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塾での朱徳は勤勉で従順な生徒だったが、次兄は勉強が好きではなかったので、朱家は彼を退校させて畑仕事をさせた。

長兄は要領よく勉強し、余った時間は好きな楽器を演奏することに夢中だった。


第一学年が終った時、朱家のものは、どうせ高い授業料をはらうほどならば、いちばんえらい先生に教えてもらった方がいいのだ、と決めた。


地主の丁一族は自分たちの子弟のために五世代が住む広大な邸内に家塾を持っていた。教師も科挙に合格した「秀才」の資格を持つ一族の人だった。


朱徳の養父は、地主の丁家の執事の補佐に朱徳と長兄を家塾に入れてもらえるように粘り強く嘆願した。

とうとう丁家は先生の給料の一部を払うという条件で入学を許した。


「丁家は大金持だった。だが、いつももっと金をほしがっていた」朱将軍は、にがにがしげに軽蔑しながらいった。「われわれは、前の塾でと同じ従業料を出させているくせに、タイ・リーと私とは半日しか来てはいけない、というのだ。だが、われわれはその取決を承諾した」


丁家のある者はアヘンを吸い、すべての男が妾を持ち、身の回りのことはすべて家の奴婢たちがした。

36人ほどの丁家の息子たちは、塾には出てくるが、勉強はせず、一日中遊び暮らしていたらしいが、先生は罰しなかった。

後に成都に最初の近代的学校ができたとき、丁家の息子たちは一人もこなかったらしい。

それぐらい堕落して学問を尊重する気風は無くなっていた。


一方、この先生は朱徳たちがちょっとでも間違いをするとしかりつけた。

但し、二人は一生懸命勉強したので、しだいに大事に扱ってくれるようになったという。


さて、この塾に通っていた頃にも丁家の息子たちから、朱徳たちは百姓のせがれとして辱めを受けた。

最も腹立たしい思い出は梨のことだった。


ある時、家の近くの木からもいで、塾に持って行って食べようとした。休みの時間に、丁の一人が彼のところにやってきて、梨をうばい取って、食ってしまった。


その子は「お前らのものではない」といったので、長兄が殴りかかり朱徳も手を出して喧嘩になった。

先生は朱徳に少しだけ叱り、丁の息子らに朱徳たちをからかうなといってくれた。


その事件の後では、丁のせがれたちは、私の家にやってきて、うちの木の果物を取って食った。私たちはやつらを棒で追っ払った。やつらほどしゃくにさわるものはなかった」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-10-30 16:25 | 朱徳の半生

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朱徳が塾へ入学したのは1892年のことだった。


三人の少年は、みなさっぱりしたズボン、上衣、円帽子、サンダルを持たなければならなかった。頭のてっぺんは剃り、残った頭髪は洗って油をつけて、きれいな辮髪にあまれた。


隣近所の人たちは尊敬をこめて、今までの「小犬」というあだ名ではなく、朱徳のことを老三と呼ぶようになった。


中国では、学問に対する古代からの尊敬の念が、人々の心に深くきざみつけられていた


入学の日には家中のものが夜明けよりはるか前に起きて、少年たちの支度や先生への接し方などの教訓を与えることで時間をすごした。


一家のすべてのものは、彼らの姿が朝霧のなかに消えてしまうまで見送った。朱将軍は、あの時に自分をつつんだ深い厳粛な気分を、はっきり思いうかべることができる。


ところが、学校には朱徳たち以外に16人の少年がいたが、みんな小地主の息子だった。


学校の十六人の少年にとっては、百姓のせがれが入学した光景は、まるで三頭の水牛が経典を学びに教室に入ってきたようなものだった。


朱徳たちは「水牛」とあだ名されながらも、卑下することなく、何週間もいじめに耐えた。

しかしとうとう我慢できなくなって、まず長兄がひとりの一人のいじめっ子にかかっていき打ち倒した。次兄と朱徳は加勢にきたいじめっ子たちと戦った。結局腕力のない小地主の子たちは逃げた。


罰せられたのは朱徳たちだった。

差し出した手をたたきつけられ、一日中壁に向って立たされたので、いじめっ子は愉快そうに笑った。

朱徳は少し泣いた。

家に帰ると事情を知った父親が三人の息子を鞭打った。

最後は朱徳の養父がいじめっ子らの方が悪かったのだといって留めた。


朱徳たちは作戦を考えた。
いじめられたら、やり返したが、すぐに教師のところにいき「たたいてくれ」といって手を差し出した。

いじめっ子たちはそれを見ると怖気づいて、関わらぬようになって、しばらく敵意に満ちた休戦状態になったという。


この学校では、『三字経』という儒教の教えや古い韻をふんだ対句集から習わされたが、教師から意味を教えてもらうことはなかった。

意味はいずれ明らかになるだろうということで、記憶するまで、完全な発音をする練習を求められた。


全教室は、大声で教科書を朗読し、何度も何度もくりかえし、めいめいが異なったところを朗読し、めいめいが、自分の声を、この騒音のなかに聞き分けようとする。


正午には昼食を食べるために3.2キロほど離れた自宅に戻り、また塾に戻り夕方まで勉強した。


初歩を終えると、『百家姓』『千字文』『幼学詩』『孝経』にうつり、やがて四書五経のすべてを習得した後、官吏登用試験である科挙に合格して官吏となって、家産が豊かになっていくことが期待された。


朱将軍はいった。旧式の塾では、数学、地理、自然科学、近代史などの近代の学問は教えなかった。根本理念は、古代聖賢は、知るに値打のあることをすべて知りつくしていたのであり、したがって後代のものは、ただその聖賢の書を諳んじておればよろしい、というのだ、創意とか独創とかは野卑な事柄であり、危険ですらある。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-10-29 18:24 | 朱徳の半生

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朱徳はスメドレーの前で幼少の頃の小さな記憶や印象を語り始める習慣ができつつあったのだが、まだ生きるか死ぬかの革命途上で忙しい身だった。

スメドレーが男性だったら、このあたりは軽く聞き流す程度で終わっていたように思われる。

しかし彼女は、朱徳から時間の無駄と切り捨てられそうなエピソードを執拗にせがんでやっと聞き出すことができた。

その1つが清朝の兵隊のことだった。


いくつの年だったかは忘れた。非常に小さい時に、家の前の丘に立って、例の大街道をみつめていた。すると、あらあらしく不気味な、身ぶるいさせるような叫びが、ながながと、微風に乗ってながれてきた。


それまでに、旅人から山の虎が激しく吠えると、鹿は恐怖で立ちすくんで動けなくなると聞いていた。

幼い朱徳はその場にとうとう遭遇したのだと思った。


ところが、あたりを見回すと、大人たちは隠れ場所を探して田んぼの中を右往左往していた。

祖母と長兄は戸を締めた家から朱徳に戻ってこいと叫んでいる。

朱徳は恐ろしくなって、急にぎゃあと大泣きした。

長兄は家から飛び出してきて、朱徳の口をふさぎ、無理やり家の後ろの竹やぶに引きずり込んだ。

ふたたび恐ろしい叫喚怒号が響き渡った。


朱将軍によれば、そのころには、帝国の兵隊どもは、「怒鳴り行進」というのをやって、人民をおどかし、追いちらすのであった。そういう習慣が、いったいどこから起ったかは不明だが、彼が想像するところでは、おそらく清(満州)朝が中国を征服したてのころ、兵士と人民とが親密になるのをふせぐために始められたことだろう。


竹やぶから二人の少年が見たものは、彩色したボタンとふちから房が垂れている円錐形の白い帽子をかぶった将校だった。

馬に乗ってやってきたが、上衣は赤く、袖口と肩のところには位を示す刺繍の印がついていた。


その後をおそるおそる漢民族によって組織された補助部隊の緑旗軍が、黒いズボンと椀帽子で、わらじをはいて、いろいろな武器をかついでふんぞり返って歩いていた。

この兵隊たちが、一斉に恐ろしい叫喚怒号の声をあげるのだった。

この行進が通りすぎると、大人たちは口汚くののしった。


朱徳はこういう清朝軍を年ごとに見てきた。

彼らは卑屈な奴隷で、低い将校ほど威張っていたという。


朱徳は、兵隊とか税吏とかのことを思い出すだけで、にがにがしい気分になった。彼がそういうものを口にする時に、私が受けた印象では、彼はそういう思い出を忘れようとしているようだった。というのはそれは中国の奴隷性と弱さとを外国人に見られる、ということになるのだったから。朱将軍には、民族的人種的な誇りが深く根をおろしていた。


農民は惨めで苦しい生活をしながら、毎月やってくる税吏が要求してくる新たな税に喘いでいた。

さらに、税が払えなければ牢獄に入り、牢獄に入ったものを養うのも家族だったし、釈放されるには賄賂が必要とされた。


「私だけが選ばれて教育を受けるようになったわけは、そういうところにあった」と朱将軍は説明した。「税吏にしても、そのほかの役人や軍人にしても、教育のある人間をばありがたがったり、また一目おいたりしたから、私の家族は、一人ぐらいは学校にやらねばなるまい、と決定した。


当時は公立の学校はなく、学者が開いている私塾の授業料は金持ちでなければ払えないぐらい高かった。

だから農民の子は通えてもせいぜい一年か二年ぐらいだった。


「私の家は、よそよりも恵まれていた。じつによく働いて、銅貨一枚もむだにせず、かなりのものをたくわえた。はじめは、この蓄えで、先祖代々の大湾に抵当に入った家を取りもどそうという計画だったが、年寄のものたちが、兄二人と私とを、できるだけ長いあいだ塾にやろうと決めた」


こうして朱徳の養父の努力のおかげで、すこし離れた場所の塾に三人は通えることになった。



青字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-10-28 14:21 | 朱徳の半生

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太平天国のために現地で働いた外国人が一人だけいた。

オーガスタス・リンドレーというイギリスの軍人で、帰国後1866年に太平天国の乱の真相を書いた本を出版し、イギリスを非難した。



リンドレイは痛烈に基督教列強の「おのれの信教への真黒な叛逆」を責め、ただ自分が祈り得ることは、イギリスが、「近代アジアの最初の基督教運動を圧殺した罪の報いを受けなければいいが」というだけだ、と宣言した。


他の共産党の指導者と同じように、朱徳もこの太平天国の乱を熱心に研究した。

彼は、「乱」ということばを使わず、民族の独立のために根本的な変革を目指したということで「革命」と呼んだ。


そしてリンドレイは基督教運動と表現したが、それに対して彼の考えは少し違っていた。


イギリス人リンドレイとは意見を異にして、彼はこの革命のもつ宗教色はただ偶然のものに過ぎぬと見る。中国でのほとんどすべての社会動乱は、過去のヨーロッパの類似の動乱と同じく、宗教的な色合をおびる、と彼はいう。


そして太平天国の革命が挫折した原因は、農民を完全に組織して農地改革を最後まで実施できなかったことと、革命を指揮していく政党組織を発展させることができなかったことにあるという。


しかし、キリスト教精神から、封建的儒教、偶像崇拝、祖先崇拝などとも敵にすることで、貴族、商人、地主階級らとも敵にまわしたので、彼らから反撃をされることにもなるという弱点や過失もあったが、大衆は決して忘れることのできない記憶として語り継がれることになった。


この頃、カール・マルクスは新聞社のロンドン通信員だったので、太平天国について論文をいくつか書いていた。

朱徳はリンドレイよりもマルクスの書いたものを評価していた。


さらにマルクスはいうーー「外国人に抗する争闘においての、中国南部」の狂熱そのものが、古い中国国家が遭遇している極度の危機の意識を表象するものと見られるのである。古い帝国の断末魔のもがきが起りつつあり、全アジアに、新時代は開けつつある、とも彼は宣明する。


朱徳の念頭には、中国共産党は太平天国の過失を研究して、二度と同じ過失を繰り返さないということがいつもあった。


太平天国が弾圧されると、中国は中世の社会に戻され、その後数世代にわたって農民の一揆はあることはあったが、すべて自滅していった。

太平天国が断固として禁じたアヘンも再び蔓延していった。


「わが国民は暗闇の中に生きていた」朱将軍はいった。

「みなはその運命を呪っていたが、出てゆく口がわからなかった。何度も何度も叩きつぶされた。こういう蜂起の指導の任に当るべきだったろうに、知識階級は、下層民を軽蔑しながら、知らぬ顔をしていた。


「わが国民は百年のあいだ解放のために悪戦苦闘したが、最初の最大のものが、この太平革命だったのだ。



青字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-10-27 17:05 | 朱徳の半生

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ちょうど太平天国の乱が始まった頃は、ヨーロッパでは多くの大発見がなされていた時代で、その多くは近代戦の武器の製方を知らない中国やその他の国を制圧するために使われた。

またヨーロッパの中産階級は進歩的な社会改革を求めていた時代でもあった。


マルクスとエンゲルスは1848年に『共産党宣言』を出版し、国際的な労働者の団結を組織していた。

同じ1848年にはヨーロッパ各地で革命が起こり、ダーウィンの『種の起源』は1859年に出版されていた。

インドでは1857年にイギリスの植民地支配に対する民族的反抗運動である第一次インド独立戦争が起り、1861年にはアメリカでは南北戦争があった。


スメドレーは当時の世界情勢を鑑みて、太平天国の乱に介入した西洋列強を非難する。


ヨーロッパとアメリカの進歩勢力は、たがいに力づけあい慰めあっていたのだが、はるかな、孤独の中国の太平運動は、同じく封建との闘い、また帝国主義との闘いをつづけていたのであり、――もし、西方の反動勢力が中国反動の援助に来なかったとすれば、勝利をおさめていただろうと思われるのだ


太平軍は地主から土地を没収し、耕す農民に分け、女性を解放し、売春、酒、タバコ、アヘンを禁じた。そしてキリスト教の礼拝のような集会を守った。


この穏やかな日々は15年続いたが、やがて内紛などのために堕落していった。

しかし、太平天国を決定的に破滅させたのは、1858年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)だった。


この戦争はイギリスとフランスが北京政府に仕掛けた戦争だった。

敗北した清朝政府は天津条約で、イギリスのアヘン輸入と販売が公認され、巨額の賠償金が課せられること、開港場に設けた税関がイギリスの管理下におかれることを約束した。

太平天国はこの条約が履行されることはさらなる中国の隷属化に繋がると徹底的に反対した。


すると、外国帝国主義者たちはーーそれまでは大体のところは中立的だったのだが、今やその砲口を太平天国に向け、満州軍や地主階級の軍と合体して、彼らの手先になることを拒む基督教勢力を踏みつぶす仕事に取りかかった。


さらに外国人宣教師たちも裏切ることになる。


この時、外国宣教師たちは、たちまち発見をしたーー太平の徒は真正な基督者ではなく、その洗礼のやり方はまちがっており、その教義は孔子教によって汚されており、結局のところつまり彼らはニセものである。それで西方の基督教の強国と宣教師たちとは、満州朝と中国地主、――まぎれもない「異教徒」、頑固な封建倫理体系としての儒教の支持者、いかなる形の基督教へもの執念深い仇敵、であるものを応援することになった。


石達開とその軍が1864年に大渡河で敗北した翌年、清朝と地主の連合軍が、イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮する外人傭兵部隊といっしょに曽国藩の総指揮下に入り、南京の城壁を破り、男女を問わず30万人を殺戮した。

太平天国の第一の首領洪秀全は自殺したが、死体は掘り起こされ犬に投げ与えられた。

「忠王」と呼ばれた指揮官李秀成も捕えられて、曽国藩のもとに送られ、深夜に殺された。



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by far-east2040 | 2016-10-26 13:05 | 朱徳の半生

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石達開が成都で殺された一年後、南京で李秀成の太平軍本部隊ももっと残忍な方法で滅ぼされた。


そして後世の人たちは、太平天国については、二派の文献の影響を受けるのであった。支配階級は。官許の文献に教えられて、曽国藩を偉大な英雄的政治家とし、彼が征服した太平軍とは、二百万人を殺戮し国土を荒らした無頼無法の徒だとした。一般人民、つまり中国人口の八十%以上のものは、民間伝承や地下にもぐった民間文学につちかわれたが、それらは、太平軍の人々を、貧しく虐げられたものを救う英雄として描き出し、それを征した満州賊と洋鬼とを憎むのであった。後年の中華民国の父となったところの孫逸仙は、叛乱がつぶされた直後に、南部の貧農の家に生れたのだが、後の文学によって養われたのである。はるか西の地の朱徳たちも、またそうであった。


ずっと後に毛沢東や朱徳が創建した中国紅軍は、この太平天国の乱を熱心に研究し、同じ過失を繰り返さないようにした。

さらにこの太平天国から多くの法や戦術を採りいれたことは偶然ではなかった。


紅軍の後身にあたる中国人民解放軍は、太平天国の乱を中国のブルジョア民主主義革命の起点であり、太平が始めたことを完成させることがわが軍の歴史的使命であるとした。


では、悲劇で終わった太平天国の乱とはどのようなものだったのか。

太平天国の乱の兆しは1847年に起こっているが、それよりはるか以前に中国の情勢は、しだいに清朝の専制への反抗の気運が高まっていた。


1839年イギリスとの第一次アヘン戦争で敗北したあと、1842年に南京条約で中国はイギリスの半植民地状態になり、ますます人民の反抗心は高まった。

さらに華南では大飢饉が起り、匪賊海賊が横行し大量の餓死を招いた。

清朝は有効な解決策を持たなかった。


そんな混沌とした災いがうずまく地域に、プロテスタントのキリスト教が入ってきた。


中国人は福音書を読み、まずしく虐げられたものの平等と友愛ということを、彼らの身に引きうつして解釈した。


この地域の片隅で始まったキリスト教信仰運動を外国人宣教師たちは中国新時代のあけぼのとたとえて喜んだ。これが事のはじまりだった。


1847年に、学校教師の洪秀全なるものが、広東のアメリカ系バプティスト教会での何年かの勉強ののちに、生れ故郷の村に帰った。自分の家族や隣人たちの改宗受洗をした後に、洪とその新改宗者たちは、上帝礼拝の熱心な集団をつくり、それが数年とたたぬうちに、華南一帯の農民のあいだに蔓延したのである。満州朝は、ただちにこの上帝礼拝の群に、破壊思想の秘密結社と極印を押したので、基督教徒たちは対抗的に私兵団を組織し、まもなくそれは、弾圧のため送られてきた官兵と衝突して、たたかうことになった。


この戦いが激しくなるにつれて、多くの古くからあった反満秘密結社が合流してきた。

さらに学識がある人々も、新しい信仰と清朝の暴虐への憎しみから参入してきた。

その一人が富と教養に恵まれた若い客家の地主の石達開であった。

彼は、キリスト教徒の私兵団をしっかりした軍に組織するための基金に自分のすべての資産を提供した。

1851年に組織されて、軍旗も士官の上衣も紅かったこの軍は太平軍と呼ばれるようになった。

二年後には全華南を勢力下に入れて、南京に太平天国を建て、北京にある清朝と対峙した。


中国に対してやさしくてしっかりした眼差しを向けるスメドレーは以下のように語る。


この太平革命が、西方世界での人間努力の大潮流を知らず、孤立無援に存在し、たたかっていた、ということこそ、この民族の高邁な英知と偉大な精神力とを隈なく、明かに証してるのである。それであるのに、西方世界は、その当時だけでなく、その後の百年間にわたって、この民族を、反動的で無知で蒙昧で愚純なものと見てきたのである。



赤字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-10-24 16:39 | 朱徳の半生

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機織じいさんは幼い朱徳に請われて、清朝の圧政や役人や西洋列強の暴虐を憎々しげに語り始めた。
続いて人民のために立ち上がった大平軍の総大将である忠王李秀成の活躍を語った。

そして機織じいさんの太平軍の首領だった石達開はえらい学者だったのに、少しもえらぶるところがなく、兵士たちからの儀礼的な態度も求めず、いかに慕われていたかを熱く語った


石達開の軍が清朝の軍を追い払うと、抑圧されていた人民から大歓迎を受けたこと。
しかも地主から土地を取り上げて、耕すものに分け与えた。
そしてすぐに別の地域に出発した。

四川省だけでなく中国全土から清朝の軍の協力者を追い払う勢いだった。


敵はわしらを盗賊だの匪賊だのとぬかしたが、人民はわしらを救い主だといった


ところが、達石開は4万人の兵を引き連れて、西から成都に攻め込もうとしたが、敵の戦略で大渡河を越えることができなくなった。

敵は河岸に「降参したものは命をゆるす」と書いた紙を立てたが、「戦っても死ぬ。戦わんでも死ぬ。それならいっそう戦おう!」といって進んでいった。

西洋列強の大砲が火ぶたを切った。

石達開は惨状を目にして、祈ったがどうすることもできず泣いた。


結局太平軍は清朝の軍の協力者や西洋列強に南京を攻め落とされ、兵士も突き崩された。
運良く生き伸びた機織じいさんも元の機織になった。


その後の石達開の話は朱家では何度も何度も聞いて知っていることだったけれど、必ず誰かが続きをたずねた。


「御用の学者どもは、満州に仕えた曽国藩は大将軍で大学者で、太平軍を打ち負かした、なんかとぬかす。勝ったものが歴史ちゅうものを書くんでな。だが、満州と郷紳めらの手の中の鉄砲大砲が、わしらを負かしたんだ。曽は洋夷を恐れたが、中国の人民の方を、もっと恐れたんだ。満州人と、虎みたいな中国人の地主と、陥した街や村で人殺しをやる洋夷どもとの連合軍を、曽は引き連れたんだ。わしらは、負かした相手も大事に扱い、ひもじいものには食物を分けてやり、困ったものには利息なしで金を貸してやったが、わしらの敵は、人っ子ひとり助けはしなかった。あの大渡河で、総督の軍が、降参すれば身分は自由だと約束した時に、生き残った石達開軍は降参した。すると、武器を取り上げ、大樹堡に連れて行って、みな殺しにしやがった。満州人めらは、人の道など知るものか。


こういう悲劇を経験した後、まるで聖書の中のイエス・キリストのような奇跡物語のように、石達開にどこかで会ったとか見かけたという人民が多かった。


話がそれるが、私の好きな作家ハン・スーインの父方の祖母はこの曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。彼女は自伝的中国現代史を書くときいろいろな資料を集めたが、先祖の墓石を始め文字で書かれた武勇伝に困ることはなかった。勝ったものが歴史を文字で書くということはよくわかる。

さて、いつもの話を語り終えると、機織じいさんは石達開の愛唱の詩を一つうたった。

このような石達開の物語を朱徳は生涯を通じて繰り返し聞いて育った。

そして石達開の多くの詩は、朱徳だけでなく、彼の世代以降の人たちの脳裏にしっかり刻みつけられた。


「農民たちは石達開が殺されたということは認めたくなかったのだ」と、朱将軍は悲しげにいった。「それを認めることは、希望を捨てることだった。しかし、事実は石はその軍とともに清朝に降伏し、彼は成都で滅多切りにされた。身分の自由を約された武装解除の兵士らは、みな殺しにされた。この私も紅軍の同志たちも、どの時かに、蒋介石に降っていたとすれば、同じ運命だったろう」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-10-23 11:35 | 朱徳の半生

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毎年、それぞれの季節に旅まわりの職人が、街をはなれて、この大街道をやってきて、それぞれの専門の技術を求める家をたずねながら、村から村へと渡り歩く。大工、鍛冶屋、畳屋、機織りなど、みな腕を持った職人で、商売道具は自分で持ち歩いていた。


こうした旅職人たちは大きな都市から来るので、農民よりもずっと開けていて、独立的で新しい思想を持ってきた。

民間の歴史家といえるぐらい博識の人もいたし、読み書きができる人もいた。


彼らは仕事をする家に泊まり、毎晩その家のものは職人を取り囲んで話を聞こうとした。

清朝政府が、西洋列強に対する借金払いや戦争による賠償金のせいで税を限りなく増やすしかない状況などを職人たちは語った。

地主階級や貴族たちは人民の税でぜいたくな暮らしができていることも語った。
だから、農民たちが貧乏なのは、運が悪いからではないといった。

歴史についても詳しいので、19世紀に二度あったイギリスとのアヘン戦争後の多額の賠償金や中国の主権もなくなったことを物語ってくれた。

さらに機械製の外国製品が関税なしで入ってくるので、中国の国産製品や職人の生活がこわされつつあることなども。


さらに四川にいる外国人宣教師の傲慢無礼な振る舞いのことなど。

朱家の人たちは、朱徳が生れた年に起きた四川省での叛乱の原因になったフランスのカトリック宣教師たちの話もすでに聞いて知っていた。


職人の中には、十九世紀半ばの太平天国の乱について話すものがあった。当時までで中国最大の農民の叛乱であり、それがキリスト教的色彩を帯びていた点まで、じつによく三世紀前のドイツ農民の叛乱に似ていた。


朱家の女たちが紡いだ木綿糸で布を織るために冬ごとにやってくる一人の機織りじいさんがいた。

この職人は太平の首領の中でも最も人気のあった石達開が率いる大平軍の元兵士であった。

石達開は客家出身の学者で、自分の土地や持ち物すべてを売り払って大平軍に納めた。
大平軍には客家が多かったことは知られている。


朱徳将軍の参謀や兵士、将校も客家が多かった。


機織じいさんの口は悪かったが、朱家の人たちはその話に飽きるということはなかった。「小犬」はその傍にしゃがんで、ねだるのだった。

「機織のおじいさん、何か話してよ」



赤字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2016-10-21 19:14 | 朱徳の半生

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朱徳が故郷の四川省について語るとき、いつもその壮麗さに触れた。

えんえんと連なる大雪山脈が、この省に温暖気候をもたらし、温帯と亜熱帯の多種多様な植物が沸き立つように繁茂していた。

省都の成都がある赤色盆地といわれる平野は、年中収穫ができたので、中国でも豊かな地方の1つだった。

さらに、塩やいろいろな鉱物も豊かだった。だから、四川省は仏英の列強に絶えず狙われていたと語った。


この雄大な自然美のさ中に、彼の家――幾十年の雨と風と雪のために崩れそうになった陰気な古家が立っていた。


入口から入ると、家族が集まる部屋である正房があり、左が台所で、ほかはみな寝室になっていた。
正房の真ん中に荒削りの食卓があり、まわりに椅子が置いてある。
食卓の真後ろの壁の前に先祖の位牌を入れた仏壇がある。
その仏壇の前の棚には、道教と仏教に共通している「聖母」である小さな粘土製の観音像が置かれてある。

この先祖の祭壇に、旧正月、清明節、お盆の日などにわずかな供え物をささげた。


朱家の人たちは、そうした古来の祭祀を信じ、作物をつかさどる土地神や、さまざまの良い神と悪い神との存在を信じていた。


彼の家族は、その貧苦は星まわりの悪さからきた不運なのだ、と思っていた。


朱徳も小さい頃の迷信はすべて信じていた。


彼の家のわきを車一台ほどの幅の街道があった。
この街道は旧公路に繋がり、さらに山岳地帯をすすむと大公路に合流し、西安や帝都北京に達する。


彼の幼少時には、この街道を通る旅人をながめて、時をすごすことが多かった。


重慶から南方に貨物をはこぶ商人や、旅まわりの職人、長衣をきた学者もいた。
地主のあの閻王までもが、美しいかごにのって下男を急がせながら、自分は扇を使ってやってきた。
旧正月が近づくと、役人もりっぱな緑色のかごに乗って通った。
泣き男や女たちが連なる葬式の行列や華やかで陽気な花嫁行列も通った。


時おり朱家の人たちは、田んぼ仕事をやめて、家の前の木かげで、休息する旅人と、湯をいっぱい飲みながら、話をするのだった。そういう人々から、「小犬」は、中国とは、大きな帝国の四川よりももっと大きいものだと聞いた。


帝都のあらゆる所から四川名産の毛皮や漢方薬などを買うために商人が成都にやってきた。

朱徳はそういう商人たちからもっと遠い都市のことも聞く機会があった。

はるか南の雲南省の都である雲南府の向こうのビルマは、朱徳が生れる前の年にイギリスが奪い取ったことや、広東省の南の安南と呼ばれていたベトナムは同じ年にフランスが中国と戦い奪いとったことだった。

北京政府はその戦費のために塩の値上げをして、人民が叛乱を起こした。


さらに、清朝は内部で腐り切っていたので、愚かで残虐で、軍隊は無力だった。だから西洋列強と戦えば、必ず打ち負かされた。人民の怒りは年々大きくなり、物価も上がり、暮し向きは悪くなるばかりだということだった。


「私は、その大街道で、いろいろな旅の人を、帰れといわれるまで追って歩いたものだ」と朱将軍はいった。「私も旅をしたかったのだ」




赤字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2016-10-19 23:56 | 朱徳の半生

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朱徳の家全体を仕切った祖母は地主への小作料を完納することに苦心した。その小作料は収穫の半分以上であり、その他には卵や鶏、豚までも収めなければならないときもあった。

これを憎く思わない小作人はいない。

さらにこれだけではなかった。


「たとえば、毎夏、うちの地主がその大勢な大家族を引きつれて涼しい山の別荘にゆくときには、小作の男どもはみな、一切の仕事を休みにして、ただで輸送してやらねばならぬ。秋には連れもどさねばならぬ。また、世の中がざわついて土匪が荒れ出したり、農民が一揆をおこしたりすると、小作人は地主の家に集合して武器をわたされ、御主人様のために戦え、と命令される。農民は、こういう古い封建の因襲を運命とあきらめて受け入れた。そこからの出口が見えなかったのだ」


小作人たちは、旧正月の夜が明けるまでに一切の年貢を納めなければならなかった。

朱徳の祖母は、年の暮には、朱徳の養父でもある長男の助けを得てその年の収入の配当をしたり、必要な家族の服を決定した。

つまりまだ継ぎはぎでなんとか履けるズボンと、そろそろ新調しなければならないズボンを決めたりする。

衣類に関しては、擦り切れて影も形もなくなるまでつぎ当てをした。

このような家族会議を終えると、祖母は家の貯金を集めて彼女の寝床の床下に埋められた壷に入れる。


昼と晩の間の休憩以外、朝から晩まで働いた。

灯をともすというぜいたくはできないので、暗くなったら仕事をやめて寝床にもぐり込む。

他の小作人の家と同じように、朱家には週の休みはなかった。正月休みもなかった。

冬の間は少しのんびりはできたが、春作のための土作り、種まきもしなければならない。家畜の世話もある。畑でとれた綿は、女たちが紡いで糸にする。

それを旅回りの男の職人が織る。

油菜から油をしぼり、料理に使った残りは売る。

木綿をより合わせた芯といっしょに皿に入れて夜の灯にすることもあったが、すごく稀だった。

実際、朱徳は二十の時に初めて灯火を使った。


さらに小作の男女は「閻王」といわれる地主丁のためにただ働きさせられた。

たとえば、正月や国の祝祭日、地主の妻女や妾が息子を生んだとき、巡廻してくる役人のための宴会を開いたときであった。

さらにこういう時には小作人は地主に特別の食品を贈ることが建前になっていたという。


「地主に取っては、小作人どもがひもじい目をしようが、地すきとか収穫とかで手が離せなかろうが、知ったことではなかった」と朱将軍は怒りをこめていった。「家の男たちは出てゆかねばならず、私の母や養母までが、「閻王」の台所働きをさせられた。家に帰るときに、何か御馳走を、着物の下にかくして、ちょっぴり持ってきて、子供たちにも一口くれ、まるでおとぎ話みたいな土産話をした」


こういう話が続いていたとき、スメドレーがペンを動かさなくなったことに気づいた朱徳は問いつめるように彼女を見つめた。


スメドレーは朱徳に自分の母のことが重なると答えた。彼女の母親は封建的地主のためではなかったが、金持ちの家で同じように働き、御馳走をくすねてきたり、きびしい労働のために手も髪も真っ黒だったと回想した。


朱徳はさらにスメドレーのお父さんのことを尋ねた。


彼女のお父さんは農夫で貧しい生活がいやで、妻子を置いて何度も家を飛び出し、後には日雇い労働者になった人だった。

だから、彼女自身もお腹いっぱい食べた子どもの頃の記憶はないと。

但し、塩には不自由しなかったと答えた。


「世界の貧民たちは、一つの大きな家族だ」と、彼はしゃがれた声でいい、それからかなりの間、私たちは黙って坐っていた。



赤字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-10-18 16:02 | 朱徳の半生