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              韓国ドラマ「黄金時代」オフィシャルサイトより借用

このドラマは民族系銀行の内紛の周辺を描いているので、戦時色はあまり出ていなかった。

本土とは違い、朝鮮半島には空襲もなかったし、強い思想統制もあったので、表面的にはのんびりしていたように想像する。

「日帝」への反発は中国大陸や「地下」で生きるしかない時代だった。


しかし、朝鮮半島で戦中末期に実施された徴兵制について考える瞬間があった。
実業学校の教師をしているカンチョルが自分の教え子を戦地に送りたくないということで、友人のチェフンに銀行で採用してくれるよう頼んでいたシーンがあった。銀行員になれば、「徴兵免除」を受けることがわかった。

南大門市場や町を行きかう民衆に若い人がほとんど見られなかったが、実際もそうだったと思う。
若い世代は徴兵免除を受けているか、伝染性の病気を持っているかのどちらかでなければ、徴兵で戦地か、徴用のために日本本土の軍需産業の現場や戦地に強制的に連れて行かれているはず。
それがいやだったら「逃げる」という道しか残されていなかっただろう。

カンチョルは教師から銀行員になったのだが、教師のままだったら「徴用」の対象になっていた可能性はあると思った。
そういう意味でカンチョルとずっと一緒にいた友人が、ぶらぶらすごしているのが不自然に見えた。孤児だから対象からもれたと考えたらいいのだろうか。

この時期の日本の戦局はかなり悪く、兵が絶対的に不足していた。

学徒出陣という名で学業半ばの学生も戦地に行く時代だった。朝鮮半島にいる45歳以下の健康な日本男子も、いつでも戦地に行く覚悟は持っていたようだ。

『慶州は母の呼び声』(森崎和江著)より


「秋になりイタリアの降伏が伝えられ、兵役法がかわったとかで父が20数年前の奉公袋を出した。父もいつ召集されるかわからないことになったという。南方の島々に次々と米軍が上陸する。そして、10月、朝鮮海峡を往来して釜山と下関とを結んでいた連絡船の崑崙丸が、アメリカの潜水艦によって撃沈された。」


イタリアの降伏は1943年の9月のことで、奉公袋は遺書や連絡先を書いたものを入れた袋で戦地に持っていくものだった。

著者の父親は40歳前後と推測される。

こういう人が徴兵免除されないのだから、かなり兵力が不足していたと想像できる。

確かこの頃松本清張もニューギニア戦線の補充兵として運悪く召集され、兵団を編成するために朝鮮半島にいたのだが、30歳前半で妻子ある身だった。

決して若くない年齢なので、自伝では町内の誰かの心証を悪くしたためではないかというようなことが書かれていた記憶がある。
幸い戦地ではなく、朝鮮半島で終戦を迎え無事に妻子の元に戻ることができた。

この人が戦死していたら、戦後の文学界違っていたと思う。


松本清張は、朝鮮戦争後スパイとして北朝鮮で裁判をかけられ亡くなった詩人林和(イムファ)のことをきめ細やかに描写した『北の詩人』を書いている。

結核を病んだ繊細なこの詩人が、生活苦の中で宣教師から特効薬とか栄養のある食物との交換条件でズルズル関係を深めていく苦悩が松本清張独特の想像力でリアルに描かれていく。


亡くなった父もこの本を読んで感銘受けていたのだが、中でも米兵の描写が自分の実際観た感じとまったくいっしょだったことに驚いていた。

たとえば米兵の髭を剃り上げた顎あたりの色が緑色に見えたとか、履いていたズボンがぴしっとプレスされていたので、折り目が剃刀の刃のように見えたとか。

父は松本清張の自伝までは読んでいなかった。

この作家がもし朝鮮半島ですごす時期がなかったら、『北の詩人』は書けていなかったのではないかと思う。


ずっと以前、文学に詳しい韓国人留学生に林和のことについて訊いたことがある。彼女の肯定する返事とそのときの暗い顔つきをまだ覚えている。

時代に翻弄された線の細い林和のことを考えると人間の弱さを思い切ない気持ちになる。


さて話をもとに戻すと、朝鮮半島にいた父も「徴兵免除」をもらっていたが、徴兵検査は対象年齢の若者として受けた。

ところが自覚症状はないのに「結核」にかかっていることがわかり、「不合格」という結果をもらっている。当時の「結核」は「死の宣告」を意味したが、それでも「合格」した若者から「不合格」をうらやましがられたということだった。

現地ではなんとかわが息子も徴兵免除を受けさせたいと、父のポジションである農業技手になんとかならせようと努力していた金持ちの人がいたと聞いている。


例外もあったことは承知しているが、あの時代においては徴兵や徴用を避けたいと思うのが普通の感覚だったと思う。



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by far-east2040 | 2016-09-30 16:24 | 友情

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主人公たちは子役から青年になり、戦中の朝鮮半島が舞台になったので、当時の日本語と朝鮮語の使用について考えてみた。

植民地時代だからといって、朝鮮半島は一様な日本語使用社会ではない。
ドラマでも町の看板を始めとする印刷物は漢字、ひらがな、ハングルが混在していた。
慣れるまでちょっとおかしかったが、登場人物はドラマなので日本人役の俳優もみな韓国語を喋っていた。

実際は日本人同士は日本語、朝鮮人同士は朝鮮語のはず。
では日本人と朝鮮人が出会う場ではどうだったろか。
朝鮮半島が併合された初期のころは通訳が活躍したと思う。


植民者二世として朝鮮半島で生れ育った作家森崎和江著『慶州は母の呼び声』によると、


「わたしの父は大邱公立高等普通学校、つまり朝鮮人の少年たちの五年制の中学校に勤めていたのだ。朝鮮人は家庭では朝鮮語であったが、併合後は国語は日本語ということになり、生徒たちは国語として日本語を学習した。普通学校の入学率は低かったが、学校では朝鮮語のほかに日本語を学び、高等普通学校の受験を志す子は日本人の子らとかわらぬ理解力を日本語にも示した」


教育を受けた若者になったチェフンもカンチョルもバイリンガルだった。

銀行の頭取になったチェフンが総督府に出向くシーンがあったが、流暢な日本語で交渉できたのだと想像する。

Koreanは教育を受けてバイリンガルになれるいうことをこの時代に経験している。


さらに森崎和江さんの著作によると、


「わたしの父は、他の日本人教師と同じように朝鮮語を使えなかった。総督府では官庁の職員に朝鮮語の習得を奨励していた。その試験の合格者には手当を給付した。公用語は日本語だったが、都市部はともあれ、村に入ると必要だったから朝鮮語を話す役人や警察官はすくなくないのだった。」


ところが、1938年の第三次教育令で随意科目になり、しだいに教育現場から「朝鮮語」は排除されていったという。
しかし農村部や朝鮮人同士や家庭の中では当然のことながら、朝鮮語で話していた。

亡くなった私の父も農村部の面事務所(日本でいう村役場)で働く下級官吏だったが、農家をまわるときは朝鮮語を話せないので、日当で通訳を雇っていたという。

「学校でうっかりして朝鮮語を話したら、先生から怒られたり、「ごめんなさい」と謝らされたりした」という内容で思い出を語る韓国にいる遠縁の親族を数人知っている。

こういう風景は沖縄で日本語を普及していくときにも一時見られたという文章をどこかで読んだ。東南アジアでもそうだったかも知れない。

戦中は公教育の現場や官公庁においては日本語使用が徹底されていった時代だった。
理由はなんだろうか。朝鮮語の学習時間が国語の学習の妨げにはなっていないと思うが。どう考えてもバイリンガルの人間や社会への圧力と写る。

森崎和江さんのお父さんが戦後日本に引き上げてきてまもない頃、自分の教え子たちが一人でものを考えるときも日本語だということを気にかけて泣いていたという思い出も読んだことがある。

私はバイリンガルでないので、ものを考えるときの言語の選択がどんなものかよくわからない。

学校で習った主たる言語がものを考えるときの言語になるのかな。


話がそれてしまうが、1942
10月に朝鮮語学会事件というのが起こった。詳しく語る見識はないが、ハングルを保存していこうとする学者たちの集まりだった朝鮮語学会の主要メンバーが別件で治安維持法違反で逮捕されるという事件だったらしい。

8月15日の解放後、「地下」でしか行動がとれなかった学者たちが一斉に表に出てきて、まずハングルを教えないといけないということで、にわかに講習会のようなものが開かれたらしい。

亡くなった父もそのような場で子どもがひらがなを学ぶようにハングルを習ったらしい。

「そのへんの先生ちゃう。えらい学者に教えてもらった」と語っていた記憶がある。


で、なぜ戦中こんなふうに朝鮮語使用を弾圧したかだが、私はやはり戦力不足を補うために実施された朝鮮半島での「徴兵制」が関係しているように、ドラマを観て改めて思った。


これはKoreanにしてみれば、負の記憶として残ってきたと思う。



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by far-east2040 | 2016-09-29 14:49 | 言語

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               韓国ドラマ「黄金時代」 オフィシャルサイトより画像借用


きっかけは、ネット上で日韓併合時の朝鮮半島や日本本土が描かれている珍しいドラマと知ったからだった。
途中で挫折した「チャングムの誓い」と違い、全20話とそんなに長くないので、とりあえず1巻借りてみた。
「はまる」とはこういうことかと自覚しながら、とうとう最終話まで観た。


1927
年、釜山から日本に向かう船の中で出会った同い年のクァンチョルとジェフンは、身分の差を越えた友情を育んでいた。しかしそんな2人を快く思わないジェフンの父親ヨンホにより、いつしか2人の仲は引き裂かれてしまう・・・。父親のジンテが京城銀行頭取のビョンイクを殺害する事件を目撃してしまったクァンチョルは、長年そのことで苦しむが、皮肉にも彼の娘であるヒギョンをやがて愛するようになる。10数年後、それぞれの道を歩んでいたクァンチョルとジェフンに、感動の再会が訪れるが・・・。(韓国ドラマ「黄金時代」オフィシャルサイトから抜粋)


よくできたドラマだと思った。

ちょっと原罪をテーマにした三浦綾子の『氷点』や松本清張の小説と重なる雰囲気を持っていると思った。

人間は生きているかぎり、その時代の社会的、歴史的な事柄に影響を受けているのだから、こういう背景を抜きにしたドラマは私には物足りなくて楽しめない。

このドラマを通じて、社会的、歴史的な背景のもとに繰り広げられる人間ドラマが好きなんだという自分の趣向を再発見した。


このドラマは韓国で2000年から2001年にテレビで放映され、高い視聴率を取ったという。私の周辺でもかなり高齢女性のファンが多かった『冬のソナタ』の前年の作品だ。

日本では『冬のソナタ』はかなり評判がよかったらしいが、私は見ていない。

たとえば瓜二つの別人が出てくるとか、このドラマいろいろありえないことがよく起こると聞いていたし、子育てで一番大変な時期でもあって結局見る機会がなかった。

題名からかなり甘そうだなとは思ってきたが。


さて、この「黄金時代」では関釜連絡船は出てくるし、釜山港、下関港の光景、在日一世の原型のような男、戦中の様子を観ていると、いろいろ考えさせられることが多かった。

完全な「時代考証」ではないと考えても、私がそれまで写真や残された記録だけで築いているイメージよりはるかにリアルに展開してくれた。

かわいい子役たちの演技もうまい。出身階層が違うチェフンもカンチョルもどっちも味わいがあってよかった。
特に、カンチョルにはあの服装のまま家に来てもらって、ごはんをいっぱい食べさせてあげて、「おばあさん、おいしいよ」といってもらいたい妄想の世界に入っていきそう。

ああいう子役に弱いことも自覚している。

韓国女優としてはそれほど美形ではない女優が陰の主人公を演じているのだが、演技に惹かれるものがあった。
「あんなとこで写真を拾うかな」とか、「あんなとこで会うかな」というようなシーンもあるし、冷静に考えたらありえない話なのだが、感情移入しているうちに、絡み合いそうにない登場人物達が、いつのまにか自然に絡み合っていることに気がつく。そんなドラマだった。


他のドラマは観ていないが、私の好みでは「黄金時代」を韓国ドラマではベストに位置づけている。



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by far-east2040 | 2016-09-28 09:55 | 友情

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1961年に出版された同名の小説『キューポラのある町』は現在は公共図書館で探すのは苦労すると思うが、アジア図書館ではKOREAを知るための文学書の1冊としてさりげなく棚に納まっている。


1962年に公開された吉永小百合さんが演じる多感な十代の少女の成長物語だけれど、その時代の北朝鮮への帰国事業に沸く下町の人情を描いていることが、私には興味深い映画作品になっている。


あらすじはWikiによると、

中学3年の少女ジュン(吉永小百合)は、鋳物職人の父・石黒辰五郎(東野英治郎)が解雇されたことからはじまり、貧困・親子・小中学生の不良化・民族・友情・性など多くの問題に直面しながら、まっすぐに生きていく。


舞台は埼玉県川口市の鋳物の街。ほとんどの人にとってなじみのないキューポラ(鉄の溶解炉)ということばを知らしめたこともこの映画の功績の1つだと思う。

事業自体は1950年から1984年まで続いたとあるが、この映画は1962年前後の関東の下町での状況を描いていることになる。

当時の帰還事業がどんなものだったかを知りたいなら、この映画はとても参考になる。

昭和の下町の雰囲気が濃厚だ。
こういう町ぐるみのお祝いムードの中で多くの在日Koreanたちが北朝鮮に行ったのだと思うと、現実を多少知った今は複雑な心境になるのだが。

当時にそれを求めることはできない。あまりにも美化された情報が人々を酔わせたように思う。

「就職」と「生活」を保証するということがいかに人々に希望を持たせたか。

それと傍から見れば、Koreanが自分の祖国に帰ると見えたかもしれないが、この事業で帰国した人のほとんどは今の韓国をふるさとにしていた。
この帰国事業は韓国では北送事業と呼ぶらしいが、当然反対する立場をとってきたのもうなづける。

「かわいそうやな。ほんとは大変な生活が待ってるのに」なんて陰で考える日本人関係者はほとんどいなかったと思われる。

在日にしても極端な反共主義者でなければ、悪いものとしては写らなかったと想像する。

映画の中の人々の持つ雰囲気は社会党系のシンパの人たちと思っていたが、原作者早船ちよさんは共産党員だったことを知って認識を新たにした。

原作をぺらぺらめくって読んだことがあるが、映画もそうだが、いかにも「貧しいが明るい」ところが私には作者の気質が表れているように思う。
主人公ジュンが同級生の友人に、帰国したら高校へ入学させてもらうように純粋に語るシーンなんか、現実はどうだったんだろうかと思うと、つらい。

よく見かける脇役の俳優で、帰国する在日Korean役をしていたが、壮行会のような場で日本人たちの前で涙ながらに礼を述べるシーンが「名演技」で、現実にはこんなシーンあったんだろうかと考えると笑える。
庶民にとっては、生活できることが大事であって、イデオロギーなんてむずかしく考えることはなかったにちがいない。

Koreanとして生活できること、進学できること、働けることに共感しただろうなと思う。

小説のストーリーは起伏に富んだところもなく、それほどの魅力を持っている作品とは思えないけれど、主人公の背景で帰国事業をさりげなく描いていったところがユニークなものにしている。こんな作品他には見当たらない

さらに映像で時代の雰囲気を残してくれたということでは貴重な作品だと思う。


なお、この映画は多くの果実をもたらした。日活の助監督だった浦山悟郎の監督昇格デビュー作でありブルーリボン賞作品賞を受賞し、主演の吉永小百合さんも主演女優賞をとるなどして、女優として大きく飛躍するきっかけになったという。

彼女の健気な演技が、社会問題を扱う映画にありがちな硬さをゆるめて、この映画を名作にしてくれたように思う。
映画界という華やかな世界にいる現在の吉永小百合さんの人生の越し方、生き方にこの映画から1本の筋を引きたくなる。



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by far-east2040 | 2016-09-26 13:09 | 生き方

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私はむずかしい哲学書は読めないのに、アーレントの本は読みたくて仕方がなかったときがあった。
しかし、せっかく手に取っても、ペラペラとめくってみた段階であきらめることが少なくなかった。

難しい原書からの翻訳であることも原因だと思う。

「どうしてこんなむずかしいことを考えてるのか」なんて思ったりして、1ページでがっかりしたこともあった。


代表作ともいえる『人間の条件』とか『革命について』などはある時期のある世代によく読まれたことは、古本屋で探しているときに、いかにも「なんとか世代」と呼べそうなご主人が教えてくれた。


私が読める著作はユダヤ人として、または人としての普遍的な生き方を論じたもの。

アーレントは女性であることにあまりこだわっていない感じがした。
じっくりと読んでいく中で「そうやな」とじわーっと納得できる瞬間が好きだった。

この女性は非キリスト教徒で多分非ユダヤ教徒でもあるけれど、ドイツ哲学を学んできた人だからか、書かれた文章の「人生」という語を「神」という語に置き換えても違和感なく読めた。


ヨーロッパでは「人生=神」なんだと私流に解釈している。

彼女の生き方論の中に、キリスト教の世界観に近いものを感じるときが、私が入っていける隙間でもある。
『パーリアとしてのユダヤ人』という著作が比較的読みやすかった。


もう彼女の著作は1冊も手元にないので、確認しようがないが、要するに人生に期待するのはまちがいで、人生から意味を汲み取れという内容の文章に特に惹かれた。

年齢を重ねると、逆の発想つまり人生に期待したり、真剣に願をかけたりすることは悲劇に通じやすいことはわかってくる。

でも、人間弱いので、私なんかもよくやってしまう。


人生から意味を汲み取る際、キリスト者は人生を人格神にして、さらに人間に近いイエス・キリストという介在者を置いて安らぎを得ている。

これは神学から離れた自己流のキリスト教解釈。


アーレントは有名なドイツ人哲学者ハイデッガーの教えを受けた学生であり、後に愛人としても知られていて、ハイデッガー自身が著作を完成させる上で彼女からインスピレーションを受けたことを率直に語っていたらしい。

こういうふうにいわれて、アーレントはどう思ったのか知りたいところ。


哲学書を楽に読みこなせない私から見れば、ハイデッガーの功績は今一つわからない。

「時間」とか「存在」という実態のないものだけで論文が書けるというのが、哲学の深みについていけない部外者から見れば驚異に値する。

だから二人の関係でみれば、ハイデッガーになんとなく不審感持ってしまうのだが。


この女性の書物を通じて、戦前戦中のヨーロッパのユダヤ人が善で、迫害したドイツ人が悪という単純な構造で捉えることが間違いであることを教わったのだが、これは衝撃的で受け入れがたかった。

ユダヤ人側からの協力や取引などもあったようなことも書いていたと思う。

ユダヤ人大量殺戮に濃厚に関係したアイヒマンの裁判を傍聴して、そこにいるのは命令に忠実な小心な役人にすぎないと記事にしたりと、イスラエルという国家がこの裁判をショーにしたと批判。


こういう独特の言論活動を通じて、ユダヤ人の友を失ったり、イスラエルという国家から敵視されてたようで、それでもすべてを語っていないだろうとあの歴史家鬼塚英昭氏は強い語調で書いていた。


ユダヤ人の迫害と大量殺戮は歴史的事実なので、どう考えていいのか簡単に論じることができない。


2012年に映画「ハンナ・アーレント」が公開されたので、アーレントのファンの一人として興味津々で観たことがある。

実に美味しそうにたばこを吸う人で、人差し指と中指でたばこをはさみ、フーと口から煙を出すシーンが多かった。大学で講義するときの机にすわって語るシーンといっしょに意外な彼女の側面だった。

それとパートナーはおしゃれで生活感がしない男性でイメージどおりだった。

ハーレントとは違って大学にはいかず、在野で理論武装してきて、物事を受け止めるのに柔軟性がある人物と見えた。


問題はハイデッガーで、ミスキャストではないかと思った。

写真で見ると、もっと精悍なイメージがあったのだが、映画の中では、ちょっとはずすと○平なオジサマのような軽さがあって、首をかしげたくなった。


アーレントとハイデッガーはナチスに協力した哲学者とナチスに追われた女という理解しにくい関係を戦後も築いていたようだ。

アーレントが亡くなったとき、テーブルには夫とハイデッガーの写真が入った額縁が置いてあったという。このあたりやはり「哲学」を専門とする「超知識人」のお二人ということで、ここまで。

今の時代に生きていたら、大事なのは愛国心という集団への愛ではなくて、人々の中で築く友情だといってくれそうだ。

こんな女性哲学者これからも出てくるかな。


ハンナ・アーレントの著作をほんの少しかじったことは、その後の生き方にいい影響を受けたとしみじみ振り返ることができる。


出会えてよかった。



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by far-east2040 | 2016-09-23 12:49 | 生き方

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『女たちの肖像』は私が変わっていく過程でそばにあった本だった。

著者は中村輝子さんというジャーナリストで人文書院から1986年に発行されたもの。
ユニークな創作活動で知られた6人の女性の手軽な入門書のようにわかりやすく書かれた本で、それぞれが「越えてきた」人生に触れることができる。

興味が湧いてもっと詳しく知りたくなったら、それぞれの人物の作品や評伝などを探していく手がかりを与えてくれる本だ。

どういうきっかけでこの本を購入したかは忘れてしまったが、「婦人の友」という雑誌に連載されていたらしいから、多分この雑誌から刺激を受けたのだろう。

この本の小さな書評記事の切り抜きを持っていた人も偶然知っていたので、新聞記事で知った人もいたのだろう。


時代の制約を受けて、順風満帆とはいえない人生をどういうふうに生きてきたかを読み取る作業は知的興奮をもたらしてくれた。
みんな戦前生まれで、第二次世界大戦が終わった時には中年と呼ばれる年齢域に達していた女性ばかりだ。


具体的には
 アイザック・ディネーセン(作家) 1885年~1962年

 ハンナ・アレント(政治哲学者)  1906年~1975年
 ゾラ・ニール・ハーストン(作家)  1891年~1960年
 リリアン・ヘルマン(作家)      1905年~1984年
 ナディン・ゴーディマ(作家)    1923年~2014年
 ジョージア・オキーフ(画家)    1887年~1986年

この本に出会うまで私はリリアン・ヘルマンしかなじみがなかった。

彼女が書いた『ジュリア』『子供の時間』は余韻が残る映画になっていた。

ナディン・ゴーディマは南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃運動を文芸活動で支援してきた白人女性として、アジア図書館にいる頃「短編集」を読んだことがある。

アジア図書館の活動を支援してくれていた大学教員が南アフリカの女性作家の研究者ということで、何回か講演してもらった覚えがある。

アパルトヘイトの撤廃は1994年なので、ちょうど日本での運動の最後の盛り上がり時期にアジア図書館にいたことになるなと振り返って思う。

アジア図書館ではアフリカに関する蔵書も収集していた。

調べてみると、この作家は1991年にノーベル文学賞を受賞している。そういうこともあってよく覚えている名まえだ。

映画『愛と哀しみの果て』の主人公として知られるアイザック・ディネーセンは、『パペットの晩餐会』と『アフリカの日々』を通してファンになった。

デンマーク語と英語で独特の作品を作り上げてきためずらしい作家だ。

「わたしはアフリカに農園を持っていた」から始まるこの本の独特の雰囲気が好きで、本の断捨離を何回かしてきたがまだ手元に置いている。

ときどき無性にこの本を開いて活字を拾いたくなることがあるのを知っているからだ。


この本で一番興味を持った女性は、ハンナ・アレントというユダヤ系ドイツ人女性で、この女性について書かれたところは繰り返して読んだ。

他者に影響を与えた女性哲学者といえば、ハンナ・アレント、ボーボワール、シモーヌ・ヴェーユぐらいしか思い出せないが、個人的にはハンナ・アレントに一番惹かれる。

3人に共通しているのは、ずば抜けた知性を持ち、むずかしいことを真剣に考えていたことだと思う。

ボーボワールは棲む世界も知的レベルもあまりにも上にいて、こちらに降りてきてもらえないという感じがする。

シモーヌ・ヴェーユも同じく優秀な女性だったが、修道女のように自分に厳しい生き方を追求していて他者を寄せ付けないところがある。

この二人に比べると、ハンナ・アレントは短期間ではあるが収容所に入っていたこともあり、ぎりぎりのところから生き延びた経験やハイデッガーとの複雑な関係など人間味豊かな女性だと思う。


とにかくこの本から、アレントの難解な著作の中から「読みやすい本」を探し始めたように記憶している。
ちょっとおおげさにいえば、共感できるアレントのことばが、「人間嫌い」の泥沼から少しずつ這い出す試みをしていた私を一気に救い出してくれたような感じがする。


さて、最近この本の現代のアジアシリーズがほしいなと思っている。

中国人作家ハン・スーイン、ベトナム人弁護士(?)のゴー・バー・タン、日本人作家森崎和江さん、エスペランチスト長谷川テル……。まだこのぐらいしか思いつかないわ。
こういう本はありそうで案外ない。



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by far-east2040 | 2016-09-20 19:37 | 生き方

エスペラントと英語

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2010年チリでの鉱山事故を知って書いた文章の再掲と英語について最近思うことを書いてみた。


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「エスペランサ(希望)」を聞いて知人を思い出した。

                              2010-10-14


チリ北部の鉱山事故で地下に閉じこめられた作業員救出作業が昨日から始まった。一人目がカプセルから出てくるところはリアルタイムで観ていた。いよいよお父さんが上ってくるという段階に入って、幼い息子が感極まって泣き出すシーンが感動。ちょっとウルウル。

一連の報道の中で、希望を意味する「エスペランサ」ということばを何回か耳にしたのだが、夫も私も50代という若さで逝ったエスペランチストの知人Hさんを思い出す瞬間を持っていた。もともとは夫の行きつけの「立ち飲み屋」の常連客という縁で親しくなり、私も数回いっしょに飲んでおもしろい話しを聞くことができた。

満州から引き揚げてきたのだが、38度線を越えてやっと韓国の釜山で引揚船に乗る際、親とはぐれて迷子になって「あわや……」という話、引き揚げ後の生活の困難さ、学生運動、挫折、語学を必死に勉強したこと、新婚旅行は韓国のエスペランチストを訪ねる旅でもあったこと、好きなヨーロッパ映画の題名をそのままお嬢さんの名前にしたこと、息子さんの行く末を心配していたことなど。 

酒をこよなく愛する人で、ヨーロッパのエスぺランチストを自宅に招いて交流という知識人の顔も持ち、下町の「立ち飲み屋」で庶民の酒を一人でたしなむ時間も大切にしていた。なじみのスナックでは「先生」と呼ばれていたと夫の証言。

「アナーキスト」を自称して、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の時代背景あたりのアナーキズムの在野の研究家でもあった。このあたりはむずかしくてよくわからないのでここまで。

仕事柄インターネットは早くから利用していて、一般に普及し始めたころ、インターネットで世界をつないでいく言語として「エスペラント」の地位を上げることに関心を持っていた。積極的に講習や講演をしていた頃に「病」を得て亡くなった。
本人の強い希望で「葬儀」「周囲への告知」もしていない。夫も「立ち飲み屋」でのうわさで初めて知った。

もちろん英語は「言語帝国主義」ということばで否定的にとらえていて、受身で聞くしかなかった。
アジア図書館にいた頃は「エスペラント」について考えるきっかけもあったが、その頃に比べるとだいぶ考えが煮詰まってきて、今なら私の「言い分」もあるが。

数年前、新聞のコラム記事で、同じエスペランチストでもある夫人が遺稿集を編集しているということを知った。

どうやらチリでは33人全員が救出されたようだ。

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H
さんがもう亡くなって10年ぐらい経っている。

アナーキストだからなのか、政治、経済、宗教など世の中のこと全般に渡って感情的になることはなく、距離を置いてクールに眺めている感じだった。

世俗的なことにほとんど興味もなかったようにお見受けした。


病気になってからは医師から大好きな酒類を一切止められていて辛かったようだ。
亡くなった後、夫人がかばんの中から飲みかけの焼酎の入った瓶を見つけたという笑えない話を聞いたときはほんとに好きだったんだと思った。

Hさんの亡くなった年齢を今の私はとっくに越えている。

あらためて早く亡くなりすぎたと思う。


英語についてはHさんが今生きていたら、「やっぱり英語じゃないですか」と言いたい。

多言語を話す人たちを知っているので、人間は複数の言語をある程度受けいれる能力は誰でも持っていると思ってきた。

日本社会では英会話能力を伸ばす必要性がなかった。

これだけ米国の影響下にあるというのに、不思議だ。


エスペラントについてはこれからもいっそう衰退していき、20世紀の遺物になると思っている。もうひょっとしたら、遺物かも知れない。


エスペランチストは日本だけでなく、世界のどこでもそうだと思うが、インテリやエリート層の趣味の言語という感じがしてきた。


H
さんからエスペランチストの学習会にはそうそうたる肩書きを持つインテリが集まり、エスペラントで講演しているときに、途中でいつのまにか英語に切り替わったりしたなんて話を聞くと余計に思った。


エスペランチストが平和主義者だということには敬意を持っているが、私から見れば、雲の上の人たちだ。

そういう人から言語帝国主義ということばで、英語をさらりと流してエスペラントをと言われてもそう簡単に納得できない。


社会的に立派な肩書きはなくとも、エスペラントを話せる人はほとんど英語(地域によればロシア語)も話せる人ではないだろうか。それと外国語の効率的な学習方法や楽しみ方を知っている人だと思う。


一方で、母語+学校で習う外国語、または生活のために身に付けた外国語で四苦八苦してる人たちは多いはず。私もそうだ。


しかし、この程度の英語でも、インドで幼い妹を学校に行かせるために物売りをしている少年とかんたんな会話は通じるだろうし、アジア各国で英会話を学習して今いる場から這い上がろうする人たちとなんとか会話は通じる可能性はある。


広大な中国大陸では地方ごとの言葉があり、中国語を学習することで一体感を築いてきた。

同じような感じで、多言語であるアジアを繋ぐ共通言語としてはっきりと英語を位置づけていけばいいように思う。

「あれっ、英語って南米や欧米でも通じるわ」なんて思えるぐらいに。


と考えて英語を勉強してるけれど、なかなか集中力が続かないのが悩みだ。



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by far-east2040 | 2016-09-18 14:08 | 言語

須賀敦子さんの作品

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2008年にBS朝日で再放送された「須賀敦子静かなる魂の旅」で初めて知った作家である。
放送予告で興味がわいたのだが、「好きになりそうな人なのに、名前を知らなかった」というのが大きな動機だった。
 
その後もNHKで特集番組があったので、興味深く観た。
こんな日本女性がいたなんて知らなかったので、さっそく図書館でエッセイを借りて読み始めた。
アジア関係の作品を書いていたら、どこかで名前ぐらいは記憶の引き出しに納まっていたと思う。

1929年生まれで1998年に69歳で亡くなったイタリア文学者であり随筆家であった。
 
終戦まもない頃に女子大学を卒業して、イタリア、フランスに留学する女性だから、どれほど恵まれた環境にいた人かと思ったら、父母の結婚生活破綻を経験し長女としての葛藤を経て成長した女性だとわかった。
それ以降、彼女はカトリック信者として哲学的思索を深めていった。
 
生い立ちを知り一層魅了されてしまった。

エッセイも抑制の効いた文体で博物館に入ったような静寂な雰囲気が漂っている。こんなエッセイを書けたら、どんなにいいだろうかと思う。
 
イタリアでカトリック左派と呼ばれるグループの拠点になったような書店で働いた経験が大きかったようである。

その書店には単に書物を求める人だけではなく、志を同じくする人たちが集まっていて、そこで出会った人や書物を回想する内容が多い。

単なる書店でもないし、図書館でもないし、かといって政治的なアジトのような空間でもないところがユニークで、楽しそうな職場だ。

但し、ビジネスと考えるととても不安定なので、お給料は安かっただろうなと想像できる。


その書店で同僚のイタリア人男性と恋愛して、当時珍しかった国際結婚をしたのだが、夫が早くに亡くなったので結婚生活は10年もなかった。

豊かな家庭で育った彼女とは違い、彼の方は映画『鉄道員』に出てきそうな鉄道員の社宅で育ったということもあって、この映画はなかなか観れなかったというような叙述があったと思う。

夫が亡くなった後しばらくイタリアですごしていたが、ある日「日本に帰ろう」と急に思いたったところなんかも印象に残っている。
 
『コルシア書店の仲間たち』は久々に一気に読んだ。

なんでもない過去の思い出に生きる人々を淡々と書いているところがよかった。

左翼傾向を持つ人を多く書いているが、闘争的でもなく、宗教的な雰囲気がすることもなく、読み手はとてもリラックスでき、登場人物に対して好感を持って受け入れてしまう。
 
育ちのいいお嬢さんが、ひたすら内面を拠り所にして、別の世界の扉を開けて生きた世界というのだろうか。全集を手に入れたいとも思った。
 

本棚や机に積まれた本といっしょに写った写真はかつて自分も本に囲まれていたことを思い出させてくれるので親近感を持ってしまう。

ただ、私の場合は古本だった。
自分から積極的にアプローチして、その本に囲まれた職場を得たところも似ていて共感した。

私は須賀さんのように周囲に違和感を持ちつつ賢明に生きた女性が好きである。もう一人の自己を意識している女性というのかな。
 
亡くなった後、新聞の書評欄で編集者として彼女に関わった人の紹介記事を読んだ。

見出し「あと少しの時間があれば」で分かるように、61歳で文筆家としてスタートし、病で亡くなるまで10年ほどしか活動できなかった彼女の死を惜しむ内容でまったく同感であった。


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by far-east2040 | 2016-09-17 12:39 | 生き方

気高い娼婦たち

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若いころ観た映画や読んだ小説の中に出てきた娼婦たちのことを、思い返してみた。
もう数十年前の記憶なので内容はあやふやだし、記憶違いも多いかも知れないが……

文芸作品に脇役として出てくる娼婦たちは、当時の上流階級の紳士淑女からも庶民の女たちからも蔑まれてきたが、魂の純粋さ、勇気、凛とした生き方を持つ心やさしい人間像として描かれていることもある。

まずはドストエフスキーの『罪と罰』に登場するソーニャ。

家族の誰かが病気で、幼い弟や妹がいて、その結果家が貧しい。
家族を救うために娼婦をしていた。
自己中心的な哲学に基づいて金貸しのお婆さんを斧で殺した主人公を改心に導いた女性である。

「あなたは罪を犯している」といって自分の小さな十字架を渡す。

苦悶の末、主人公が警察へ出頭するときに、あとから静かに心配しながらついていくシーンが印象に残っている。
確かこの二人は流刑地シベリアへ行くことになって終わったと思うが? 
どこで出会ってどうなってという展開はもうすっかり記憶から消えているが、小説の中とはいえ、こういう女性がいたことをおぼろげに思い出せることが癒しになる。


続いて、娼婦といえば、この方が忘れがたい。
モーパッサンの短編『脂肪の塊』の主人公。

当時のフランス社会の縮図と思えるようなメンバーがたまたま国境を越える乗合馬車に同乗するが、途中吹雪か何かで立ち往生する。

その上敵側の将校(?)が娼婦の存在に気づき食指が動く。

いろいろあって、ついに娼婦の決断如何で他の乗客の運命が決まるというところまで追い込まれる。

このあたりの構成がうまい。
で、行儀のいい紳士淑女たちは、彼女が持ち込んでいた籠いっぱいの食料で飢えを助けてもらっているのに、「娼婦でしょ」っていう感じで冷たくあしらう。

リベラルな議員も乗っていたが、情けないぐらい何もできない。
彼女は身を売ることは職業だから何とも思っていないが、敵側に身を売ることはできないと彼女なりの愛国心と誇りを発露する。

モーパッサンはこの作品で当時の紳士淑女の上っ面をはぎ取ったように思える。
この作品好きなんだけれど、あまりにも結末が物悲しくてつらい。
誰か彼女のためにあの続きを書いてあげてほしい。
もう1つ別の短編でも信仰心の篤い娼婦を扱っているはず。

次は『風と共に去りぬ』に出てくる酒場の女主人ベル・ワットリング。

高級娼婦と記憶しているが、そうでないかも知れない。しかしいずれにせよ似たような社会的偏見にさらされていたはず。

彼女はあのレット・バトラーの元愛人で、息子を一人生んでいて、手元で育てることができないので預けているとわかるような叙述があったと思う。

やさしい母親でもあった。
彼女も南北戦争の時代、稼いだお金の一部をメラニーという信頼できる女性に秘かに南軍のために使ってほしいと託すシーンがある。

表立って寄付という行為ができない自分の立場をわきまえて。


ちなみに作者マーガレット・ミッチェルはこの作品の映画化が決まったとき、ワットリングという姓が当時アトランタの町に存在していないことを調べさせたという裏話を読んだことがある。存在感があるが汚れ役ということで、作者の気遣いがわかる。

最後に、小説は読んでいないが『緋文字』にも娼婦が出てくると思う。

映画をさらっと観ただけなのだが、女主人公が姦淫の罪で公で裁かれるのだが、村の娼館を経営する女主人が「村の男はすべてここの客よ」とつぶやくシーンがあって小気味いい。

社会の不正義を見抜く目を持っている。

詳しくは知らないが『五番町夕霧楼』に出てくる女性もそのような類の娼婦になるかな?


探せば、もっと他の文芸作品にも気高い娼婦が存在するかもしれない。男主人公の単なる背景でちょっと絡む存在ではなく、人格を持った人間として。
生きていくために仕方がないので身は売るが、自分を成り立たせている根っこのところは売っていないこういう娼婦は味わいがある。

一方、この対極にいると私が思えるのが、お金のために或いは今ある地位を守るためにまたは自分を守るために良心や理性を売っている人。キリストを売ったユダなんかは典型か? 

人生いろいろ。会ったことがない人はいないんじゃないかな。どこにでもいる。

目の前でリアルに「売心」するシーンに遭遇したこともある。

こういうときは人間不信に陥る。

そうなりたくないなら、人間は弱いので背伸びすることを戒めるしかないと思っている。

案外こういう「売心行為」も表舞台に出ないところで歴史を動かしてきたのではないかとふと思うときがある。




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by far-east2040 | 2016-09-13 16:45 | 生き方

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よく買い物をするスーパーの漬物コーナーでは、梅干、たくあん、キムチを並べる面積はほぼ同じで、他の漬物よりも圧倒的に広い。

いつからこんなに普及し始めたのかなと思う。


私は結婚するまで、キムチを買ったことがなかったが、夫が毎日食べても飽きないぐらい好きなので、買い始めたのである。

夫は九州の田舎町で育った人なので、多分大阪に出てくるまでキムチは食べたことはなかったと思う。

ある日下町の露天で売っているキムチを食べたときに、あまりの美味しさに帰郷するときにはおみやげに持って帰ったこともあるという。


夫が出かけるときによく一人で作るお弁当は、ご飯の間にマヨネーズ、キムチ、ピザ用チーズをはさんだキムチ丼風か、マヨネーズかマーガリン、キムチをはさんだサンドウィッチだ。

私は受け付けられないので味はわからないが、本人は「こんな美味しいもの……」というぐらいかなりいけるらしい。キムチとマヨネーズは合うらしい。

韓国でこんな丼やサンドウィッチ売っているのかな。


私は小さいころからキムチを眺めてはきたが、複雑な家庭環境ゆえに親しめなかった。
兄妹みなそうだ。
今までの見聞でいうと、在日Koreanではかなりめずらしい。

小さい頃の味の記憶がないので、冬場にスープやお鍋で美味しく食べるぐらいで、今でも漬物としては積極的に食べたいと思わない。

夫の酒飲み仲間から「アホちゃうか」なんていわれたことがある。


Koreanとキムチの関係は日本でいえば、なんだろう。
たくあんや梅干との関係は超えてる感じがする。
キムチなしでKoreanは生きていけないのではないか?


新聞を購読していた頃、1932年生まれで現在84歳の作家高史明氏が、少年時代の思い出話を語るコラム記事を読んだが、キムチに触れていたところを覚えている。


……冬は教室のダルマストーブに弁当箱を並べて温めていたのですが、うちのおかずはキムチしかない。そのにおいが教室中に広がって、くさい、くさいと騒ぎになった。自分もくさいと思ったのですが、気がついたら原因は自分だった……。自分が二重に壊れてしまった感じで、くさいと言っている連中を一人ずつ殴りつけました」


高史明氏はお母さんを早くに亡くしているので、このお弁当はお父さんが作ったものだと思う。それを思うと、余計に胸に迫ってくるものがある。


1930年生まれの韓国人女性イ・サンクム(李相琴)さんが、15歳で帰国するまでの思い出を綴った『半分のふるさと』にも同じように「キムチ入りのお弁当」がもたらした冬の日の教室内のほろ苦い思い出を書いている。

父の思い出にも当然キムチが出てきた。
1930年代いなか町の尋常小学校にほぼ初めての朝鮮半島出身の子どもとして入学したのだが、お弁当のおかずはキムチだけ。

他の子どもはうめぼしだけのいわゆる日の丸弁当。

その当時は麦入りのご飯が当り前で、お弁当を持参できない子もいっぱいいたので、持参できるだけ恵まれていたという。

まわりから「くさい、くさい」といわれたので、隠して食べたり、わざと持って行かなかったりしたという。
祖母はキムチを水で洗ったりして入れてくれたが、父はみんなと同じうめぼしにしてほしいと必死に頼んだらしい。
祖母はどんなものかわからない。仕方がないので、手に入ったまだ青い梅を切って入れてくれたらしいが、おいしくなかったという。当り前だわ。
高史明氏もそうだが、父も笑い話として語る心境には達していた。

日本社会でKoreanが定着するところには必ずキムチがついてきた。


日本社会で一番早くキムチの美味しさに気づき、食生活に取り込んできたのは九州ではないかと思う。

「うちは朝鮮漬けも作りますよ」

なんて聞いたのも九州のお宅だった。

九州では早くから「朝鮮漬け」として家庭でマメな女性たちに漬けられてきたようだ。

自分で白菜を栽培して、キムチを自分で作っている人を2人知っているが、偶然だろうかどちらも九州出身だった。


とにかくキムチとして、広く日本の家庭の食卓にも上るようになったのはこの数十年だと思う。夫もそうだが、キムチをほんとうにおいしそうに食する日本人がいる。
当然まったく忌み嫌う人もいると思う。私もそれに近いところがあるので、匂いがついていけないんだと思う。


反韓・嫌韓を煽る言論や行動の仕事についている人のことを考えていると、案外キムチは好きで食べている人もいるような気がする。


戦前のキムチが受けてきた扱いのひどさを知っているので、日本人の食欲を満たすことで確固たる地位を勝ち得たキムチの忍耐と努力に拍手を送りたい。



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by far-east2040 | 2016-09-11 15:13 | 文化