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著者は大学教員をされている宮嶋博史氏で1995年に発行された中公新書である。
長い間解けないままに頭の隅にあった問題を解いていく手がかりを得たような感じがした。
たまたま家の検証のために族譜を手元に置いていた時期だったので、その族譜の眺め方、楽しみ方も教わった。


族譜を簡単に説明すると、宗族の男性構成員について、生没年月日、経歴、配偶者などの情報が記載された本で、配偶者は姓と本貫のみの記載であり、女子には本人の名が載せられずに夫と子の姓名・本貫が記される。

現代は女子も男子と同じように名まえが記載されている。


族譜に載っている情報はもちろん嘘や出鱈目ではないが、記載内容については戸籍のような正確さは求められていないと思う。
だから海外にいて詳しい情報がわからなかった私や北朝鮮に行った人たちのような場合は名まえだけになっていた。


お墓についてはわからないけれど、日本でなくなっていることがわかるなら、「墓在日本」となっているケースも見たことがあった。

知り得た情報はできるだけ残していこうという情が伝わってきたものだ。

朝鮮半島の歴史関係の研究者も出版物もまだまだ少なかった40年ぐらい前に、朝鮮史を読み始めた。

両班はそのときに知ったことばだった。


当時は「両班=貴族」で、「ヤンバンは朝鮮の貴族なんだ」となんとなく理解し、雲の上の人たちだから当時目の前にあった「在日問題」を考える際は関係ないものと理解した。
つまりわが家に関係がある身分ではないと。

ところが在日でも「ヤンバン」ということばは思っている以上に身近に聞くことばであった。
日本人が日常生活で「貴族」「華族」「苗字帯刀」を口にする比をはるかに超えている。

父から祖父の家の没落は土地調査事業が原因と聞いた。なぜ申告しなかったのかという点では「うちはヤンバンだから」「ヤンバンの土地は手を出さないだろ」とのん気にかまえて、いつのまにか土地を失ってしまったからだという。
「ヤンバン」ということばで身を守ろうとしていたようだ。

私が知りえた情報で想像するには、祖父が育った一族は他人に貸せる土地も所有していたが、どうやら農業を生業にしていたようだ。しかし汗水流して農作業をしていた感じはない。むしろ男子にあっては肉体労働を蔑んでいた気風が感じられる。
父は祖父のことを「肉体労働ができない人」と表現した。
肉体労働ができないとは、親の世代の男子が肉体労働をしている姿を見ていないと解釈している。
祖父は書堂という当時の教育機関で学び、漢文の作文能力を持つ人で漢字文化圏なら筆談でコミュニケーションがとれたという。

こういうライフスタイルを持つ一族とは一体なんだろうと思ってきたので、この本はとても参考になった。

在日の方は世代を経てきたので、「ヤンバン」を口にする人はほとんどいないと思う。

北朝鮮ではなおさらそうだと思う。


もう6年ほど前に、韓国での宴席で誰かが、相手に姓と本貫という出身地を訊いていて、初対面の相手が答えると「○○(出身本貫名)安氏はヤンバンやね」という言い方をしていたことが印象に残っている。

そういってもらえると答える方もうれしいし、尋ねた方も知り合いになれてうれしいという感情が場の雰囲気をやわらかくしてくれる。

実際にはこういう使い方をするんだわと感心した。


現在の「ヤンバン」は曖昧な表現であり、かつ庶民的で、みんなで共有していて、社交辞令のようになってきているような気がする。


では、この「ヤンバン」を日本語にどう翻訳するか。

「ヤンバン」を「貴族」や「名門一族」と由緒正しい出自という意味合いで訳してはズレでしまう感じがする。

「安氏は何代にも渡って○○に暮らしてきた一族」ぐらいの意味合いを表現する方が日本社会ではなじみやすい気がする。

「ヤンバン」ということばがなじまない社会では、このことばを大層にとらえる必要はないと思っている。


この本によると、韓国社会で出自を「ヤンバン」と意識する人たちはなぜか多いらしい。

著者は、それを一種の社会運動と捉えたら理解しやすいと書かれていたと記憶している。
著者が控え目に表現しているこの「社会運動」という言葉で、私の中で引っかかっていたモノがポロっと取れた感じがしたものだった。


今私は「ヤンバン」と聞いたら、韓国で楽しんだ民俗的雰囲気いっぱいの居酒屋を思い出す。



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by far-east2040 | 2016-08-31 16:13 | アジア図書館

族譜

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韓国語では「チョッポ」と発音する。
 
父系血縁集団である宗族の重要な人物の事績や重要な事件や家訓などを記載した文書である。
中国が発祥で朝鮮半島も影響を受けて作られたもので、15世紀まで遡るらしい。

15世紀に何かあったんだろうか? それとも16世紀ぐらいに出自を明確にしようという運動が地方であったのだろうか?
 
私が育った家にも「族譜」があった。
かんたんにいえば、中祖の偉人を同じとする一族の家系図やそこに連なる男系男子の個人情報である。
最近のものは、時代の変化を受けて、女子の情報も載るが、家系図には連ならない。 

これは韓国にいる親族が、アイデンティティ確立の一助にと考え、好意で父に贈ったものだった。
電話帳のような厚さの本が10数冊並ぶもので、1メートルは超える。1冊1冊の背表紙がしっかりしているので、立てても倒れにくい。
しかし狭い部屋に置くには存在感がありすぎて、息苦しささへ感じてしまう。
 
儒教世界に片足は置いていた父なので、一応男系男子の名前を確認しながら、一族の検証はしていた。
歴史に興味があるという点では私がその傾向を持っていたので、いろいろなことを聞いた。
女子である私には関係ないが、行列字という一族が世代ごとの男子につける名前も父から聞いていた。
 
私は親族のことをあれこれ調べる際、とても便利な資料として2冊だけ手元に置いていた。
最新のものが作成されていることは聞いていたので、父が亡くなったときの身辺整理の際、残りは処分した。
日本でいえば、赤の他人の個人情報を保持するメンタリティーがないからである。
あくまでも資料として私は保持していた。

つい最近その2冊も大事な情報だけをノートに抜き書きして、処分してしまった。
 
在日の方で「自分は
○○中祖から○○世だ」「ルーツは新羅の○○王」という表現を他人になさる人を見かけたことがあるが、ちょっと恥ずかしい。
「それがどうしたん?」と思える感覚の方が日本社会では健全だと思う。

といっても、在日の方ももう世代を重ねてきて、こういう朝鮮半島由来の出自を語る習慣はほとんどなくなってきていると思う。

北朝鮮では建前としては封建制度を否定しているので、こういう習慣はほとんどないと読んだことがある。

よくは知らないので断定できないけれど、韓国の伝統文化としては現代も生きているように思う。
お見合いとかで重要な情報になるのかしら? そうでもない気もする。
とにかく日本に持ち込んで他者にひけらかすことには違和感があるということである。

日本ではそういう情報に価値を置く人はほとんどいない。
 
私の名前も女子にもかかわらず記載されている。これは韓国にいる親族が生年月日は定かでないが、名前だけは載せておきたいという配慮がなされた結果である。
 

韓国で族譜を保持して家で飾る慣習は、日本でいえば床の間の置物とか掛け軸へのこだわりと似ているように思う。または節句に飾る雛人形、鎧兜?

あくまでも保持していることに価値を置いている感じがする。

日本では15世紀までさかのぼる家系図を持っている家庭はほとんどないと思うし、先祖で社会的に出世をした人物を特別に顕彰する伝統もない。


最近山口県の名門の大内氏の先祖が百済の○○王だという情報を知って、その家系の辿り方が朝鮮半島の慣習に近いものを感じて、地理的になるほどありえる話だと思った。


むかし、たぶん私の前だから話題にしたかったのだと思う。九州出身の男性から母方の先祖は庶民に一般化する以前から苗字を持つ家柄で朝鮮半島の貴族に辿れるという珍しい話を聞いたことがある。これぐらいしか直接人と出自に関する話題をしたことがない。

これは部落解放運動の功績だろうか?


こういうことがはっきりくずれるのは、やはりroyal family周辺の婚姻の時だと思う。


日本で儒教的慣習からほとんど自由というか放ったらかしの環境で育ったので、儒教から完全に離れてしまった。
族譜から抜き書きしておいた情報も不要のものになってしまうのも時間の問題だろう。



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by far-east2040 | 2016-08-29 16:13 | 父からの聞き取り

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岩本千綱著 『シャム・ラオス・安南三国探検実記』

もう20年ほど前に読んだ本なので、内容は忘れかけている。

アジア図書館で働いていた頃なので、こういうアジアに関する珍しい本にも出会える機会が多かった。

紹介してくれたのは東南アジア通の男性で、私とそんなに変わらない年齢だったような気がする。

今振り返ると、彼は何をして生活していたのかなと思い出される。

「社畜」ということばは彼から聞いたので、社会にはまりにくかったのかな。


沢木耕太郎のアジアの紀行文はかなり読んでいたようだし、実際東南アジア各国へは観光でよく行ってたようだ。

といってもぞろぞろ団体で行くのではなく、あくまでも単独で。

当時は「お楽しみ」を目的にした団体観光や数人の仲間で行く話はよく聞いたので、彼のような単独者で東南アジア通という存在はなかなかいいものに写った。

男でも女でも一人旅ができるというのは、日本人の中でも独特の性格を持った人たちだと思っている。自分でものを考えている。


で、「笑えまっせ」という保証つきで勧められたのが中央公論社の文庫本である。
「ほんまに笑えるんかな」
と半信半疑に読んだ。

著者は生まじめに綴っているが、なるほど確かに笑える箇所がいくつかあった。

今はネットで結構つまらないことで笑うことがあるのだが、本を読んでそこまで笑うことはあまりないので、記憶に残っている。

1897年(明治30年)の初版を底本として、現代仮名遣いに改めて1989年に出版されたものだった。

この本は古本屋経由でこの図書館に来たことは、最後のページにえんぴつで書かれた店頭販売価格の数字でわかる。
1896年(明治29年)に巡礼僧に身をやつし、現在のタイ、ラオス、ベトナムにかけて冒険旅行を試みた二人の日本人の探検記である。

二人はそれぞれ「三無」と「鉄脚」と号を名乗っている。

私が笑いの壷にはまったところを引用してみる。

「九時頃プラケア村に着す。人家三、四軒、停車場あり、坊等始めて蘇生の思いをなしまず朝餉の料に有りつかんといよいよ托鉢を思い立ちしも、人に向かって食を請いたる経験なき俄坊主の悲しさ、何分に乞食の勝手暗くきまり悪さの限りなければ、二坊互いにその実行を譲り、三無は鉄脚に鉄脚は三無に、イヤ君は名僧らしければまず第一に試み給え、イヤ君はシャム語の名人なれば人を感ぜしむるの妙あらんと躊躇逡巡、先陣の譲り合いはいつ果つべきとも見えざりし折柄、天の助けか仏の恵みか東の方より一老舅の荷物を肩に来掛りしあり。」(岩本千綱『シャム・ラオス・安南三国探検実記』)
 
こんな調子の珍道中。

現代文ではないのでとっつきにくい文体であるが、全体的に偏見のない目で淡々と綴っているのが二人の人柄を表していた。

どんなものを食べ、どんな家に住んでいたかなど衣食住にわたっても、よく観察して具体的に書かれていて、今読んでも新鮮な感じがすると思う。

ラオス、安南(ベトナム)は当時フランスの植民地になっていて、白色人種の黄色人種に対する圧迫を憤っている様子も伺えておもしろい。
小田実の『何でも見てやろう』と重なりもする。
 
この本は1897年(明治30年)博文館から初版が出た。
ぺらぺらの紙表紙の薄手の冊子だったそうだが、現在この本の初版は奇覯本になってしまっているらしい。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に再刻版が出されていて、このときに親しんだ人が多かったという。
だが、この本すら奇覯本になってしまっているとのことである。


隣国の東アジア各国よりも、こうしてちょっと距離があるアジアに対しては案外親密感持てたんじゃないかなと思う。

このぐらい離れた国なら国境問題や拉致問題、タイムリーなミサイル発射とか国民のデリケートな感情に接触することもなくて、メディアも積極的に煽るネタも探しにくくて、いい関係を築きやすいように思う。



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by far-east2040 | 2016-08-28 18:41 | アジア図書館


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現在のベトナムは手頃な値段で観光旅行がしやすくなってきているし、衣服を中心に「made in Vietnam」という表示がついた製品もよく目に付く時代になって、経済的な繋がりも増えてきてると思う。

日本から見れば、もう遠い国ではない。


私はベトナムは日本や韓国と同じように歴史的に中国の影響を受けてきた漢字文化圏の国であり、その後フランスの植民地でもあったことから、いい意味でも悪い意味でも西洋文化を許容し影響も受けてきた珍しい国と捉えている。


そしてこの地で今から考えれば、ばかばかしく思えるのだが、この狭く細長い国で自由主義と共産主義のイデオロギーの違いから、アメリカを中心に想像を絶する悲惨な戦争が繰り広げられた国でもある。


そのベトナム戦争も1973年に終結とあるから、今のベトナムの若者にとっても遠い大人たちの記憶でしかないかも知れない。


朝鮮戦争もそうだが、ベトナム戦争なんて写真集を見ていたら腹立たしくなってくる。

前回のエントリー「アジア図書館の本 ―ベトナムー」で書いた1966年当時社会党の国会議員であった楢崎弥之助氏が発行した写真集『ベトナム』の中から、発行への思いを抜粋してみた。


……「焼きつくし、殺しつくし、破壊しつくす」これがベトナム戦争である。そしてナパーム弾、毒ガス、殺人爆弾シュラプネル、無差別爆弾、虐殺、これはアメリカ帝国主義侵略の実体である。これら侵略の殺人道具は一部日本で作られている。沖縄は侵略のための最大の基地になっている。
 私たちは、ベトナム戦争がどのようなものであるかを日本国民に正しく伝える義務があり、私たちはいま何をなすべきかを訴える責任がある。ベトナム人民との戦闘的友情を果す責務の一つとしてここに写真集『ベトナム』を日本国民の前におくる。……」 


この本はベトナム関連の書籍収集家から個人的にこの図書館に寄贈された本の1冊だった。古本屋を巡り歩いていたときに、店頭に無造作に積まれていた写真集であったと回想されていた。

1973年(昭和48年)1月発行の雑誌「週刊サンケイ緊急増刊」の特集「全記録ベトナム戦争30年」も蔵書として2冊ある。

このようにアジア図書館では雑誌は特集記事に焦点をあてて登録して配架するので、ベトナムコーナーになっているのである。

この2冊は書架で肩を並べているが、別ルートから来たものである。登録番号がかなり離れていた。

いまこの雑誌は日本にどれだけ残っているだろうか? 

全体的にはかなり変色していて、裏表紙も少し破れていた。

長い年月を経た雑誌特有のパサパサとした紙質に変化していた。しかし当時ベトナム戦争がどのように報道されていたか知る貴重な資料である。
 
1986年(昭和61年)発行写真雑誌『PHOTO JAPON』5月号の特集は「41人のベトナム戦争」である。

この雑誌も特集記事から判断してベトナムコーナーに納まっている。

戦争に巻き込まれ、肉体的犠牲を強いられた子どもの写真が多かった。

両足がない子、全身包帯だらけの子ども、物乞いする両うでのない子、墓場で泣き伏す女・子ども、ナパーム弾で顔じゅうの皮膚がむけ、かさぶたのように覆っている写真が続く。


一度見たら、まぶたに焼き付いてしまう。一枚の写真から受けるメッセージは言葉以上。

現在の中東アジアで爆撃などで犠牲になった子どもたちの報道写真とよく似ている。



沢田教一、一之瀬泰三、石川文洋氏など日本人カメラマンの活躍が思い出される。ベトナム戦争の生々しさを命がけでレンズを通して世界に報道しようとしてきた息遣いが伝わってくる。
 

沢田教一は1936年生れでピューリッツアー賞をもらった写真とともによく覚えている。34歳ぐらいでクメール・ルージュが支配するカンボジアで亡くなっている。


一ノ瀬泰三は1947年生れで、やはりクメール・ルージュが支配するカンボジアで26歳という若さで消息を断ち、その後処刑されたことがわかった?

『地雷を踏んだらサヨナラ』という写真集を読んで泣いたという青年がいたが、ベトナムの話になると意気投合したものだった。

今一ノ瀬泰三が生きていたらなあと思う。惜しい人材だ。


最後に石川文洋氏は1938年生れなので、現在78歳。

私はこの写真家は人間味があって好きなのだが、北ベトナム側にあまりにも肩入れし過ぎだといって嫌っていたベトナム難民の方も知っていた。


ベトナム戦争時代、後に政治家となる作家の南ベトナム行きに同行していたのだが、大砲のようなものを北ベトナム側に試しに打つように南ベトナム軍の誰かに勧められてやろうとしたときに、石川氏が「あなたがこういうことをする理由がない」という内容で止めたというエピソードを知ったのもベトナムコーナーの本か雑誌からで、感動したものだった。


今調べてみると、この作家は1968年にベトナム取材をしているので、36歳ぐらいで、それを制止した石川氏は30歳ぐらい?

石川文洋氏の沖縄生まれと関連づけたらいけないのかな。

現在この人のことを顕彰する博物館がホーチミン市にあるらしいから、一度行ってみたいと思っている。


戦争は軍需産業の在庫を減らすためであり、また新たな武器の実験場でもあると強く思っているので、やりきれない。枯葉剤なんかの実験も兼ねた戦場という感じもする。

写真集の迫力という点ではベトナムに並ぶ国はないと思っている。


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by far-east2040 | 2016-08-26 10:35 | アジア図書館

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ベトナムと聞けば、やはり「戦争」ということばを連想してしまう。年輩の方なら、1960年、1970年代の「べ平連」の運動を思い出される方も多いはず。

私自身は生まれてはいたが、その熱気を感じる年齢層ではなかった。
 
現在はシリアなどからの船に乗ってヨーロッパに難民となってやってくる映像がよく流されていて、「難民」が時代のキーワードになっている。

幼い子どもを連れての家族ぐるみの命懸けの脱出行動を見ていると激動の時代を迎えていることを感じる。


1990年前後の難民といえば、ボートピープルと表現されるベトナム難民のことを思い出すのだが、アジア図書館で働くまでは新聞やテレビでしか知らない遠い存在だった。

しかし実際にアジア図書館を通じて何人かの難民と出会ったことがきっかけで、ベトナム難民がなぜ住み慣れた地を離れようと決意したのかという点にとても興味を持つようになった。


私はベトナム難民の人に実際に接していたり、本雑誌を読んだりしているので、たとえばヨーロッパに来るシリアの難民が故国では中流階級ぐらいに属する人たちだろうということは想像できる。

故国で無学文盲、食うや食わずの極貧生活をしていた人たちが難民になったのではない。


とにかく難民を出すにいたったベトナムの歴史的社会的状況を知りたいというのが実際に本を手にするきっかけだった。


書架には、ベトナム戦争当時発刊された時代の証言としての本が多かった。

古本として出回る本の数と、新刊として出版される本の数は比例関係に近いと思っているので、当時ベトナム戦争に関する書物が多く出版された事をしのばせてくれた。

ページを開くと、日本でだれがどのような行動をとり、本を書いたか、何が報道されたか、外国の知識人が何を訴えてきたのか伝わってくる。

1966年(昭和41年)発行の「ベトナム研究会」編集による1冊の写真集『ベトナム』を手にしたとき珍しい本だと思った。

発行は当時社会党の国会議員であった楢崎弥之助氏。なつかしい名前である。

この写真集、縦25cm横40cmほどの一昔前どこの家庭にもあったアルバムのように重量感のある本だった。

発行年を振り返れば、ベトナム戦争真っ只中とわかった。


表紙をめくると、
「民族の統一を願って戦うホー・チ・ミン大統領」
「自由南ベトナムの指導権を担うグエン・カオ・キ首相」
のそれぞれの顔写真が大きく載っていた。
最後のページは「ベトナム民主共和国国家歌」と「ベトナム共和国国歌」も紹介されていた。
中身は南と北の状況を伝えるページ数が平等に振り分けられ、対等に理解しようという姿勢が感じられる構成になっているのがよかった。

まだ「イスラム」という言葉が時代のキーワードになる前のころだった。

アジア図書館のベトナムコーナーの書架は、かつてこの地で何が行なわれたかを語る気概を持っているように感じた。




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by far-east2040 | 2016-08-24 11:15 | アジア図書館

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ビルマ・インパール作戦とは第二次世界大戦中の1944年3月から7月にかけて日本軍が実施したインド侵攻作戦だった。

インパールというのはインドとビルマ(現在のミャンマー)の国境に近いインドの都市で、そこにあるイギリスとインドの軍隊の大きな基地を攻撃するのが目的だった。

3000m級のアラカン山系が横たわっていて、少数民族しか住んでいないような不毛の土地だったらしい。そこを疲れきった将兵が物資やトラックを運びならが越えようというのだから、正気とは思えない作戦だった。

物資の補給など圧倒的に不利な戦いで、全体的には10万人以上の犠牲者を出しているらしい。

インドとビルマの国境あたりの山道は日本軍兵士の死体が野ざらしになり、「白骨街道」と呼ばれるようになったという。

学校教育の歴史授業ではまったく扱わないし、よほど個人的な関心を持つ機会を得た人を除いてほとんどみな知らないと思う。

イギリスの若者の方がひょっとしたら、学校教育の場で学習して知っているかも知れない。

1950年に製作された映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』」に描かれた「インパール作戦」が実相に近いものであるときく。

私も高校までの歴史授業の中で教わった記憶がないが、この映画を観たことがあるので、多少イメージはできるようになった。


アジア図書館にはこの「ビルマ戦線」「インパール作戦」を知るための資料が少なくとも公立図書館よりも揃っている。特集記事になっている雑誌もあった。

こんなに揃っている図書館がほかにあるだろうか。


戦記とか軍隊用語に慣れていない私が少しずつ興味を持って読み始めたのがこの作戦だったので、思い出深い。


この地域は熱帯雨林独特の雨季があって、雨の記載に特徴があった。

まるでホースの先端から出てくるような太くて強い雨粒が降ってきたとか、バケツの水を上からバシャンとかけられるような降り方だったとか、日本では経験しないような雨だったらしい。

だから将兵はぬかるんだ道を行軍し、泥だらけになる。


とくに参考になった資料は次の3冊。


『責任なき戦場ビルマ・インパール(ドキュメント太平洋戦争) NHK取材班

この本はテレビで放映されたものを書籍にしたものだが、テレビのドキュメンタリーの構成がよくて、当時何回も観るほど気にいっていた。

初心者はこの本から読み始めたらいいと思う。


『インパール』  高木俊朗

この方はその他インパール作戦関連の本をたくさん書いている。



『兵は死ね ―狂気のビルマ前線―』 大江一郎

著者は劇団の脚本関係の仕事をしていたが徴集されて中国戦線からビルマ戦線に参加した。

よく帰ってこれたなと思うぐらいのすさまじい経験をしていて、撤退したあとの高級将校たちの宿舎にやっとたどり着いたら、箱の中から芸者の華やかな色の腰紐がたくさん出てきたという意外な内容を読んだ記憶がある。


因みにインパール作戦の部隊を指揮した有名な牟田口廉也中将はお気に入りの芸者をビルマまで連れていっている話はどこかで読んだ。


従軍慰安婦について書かれた本を1冊も読んでなくて、断片的な知識でしかないけれど、朝鮮半島出身の従軍慰安婦は主にこのビルマ戦線に連れていかれたように思っている。ほとんど生きて帰れていないんじゃないかな。


この著者は徴集前まで劇団女優と同棲していて、やっと戻ってきたら、彼女は生活のために米兵相手に仕事をしていて堕胎もするという悲惨な状況にあった。

著者のルサンチマンが滲み出ているような感じがしてこの本は好きだった。


あと、1943年(昭和18年)4月、教養社から発行された『ビルマ戦記』や同じ年7月に大日本雄弁会講談社から発行された『大東亜戦争陸軍報道班員手記ビルマ建設戦』などの変色した戦中の本も目に付いた。

こういう本は貴重なので、貸し出しはできない。
 
1953年(昭和28年)7月、富士書苑から発行された『秘録大東亜戦史ビルマ篇』がおもしろかった。朝日新聞、読売新聞、時事通信社、共同通信社の記者が実際従軍しての現地報告集になっている。

「インパールの悲劇」と題して共同通信社の記者の文章を少しだけ紹介する。

「袋の中の鼠と思いきや、敵陣には煌々と丸い灯がともる。無謀な進撃にわが補給は絶え、アラカン山中滅びに行く兵士たち、それは枯れゆく根無草の運命に似ていた……

こういう本がさりげなく並んでいるところがアジア図書館らしい。



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by far-east2040 | 2016-08-22 14:57 | アジア図書館


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アジア図書館の東南アジアコーナーの書架で一番好きだったのはベトナムコーナーで、次いで興味を持ったのはビルマコーナーだった。

1989年にミャンマーと正式に国名を変えているので、書物の題名もビルマとミャンマーが混在している。
具体的には発行年によって「ビルマ」「ビルマ(ミャンマー)」「ミャンマー(ビルマ)」「ミャンマー」と4種類の表記があり、この国の抱える政治的な事情を感じさせてくれる。

現在はミャンマー連邦共和国が正式名称で、首都は2006年にヤンゴンからネピドーに移っている。普段の呼称はミャンマーでいいのかな。

6割を占めるビルマ族を筆頭にたくさんの少数民族からなる多民族国家で、文字も○が横に並んでいくように見えて愛嬌がある。但し学習するにはハードルが高そうだ。


「ビルマ」ということばになつかしさを感じるのはかなり高齢の方になる。

「ビルキチ」ということばを知ったのも、このコーナーの雑誌からであった。

太平洋戦争中ビルマに駐留した若い日本兵が今でもこの国に強い思い入れを持ち、「ビルマキチガイ」を略して自分たちを呼ぶことばらしい。もうすでに死語に限りなく近い。


ビルマ戦線から戻ってきた元将校や兵士の方はほとんど亡くなっていると思う。

アジア図書館で体験談の講演をしていただいた元将校の方もすでに亡くなっている。
棚に並んだ1冊を示し、この本に自分の名前が出てくるといっていた。

この方も生活が落ち着いてからは、アジアの留学生と積極的に交流しながら、日本語講師をかなり高齢で亡くなるまでやっていた。


戦後よく読まれた『ビルマの竪琴』の主人公水島上等兵に会えるのもこのコーナー。
作者竹山道雄は当初この本を児童書として書いている。
だから公立図書館では児童書コーナーに並んでいるはずである。しかしアジア図書館はアジアを理解するための資料に大人用、子ども用に分けて考えないので、文学の仕切りで隣り合わせに並ぶ。


内容的には子ども向けだし、著者はビルマ戦線を経験していないところもあって、「実際はあんなもんではない」となるようだ。

大人は、死んだ兵士の野ざらしの骨をきちんと弔うまで帰国しないと決断した主人公に感動してしまう。

誰からも好まれる作品だったと思う。ちょっと「忠臣蔵」みたい?
 
で、このコーナーで一番目に付くのは、太平洋戦争の「ビルマ戦線」の体験記である。

この種の体験記の数でいえば、ビルマコーナーが一番多かったのではないだろうか。
文学の仕切りではなくて、社会科学系の仕切りで並んでいたように記憶している。

「ビルマ・インパール作戦」をご存知の方は多くないと思う。現在はほとんど忘れられつつあるように見受けるが、戦中戦後いろいろな立場から書かれたものが出版されている。
書架を眺めていると、一時出版ブームがあったのではないかと思わせてくれる。
どちらかといえば、奇跡的に生き残った将兵たちの体験談という形でまとめられているのが多い。 

悲惨すぎてまともに扱った映画化なんてできないと思う。

戦死よりも栄養失調による病死がほとんどだったのではないだろうか。

戦後まもなくの頃はビルマ帰りといえば、地獄を見てきた人間のように周囲から見られたという内容を小説で読んだことがある。

1990年代、終戦記念日あたりにこのコーナーの前で「無駄死っていわれてたまるか」とつぶやいたご年配の男性を覚えている。世間の論からいったん離れて、戦死についてや「靖国神社」のことを考え始めたきっかけだった。

それまではほとんど靖国神社のことには関心がなかった。

今振り返ると、戦死した戦友のことを思う気持ちはわかるけれど、亡くなった人には感情なんてないので、「無駄死」を認めてしまうと、生き残った自分が救われないのではないかと強ばった姿から想像もできる。


現在の靖国神社は生き残った者の心の負担を軽くしてくれる国家的施設と考えている。

とりあえずここまで。



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by far-east2040 | 2016-08-20 08:54 | アジア図書館

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著者イ・サンクム(李相琴)さんは1930年に広島で生まれ、15歳で祖国に帰国し、その後梨花女子大学で教鞭をとっておられた女性。
副題が「私が日本にいたときのこと」となっているように、宗主国日本で異民族出身日本人としてすごした多感な十代の少女の回想記である。

この女性が日本を旅するドキュメンタリーもテレビで以前観たことがある。

もし彼女の家族が帰国を決断しなければ、在日二世として現在の彼女とは少し違った生き方、思考様式を持った存在になっていただろうと思う。

この本は現在の韓国人の視点で率直に書かれているところがとても興味深い。
さらに、「記憶違い」もあるかも知れないが、知識人なので冷静に客観的に綴られていると考えると信頼できる。


しかし出版された当時は、児童書ということでなかなか手に取って読む気が起こらなかった。

勤めていたアジア図書館でも韓国・北朝鮮コーナーの文学の棚に収まっていた。こういう本はメディアも取り上げてくれやすかったこともあり、よく見かけた記憶がある。

なお、公共図書館では児童書コーナーに並ぶ本ではあるが、アジア図書館では一般向けと児童向けを分けないのでいっしょに並ぶ。


読んだきっかけは彼女が大分県で終戦を迎えていることを知ったことだった。

私の父方も大分県で終戦を迎えて、彼女の一家と同じように普通に暮らせた生活基盤を整理して帰国の道を選んでいる。
この本は父方の歴史を調べるための資料として手に入れた。

終戦の年から翌年にかけて、博多港で他の家族と帰国船を待つシーンのくだりは在日の聞き取りからは抜けている。

彼女より1歳若くて同じように帰国した叔父から、やはり博多港の倉庫のようなところでおにぎりを食べながら、帰国船を待ったと聞いていたので、ぴったり合う。
ちなみに著者とこの叔父の成長期における文化・言語環境はほぼ一緒と理解している。帰国を拒んだことも同じである。

この叔父はもう亡くなっているが、かつて知的世界へ誘ってくれた日本語への憧憬はずっと秘めて持っていたと思う。

尚、彼女の一家が戦中も広島にいたならば、原爆の被害から免れなかったと思うが、その辺のことはまったく触れていない。
 
私は総督府の植民地政策の一つであった「創氏改名」を調べるために名前を特に注意しながら読んだことがある。
戦後の在日が「通称」を使用する遠因が、宗主国日本で暮らし始めたときにすでに始まっていたことを再認識する機会を得た。日本で生きるときに、名前をどうしてすごしたかがところどころで率直に書いていてとても参考になる。原因は二者択一で考えるものではない。

彼女一家は帰国後「帰還同胞」と呼ばれて身のおきどころがないような立場になったようだ。


「当時、アメリカ帰りや中国・満州帰りの人たちは、その地で日本帝国主義に対抗した独立闘士や愛国の志士の血族ででもあるように、いばっていた。そのかげで、日本帰りの私たちは、長いあいだ、肩身のせまい思いをしたものだ。アメリカ帰りの人が英語をしゃべるのは、羨望の目で見られ、日本帰りは、子どもですら日本語をしゃべると叱られた。そして、朝鮮語を教えなかった親も非難された。」


学校に在籍していた叔父や叔母が直面したことばの問題、ことばができない子どもを連れて帰国した祖父母の苦悩を考えさせてもくれる本だった。



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by far-east2040 | 2016-08-17 12:48 | アジア図書館


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在野の女性史研究家であり作家でもある森崎和江さんが書いた『慶州は母の呼び声』という本を興味深く読んでいたときがあった。

1991年筑摩書房から発行された文庫本だった。

姉妹編のような『こだまひびく山河の中へ』という戦後の韓国への訪問記も後半部に収録されている。

この本は、森崎さんの戦前の朝鮮半島での回想記なので、私にはすべてのページの一字一句が貴重な資料となり、父からの聞き取りの内容を検証するのにも便利だった。
 
森崎さんはその他に日本の女性史に関する著作も多いので、書いたものはすべてアジア図書館の蔵書になるはず。

私が若い頃運営に関わった民間のアジア図書館では被差別者としての「女性」というキーワードでも蔵書を蒐集している。

著者紹介より抜粋する。

「1927年、日本統治下の朝鮮慶尚北道大邱に生まれる。1944年、帰国。福岡女子専門学校卒業後、筑豊に住んで創作活動を始める。主著に『まっくら』(三一書房)『ふるさと幻想』(大和書房)『悲しすぎて笑う』(文春文庫)『からゆきさん』(朝日文庫)ほか多数。」
 

森崎さん現在89歳!


「からゆきさん」という存在が知られるようになった頃、からゆきさんについては他の女性作家も書いているけれど、この方の書いたものが一番好きだといってた人がいた。

私はそこまでいえるほど読み比べていないけれど、「からゆきさん」以前に存在した地方のコミュニティにおける性に関する慣習にまで遡って書いていたところに感服した記憶がある。


現在の慰安婦の問題についても、こういう女性史の見識が高い女性にしっかり書いてもらうとよかったように思う。できれば韓国人女性の方がいい。
そこにいくまで時間をかける前に政治や外交問題にすり替えられどうしようもない状態になっている感じがする。


で、この本は彼女のお父さんがヒューマニストで朝鮮人のための中等教育機関の教員だったこと、すごした時期が多感な少女時代だったこと、後年女性史への関心を深めていく作家になる資質を持っていたことで、独特の視点を持つ作品になっていると思っている。


私の父は植民地下の朝鮮半島をわずかな期間すごしているのだが、そのことがとても貴重な体験に思われて、亡くなる前に積極的に聞き取っておいた。たとえば大邱という町に触れる際、父は「りんごのおいしいとこやった」になり、森崎氏は

「八十連隊のある町。りんご園のある町。大邱はそのようにいわれていた。」

と綴っている。


父は朝鮮半島南部の大邱という町の近くで就職したのだが、日本の兵力不足を補うために1944年4月に朝鮮人に徴兵が施行された前後だった。1944年9月には国民徴用令や徴兵が適用されることになっていた。


父は最初は小さな旅館で寝泊りしていたらしいが、ある日旅館が夜中に火事になり、かろうじて逃げて命は助かったらしいが、旅館は丸焼けになってしまった。

父のあの時死んでいたかもしれないという語りの1つでもあった。


この話は最初聞いたときはさほど気に留めなかったが、森崎さんの本からもう一度考えてみた。

この本によると、森崎さんの教員をしていた父親は、徴兵を忌避して山へ逃げ込んだ朝鮮人生徒たちを探し出すためにある夜遅くに学校側から呼び出された。

留守を守っていた森崎さんは裏口に気になることがあって外に出てみると、何かが燃えていてすぐに消し止めた。森崎さんは父親が心配するといけないから、そのことは黙っていたという内容だった。


これは放火である。実は父の泊っていた旅館の夜中の火事も放火で、面事務所で「親日派」として働き始めた内地日本から来た父への殺意による行為と思えなくもなかった。

このように父の記憶と森崎氏の記憶に小さな重なりを発見することが多く、私にはよくぞ書いて残していただいたと感謝したい作品である。



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by far-east2040 | 2016-08-16 15:03 | 父からの聞き取り

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オードリー・ヘップバーン主演の映画『尼僧物語』は1959年製作のフレッド・ジンネマン監督による古いアメリカ映画。
1920年代のベルギーが舞台で、カトリックの宗教行為に従事する人間の内面の闘いを終始描き、最終的には「祈りの生活」から「具体的な行動」を選択していくのだが、そこにたどりつくまでの葛藤の連続が描かれる。

ちょっと暗い映画ではあったが、生き方を考えさせてもくれる。

オードリー・ヘップバーンといえば、華やかなファッションに身を包んで登場し恋をするヒロイン役が多かったことを思えば、ほとんど修道女の服で通したこの映画はとても地味な作品だと思う。
それだけにこの女優の顔立ちの美しさが映えたし、顔の表情を基本にした演技力も際立つ。
後年の人生におけるアフリカへの関わりはこの映画の影響ではないかともいわれている。

原作はキャサリン・ヒュームという女性作家。
最初はご自分の体験談かなと思ったのだが、そうではなくて、実際のベルギー人の還俗した尼僧の体験を聞き取りして書いた小説とのこと。
原作は日本では絶版になっているが、映画よりももっと背景がわかるらしい。


医師の娘であるヒロインは、恋人とも別れて厳しい修行を積んで、最終的にはベルギー領コンゴに看護婦として派遣されることを望む。

やがてコンゴで看護の奉仕をする中、結核にかかる。ここで彼女の働きを評価する医師から献身的な治療を受けて復帰する。
さらにこの医師からからかい半分に「今まで見てきた修道女と違う、この世界に向いていない」と指摘され、ひそかに心乱れる。
この映画には「恋の駆け引き」は一切ないけれど、このあたりのシーンがそれに近いものを連想させてくれる。

で、ベルギーに戻ってきて、しばらく医療施設で働いていたときにパルチザンの関係者でもある若い女性と接触するシーンも画かれる。

「あなたはこういう働き場で求められる人材ですよ」という感じで。
やがてベルギーもドイツ軍に占領され、なおかつ父親を殺されてしまう。ヒロインの内面は一層揺さぶられる。
ついに修道院を出て、パルチザンと連絡をとるだろうなと思わせるシーンで終わっていく。

この映画も原作もカトリックへの批判がテーマではないが、問題提起と解釈できそうな雰囲気はある。出版されたときは話題になったらしい。

私はこの映画を振り返ると、誰の人生も、ある時期からは「葛藤を経て、自分で選択する」という行為のくり返しであることに気づく。
葛藤
選択解釈新たな葛藤選択解釈さらに新たな葛藤……という感じ


話は変わるが、この映画は洋画好きの父親が特に好きな映画でもあった。
今のようにテレビで放映されたものを録画する方法がまったくなかった昭和の時代。
夜中によく洋画が放映されていて、見たいときはその時間帯まで起きて観るしかなかった。

父もみなが寝静まった夜中に一人起きて観ていた。


父は戦中の後半は朝鮮半島南部の山間部の面事務所に籍を置いて働いていたが、このポジションは「親日派」と呼ばれていた。

仕事自体は戦場から遠く離れた農村で、農業指導するというのんびりしたものだったらしい。
朝鮮半島は空襲もなかったし、ぜいたく品はなかったかもしれないが、飢えることもなく徴兵免除も受けていて恵まれていた。


この当時は内地日本と同様、アカの思想や反日帝イデオロギーの弾圧は厳しくて、そのような活動は表だってできないので、「地下」に潜っていた。

父は数回程度ではなくて何回も「地下」活動している人が接触してきて「自分たちの仲間に」と誘われていたらしい。

まだ若いのにこんな日帝の協力者のような仕事ではなくて、われわれといっしょに」という感じだろうか。

このとき初めて「キムイルソン」という名まえを聞いたらしい。

「キムイルソン将軍ががんばってるから」と自分たちの活動に参加するように説得もされたと。

父は精神的な苦痛を感じながら仕事をしていたので、かなり葛藤はあったと思う。

「何度も何度も誘われた」と。


父が「地下」活動に加わらなかった理由を私なりに整理すると以下になる。

① 両親や弟妹が内地日本にいた。

② いわゆるアカの思想なんて知らなかったし、まったく興味関心がなかった。
  どちらかといえば、情で動くタイプだった。

③ 戦中末期、徴兵検査を受けたときに「尼僧物語」の主人公のように結核を宣告されていた。たまに血痰を吐くぐらいで通常の生活を送っていたが、周囲からはもうすぐ死ぬ人間と思われていた。

④ 朝鮮語をまったく話せなかった。朝鮮語ができない人間が朝鮮半島での「地下」活動なんてできるはずがないし、そのことで疎外感もあったと思われる。

というわけで、朝鮮半島の山間部の面事務所で働く「親日派」の末端として8月15日を迎えた。
父にとってはまた新たな苦悩の始まりだった。

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by far-east2040 | 2016-08-14 13:17 | 父からの聞き取り