知的教師との、へだたりは大きかったが、いいあらわしがたい共感と友情とが、二人のあいだに生れ、年とともに熟していった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-11-23 09:55 | 朱徳の半生

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朱徳が雲南に着いた頃の雲南軍の状態はすごく複雑だった。

旧来の封建的な地方軍のほかに、2、3の都市では新軍の連隊や師団が編成されつつあった。

雲南省では何年も前から四川省人の連隊が1つだけ存在していた。

その連帯を中核として新制第十九師、つまり新式軍隊の中心となるものがウチャパで編成されていたのである。

その連隊は高度に訓練され武装されていたので、そこから士官と兵の多くが雲南省人の新連隊を訓練するために送り出されていた。


新制第十九師は、クルップ製ライフル銃、機関銃、野砲で装備されていた。

満州人の総督は、これを、おこりくる革命運動から朝廷をふせぐべき具と見ていたのである。

北京朝廷は、華北人の高級士官を送ってきたが、彼らは帝制派であって、枢要の地位におかれて、危険分子の疑いあるものに対して、高級スパイとしてはたらいていた。

若い士官の多くは、同時に軍官学校の教官になっていたが、日本で学んできた連中であった。

そのあるものは、共和主義の秘密結社、同盟会の会員であろうと疑われていた。


帝政派士官たちは、原則的にすべての青年士官に疑いをかけていたが、総督は2、3のものを信用して機密をゆだねたりしていた。

一人は軍官学校長で、もう一人は通常は蔡鍔(さいがく)という名で知られている新軍の第三十七旅団長であり学校の教官でもあった蔡松坡だった。

もう一人は30代半ばの四川連隊の隊長羅偑金であった。


朱徳とチン・クンはひとりの若い四川軍の隊長と知り合い愛郷心に訴えて、入学について保証人になることを承知してもらった。

しかし、その若い隊長は二人は四川省人だから不許可もありえることをいってくれていた。

二人は入学試験を受けてどちらも合格したが、チン・クンは許可されたが、朱徳は不許可になった。


朱徳は打ちのめされた感じになり、納得できずにチン・クンにこの扱いの違いについてたずねてみた。

チン・クンは少しうろたえながら、実は不許可になることを恐れて迷った挙句、郷里を雲南省のある市の地主の家出身と申告したという。


「それはいい教訓になった」と朱将軍はいった。「今後はあまり正直にはやるまい、と決心した。


この時点で朱徳はお金を使い果たしていたので、別のルートで軍官学校にもぐりこむまで、食いつないでいかなければならなかった。

当時、教育を受けたものが兵になることは考えられなかったが、仕方がないので、四川人連隊に兵として志願した。


四川出身の若い隊長は朱徳の動機を理解して、入学の便宜もはかると約束してくれた。

この入隊の時に、今までの名を捨てて、「朱徳」という名で登録し、生れた場所も雲南省のある市とした。

そのために朱徳は雲南省人だと伝えられるようになったのである。

 

朱徳はみじかい期間、四川連隊の一兵卒として基本的訓練を受け、兵としてのあらゆる義務労働をした。

その間に旧い農民秘密結社の哥老会員らしき兵とも知り合いになることもできた。


「基本訓練をおわるとまもなく、昇進して中隊の内務係になり、それから二、三週もたつと、中隊長が、軍官学校で士官の訓練を受けるようにと推薦してくれた。
連隊長羅偑金はその推薦をみとめたので、私はふたたび、――ただし今度は雲南省人朱徳として、入学試験場にあらわれることになった。
それに合格して、五百人の候補生のひとりになり、小遣銭までこめて、一切のものを給与されることになった。
それは、また一つの、生涯の大事件であった」


雲南軍官学校は日本の士官学校を手本に作られていたので、学課と訓練が厳しかった。

日曜日は休めたが、夏休みはなかった。

学課が6時間、訓練が2時間で軍事学、地理、数学、歴史、国際問題などが教えられた。

候補生のクラブがあって、夕方はそこに集まり国内外のあらゆることを論じ合ったという。


朱徳がこの学校で友人となった候補生は、将来革命に身をささげた愛国者、腐敗した官吏、裏切り者の軍閥になるなど後の歴史をつくる人になったものもいたという。

再会したシ先生の塾での親友ウ・シャオ・ペイは学校の歴史の教官になっていた。

朱徳は今まで以上に猛勉強をして、中国を隷属から救い出す道を進んでいるという自覚を持った。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-11-22 11:11 | 朱徳の半生

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1908年の12月半ばに成都に踏み入った若者は、二年前の、ぶざまではにかみ屋の百姓のせがれではなかった。もはや二十二歳であり、経験もつみ、自信もあった。

といっても、世なれた男というところまではいっていない。

心にはげしい痛手もあった。

その頃から数年間の彼の態度と行動とは、やはり農村青年の無邪気さと単純さとを物語るものであった。


成都でチン・クンと落ち合った朱徳は、事前に雇っていた帆船で雲南府に向かった。フランス人の家で料理人としての就職を希望していた人と船頭との4人の船旅だった。


船首船尾は雨ざらしだが、中央部にむしろ敷の部屋があったので、夜はそこで寝て宿泊代を節約した。

帆船は南の揚子江に向って奔流する危険な流れを下っていく。

雄大な峨眉山系をつらぬいて走るときは4人は必死に船を守った。

両岸は垂直にそそり立つ断崖で原生林になっていて、はるか彼方には昔から数々の伝説が作られてきた聖山の峰々がそびえていた。


やがて揚子江岸の宜賓に上陸した。

そこから寝具と衣類を巻いて肩にかけ、大江を渡って山に登り始めた。

夜は狭い道にある宿場で泊まった。


見あげても見まわしても、人跡未踏の、雪におおわれた山々がつらなり、そのあちこちに真黒な尖り峰が突き出していて、まるで荒れ狂う大洋が一瞬に石に化した、という感じである。


朱徳はこうして険しい山道を行く間に、うわさに聞いていた雲南省の貧しさを見た。

低くて汚い小屋のような家が続き、首に大きなコブが垂れるアヘン中毒の人間が家畜や毒虫と同居していた。

小屋のまわりの小さな畑にはほとんどアヘンのためのけしが栽培されていた。

3年前にけしの栽培は禁止されていたが、それでも雲南省の歳入の主要部分になっていて、人口の四分の三はアヘンを吸っていた。


1909年の2月に成都を出て11週間後に、ある峠から当時は雲南府と呼ばれていた旧都昆明をはるかかなたに望んだ。



雲南府に着くと、いっしょに船旅をした料理人はどこかのフランス人の台所で働く場を探すといって別れた。

朱徳たち二人は宿屋に泊まり、チン・クンは軍官学校にいる成都出身の友人に手紙を書いた。


朱将軍はいったが、当時は、他省のものは、古くからの居住者か、雲南の良家かの後立てと保証とがあるかでなければ、雲南軍官学校に入ることはゆるされなかった。


返信を待つ間、二人は熱心に雲南の町や近郊を見物し、中国の農民と山岳民族のロロ族やシャン族がごった返す市場もたずねた。

二人は自分たちを近代的な教育を受けた青年と思っていたが、まだまだ多くの迷信や偏見、神話的歴史観を持っていたので、ロロ族を野蛮人だと考えていた。

朱徳たちは、雲南を開明したというのは神話であり、本当は民族の裏切者であった17世紀の呉三桂将軍の暴政の遺跡も見学した。


連絡を受けたチン・クンの友人がまもなく二人をウチャパにつれて行き、彼らはそこで四川軍の士官たちと知り合いになろうと計画した。


何年もこの省に住んできた士官の交友をもとめて、その後援を得るならば、軍官学校に入ることもゆるされるはずだった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2016-11-21 08:55 | 朱徳の半生