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アジア図書館へ留学生たちが持ち込んでくれる本国のおみやげは楽しみだった。アジア図書館の棚や壁を飾る民芸品は彼らの寄贈によるものが多い。


共通しているのは民族衣装を着たお人形や、お面、民族楽器のミニチュア、テーブルセンターなどの布製品で、原色の布と竹や木を素材にするものが多かった。
これらの民芸品がアジア図書館をアジア独特の素朴でやわらかな雰囲気に包んでくれていた。
 
私が一番好きだったのは、どのような角度から見ても心をなごませてくれる小さなお人形だった。
休みを利用して帰省する留学生の方から「何か買ってきましょうか」と訊いてくれるときもあり、その場合は絵本や地図が日本では手に入りにくいのでお願いした。
絵本や地図は、アジア図書館の原書の蔵書として、日本国内にいるアジアの国々出身者に貸し出したり、語学スクールの生徒の副テキストの読み物として貴重だった。

私はベトナム語を習っていた時期があるので、ベトナムで買ったという簡単な装丁の小さな越日辞典を講師からもらったことがある。何冊かはアジア図書館に寄贈してくださった。20数年前には越日辞典は貴重なものだった。大手書店でもなかなか並んでいなくて、見つけてもかなり高価だった記憶がある。今はどうだろうか。


また講師がベトナムへ帰省した折には、アジア図書館の蔵書用に絵本も買ってきてもらったが、日本ではもう見ないようなざらざらした紙質のものだったと記憶している。日本の色彩豊かで上質の紙でしっかり製本された絵本と比べたら見劣りするものだが、それはそれでいろいろなことを考えさせてくれた。


因みにアジア図書館では蔵書については大人用と児童用に分けていないので、絵本などもベトナムの文学の翻訳物や解説書などといっしょに文学というジャンルで並ぶ。書かれている言語も分けないので、日本語、英語、ベトナム語で書かれた本がいっしょに並ぶ。


もしアジア図書館をしっかり運営していこうとするなら、英語は必須でアジア各国の公用語ができるスタッフが求められると思う。

こういうブログを書いていると、アジアの民芸品の写真がほしくなって、気軽に撮影させてくれるような施設を探してみたのだが、案外所蔵している場所がない。
アジア各国の民芸品を数多く所蔵して飾っているのは、実は大阪にあるこのアジア図書館だということを再発見した。

それも余裕のある資金で購入してきたものではなく、善意でアジア各地から集まってきたものだ。

珍しいもの、貴重なものが所狭しと飾られているはずだ。

重ね重ね広いスペースがほしいところだ。







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by far-east2040 | 2016-07-31 07:52 | アジア図書館

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民間の市民団体で運営していたアジア図書館の蔵書はほとんど市民からの寄贈だった。届いた段ボール箱に入っている雑誌や本を選別するのは、スタッフとボランティアの大事な仕事だった。

題名や解説を読んだり、長年培ってきた勘を頼りにアジア関連ではないと判断すれば、そのまま段ボールに詰めた。週刊誌でも特集の一つがアジア関連とわかれば、収集の対象になった。

アジア図書館での雑多な作業すべてにいえるのだが、出版物に対する見識があればあるほど助かった。


蔵書にならない古本の段ボール箱の量がばかにならない。狭い倉庫に山積みしていた。そして年に何回か古本バザーを行い、事務局長がその収益金でまた古本屋で蔵書となるアジア関連の古本を買うという段取りだった。

東京方面へ用事に出かけたおりは、神田の古本屋街で大量の古本を仕入れてきた。やはり神田にはいいものがあると聞いた。この方も無類の本好きである。あえていえば、経営や運営に拘るよりも、一日中本をさわっていたい人だった。



大阪市内での中之島まつりや、吹田市内の千里生協まつりは恒例行事のように出店していた。この作業は重たい段ボール箱を倉庫からトラックに積み上げ、現地でダンボール箱を開けて並べ、夕暮れどきバザーが終われば、段ボール箱に詰め直しトラックに積み上げ、また倉庫の一定の場所に積み上げるので肉体労働だった。


人手が多ければ多いほど助かるので、できるだけ市民団体の名のもとにボランティアを集める。当時は携帯電話もなかった頃だったので、自宅にいる時間帯を狙ってお願いの電話をする。私は人にお願いするなら、自分でさっさとしてしまいたい人間なので、夜に固定電話をかけまくり会員に頭を下げるこの作業はすごくいやだった。


私のような数少ない有給スタッフはもう休む暇なく働くことを暗に求められた。この市民団体が持つ汗を流すことを良しとする体質は今も根っこのところで変わっていないと思う。ほんとうはブラック企業以下の労働条件なのに、崇高な理想を掲げることで覆い隠そうとしていたように思い出す。気持ちが高ぶるのでここまで。


今は古本の売買をする大手チェーン店が街中には多いし、ネットで簡単に欲しい古本が手に入る時代になった。当時は町の細々と経営していた古本屋ぐらいしかなかったので、アジア図書館の古本バザーは人件費がほとんどかからないこともあって、そこそこの収益はあったと思う。


一時はアジア図書館も広いスペースで古本屋を経営していたときもあり、安定した現金収入をもたらしていたと想像できる。

こうして市民から寄贈される古本は、すべてアジア図書館の蔵書に反映されることになる。

広く市民や研究者の方に知られるようになると、アジア関連の本を出版した著者や出版社から直接寄贈してもらうことも多くなった。「ぜひこの図書館に」といわれることもあり、確実に知名度は上っていった。

こういうふうに集まった本雑誌類50万冊ほどが一部を除いて倉庫に眠っていると思うと残念だ。
しっかりした団体運営ができる方のもとで市民に開放されることを切に願っている。



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by far-east2040 | 2016-07-30 08:25 | アジア図書館

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モンゴルの留学生としてモンゴル語の講師をしてくださったCさんはそんなに若い人ではなかったので、多分研究者として来られた人だったと思う。チンギス・ハンを中肉中背まで小さくして、温和な表情にした真面目で腰の低い男性だった。


私は多くの留学生と接していたので、モンゴル語の先生だからなんとなくモンゴルから来た留学生と捉えていた。
当時の私のモンゴルの知識は講演会などから得たお祭りのナーダムとかゲルという丸い家、ガウンのような服、草原を駆け抜ける馬とか、この程度の知識だった。


あるときCさんは中国からの留学生だという事実に接した。それまでの見識では納得できなかったのだろう、確かめるためにCさんが忙しそうにコピーを撮っている後ろ姿に「先生の国籍は中国ですか?」と尋ねた。

「はい、そうです」と手を休めず、ちらっと顔をこちらに向けて答えてくれた。

「じゃあ、中国語もできるんですか?」と続けて訊いた。

「あ、はい、そうです」と消えていくような声で返してくれた。



それまでモンゴルの政治的歴史的事情はほとんど知らなかったので、しばらく考えさせられるぐらいの驚きだった。私はこういうことに気に留めやすい人間でもあった。

Cさんは中国の内モンゴル自治区出身のモンゴル族の中国人だった。内モンゴル自治区では中国語とモンゴル語が公用語になっていた。


もう20数年もむかしの話になる。

Cさんに珍しいモンゴルのお話をしてもらうために小さな講演会を企画した。新聞なども好意的に紹介してくれたので、当日集会室は予想を越えて人が集まり、こちらは椅子を集めてきて用意するのが大変だった。

なんと名古屋から新幹線に乗ってこの講演を聞きに来た人もいた。


私が記憶する講演会で一番参加者が多かった。

講演を前にCさんも「モンゴルブームだから」といつもの小さな声でいったのだが、あまりうれしそうではなかった。


今こんな思い出を書くために1990年代初めがどうしてモンゴルブームだったのかと調べてみた。相撲取りの朝青龍の活躍はもっと後なので関係ない。


1991年12月 旧ソ連崩壊

1992年    モンゴル人民共和国をモンゴル国へと改称

         新憲法を制定し社会主義を放棄


こういう歴史の転換期にあり、モンゴルが日本にとって身近な国になって行く出発点だったのかと思う。それでモンゴルブームが創られてきたのかな。


朝青龍や白鵬などの相撲力士はみなモンゴル国出身で、Cさんとは違う。因みにモンゴル人は2つの地域を北モンゴル、南モンゴルと呼ぶとのこと。

Cさんはモンゴル語講座では縦書きの試し書きのような珍しいモンゴル文字も教えていた。この文字はモンゴル国ではもう使われていない。
これって民族分断の一つになるのでは?

一口にモンゴルといっても、歴史的に見れば複雑で奥が深い。


振り返ると、1990年代初頭のモンゴルブームはCさんにとってはちょっと距離を置いて眺めるものであったかも知れないと思い出している。

でも、中国語とモンゴル語を自由に話せるのは貴重だ。複数の言語を話せる方がこれからの時代何かと便利だと思うので、よかったようにも第三者からは見える。



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by far-east2040 | 2016-07-29 07:36 | アジア図書館


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アジア図書館で最初に会うことになった語学スクールの講師がインドネシアの国費留学生だった。色が浅黒くて、明らかに東アジアの顔つきではないので緊張したし魅了もされた。何人か覚えているが、すべて男性で教養と育ちと性格の良さが滲み出ていた。


1990年代始め頃、ビジネス関連の見識があまりないので詳しく語れないが、日本と経済的な繋がりが大きい国になりつつあったように思う。

それと、バブル経済がはじけたといえども、気軽に若者が行ける国になっていたように記憶している。バリ島とか行ってきたという話しをよく聞いたし、海外出張で行かれる人の話も聞いた。


インドネシアのファンもタイ同様多かった国だと思い出されるが、ちょっと違う面もあった。当時とても行きやすかったタイ、フィリピン、台湾、韓国と比べると、インドネシアはイスラム教徒の国ということが影響していたと思うが、日本人男性が特に「楽しみ」だけを目的とした旅先には選ばない面があったように思う。

だから国としていろいろな矛盾があったとしても、日本から女性の目で見れば凛としているところが感じられた。


言語としてのインドネシア語はアジアの言語の中でもやさしい言語に属すると思う。さらにマレー語とかなりの部分重なるし、フィリピン語とも似ているので、インドネシア語をマスターすると便利そうだ。その上文字がアルファベットで、語順も英語に近いようだし、声調がない。タイ語やベトナム語の比ではない。


勤め帰りにインドネシア語講座に通われていたBさんを思い出す。

仕立てのいい背広、なじんだ通勤かばん、髪の毛の白いもの、物静かな話し方、柔らかな面持ち。
バブル崩壊後まもなくのころで、多分定年退職を真近にされて、残りの社会人生活を穏やかにすごされている人とお見受けした。

授業が始まる前にちょっと雑談をしていたら、かばんからインドネシア語で書かれた手紙を誇らしげに見せてくれた。インドネシアの少年のフォスターペアレントをしているので、ときどきその子から手紙が来るのだという。その手紙を読めるようになりたいので、インドネシア語を勉強されていた。

B
さんが戦中をすごしたのは少年時代だった。だから同じアジア人でも日本人と顔つき、肌の色、生活様式がちょっと違うインドネシアはあこがれの国として少年の幼い心を揺さぶった。

「ああ、もうすぐいっしょになれるんだ」とラジオの戦況放送を聞きながら思ったという。
「大東亜共栄圏」の実現を素直に信じていたという。
「侵略戦争なんて……考えたこともない」こういう意味合いのことをつぶやいていた。

戦後の左右に揺れる世の中の論調とは別のところで、Bさんは幼い心がつかんだインドネシアをそのまま暖めてきたのではないだろうか。それが具体的にインドネシアの恵まれない子どもの里親をやることに繋がった。Bさんにとってはほとんど経済的負担にならない。

アジアの子どもの里親になったことがきっかけで、その国の言葉を勉強し始めた人は何人か知っている。みんないい人達だった。



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by far-east2040 | 2016-07-27 08:45 | アジア図書館


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私がアジア図書館で働き始めた頃のベトナム語教室の講師は難民の男性Sさんだった。いわゆるボートピープルと呼ばれる形でベトナム戦争後の社会を出国し、非常に危険な航海途上で救出され日本に難民として入ってきた人だった。
1990年頃だから、難民として日本に入国して、日本での生活にも慣れてきた頃だった。この方は生徒さんから人望があった。その後しばらくしてさらに別の国へ行かれたと聞いた。


インドシナ難民なんてもう最近は聞かないことばだけど、1975年頃にベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国が社会主義体制に変った際、その新体制になじめないとか迫害を受ける恐れがあるとかで海路で国を脱出した人達だった。
アジア図書館で働いたことによって、ラオスやカンボジアの難民とはまったく会う機会はなかったが、ベトナムの難民は何人かと会う機会はあった。


いろいろな情報に接して見ると、それぞれの国に華僑がいたし、ベトナムとラオス、カンボジアでは文化と顔つきも言葉も文字も違っていて、インドシナ三国という言葉では括れない複雑な事情を感じたものだった。


ベトナムが一昔前は日本や韓国と同じように漢字文化圏の国であることはあまり知られていなかったように思う。実際に接すると、基本的に勤勉であり、教育を尊ぶ傾向は儒教の影響を感じた。
そのせいだろう、本国で大学を出たり、また日本の援助団体の協力で日本の大学で学ぶ向学心の強い人たちが多いと思った。

傍から見ると、いわゆるキン族のベトナム人とベトナムに住む華僑の人たちの違いはわからない。ご本人たちはわかるようだが、ベトナム難民という一括りでは捉えられない確執もあったように当時は感じた。

ベトナムといへば、ベトナム戦争の悲惨なイメージがどうしてもつきまとうので、講師を囲む生徒さんたちは他の教室にはない独特の暖かさと社会的関心を持っていたように思う。
 

当時韓国の留学生にベトナムという国に対するイメージを訊いたことがある。国が分断したり同じ民族同士で戦争をしたという似たような悲劇を経験した国として、親密感はあるという内容を語っていた。その時の韓国人の「ベツナー」という英語らしい発音といっしょにずっと耳に残っている.


私は韓国語をもう少しブラッシュアップする必要性があったにもかかわらず、一人の生徒としてベトナム語教室に席を並べた。未知の言語に挑戦したかったことと、難民やベトナムという国に興味があったからだった。
しかし縁あって教えていただいた講師の先生はベトナム人留学生の夫人で、目に深みがある美しい人で、日本社会から好感を持って受け入れられる立ち居振る舞いをする気品のある女性Kさんだった。
第一印象は小柄な黒髪のフランス人だった。
 
K
さんはベトナムの民族楽器の琴を演奏する人でもあり、小さな国際交流の場で活躍されていた。細身の身体に身につけた民族衣装(チャイナドレスとパンタロンに似ている)と、小さなベレー帽のような頭飾りをつけたあでやかな姿で登場されると、ためいきが出そうだった。
統一後のベトナムで音楽教師をなさっていたので、教え方も上手で堂々としていた。
ベトナム語は私にはむずかしい言語で終わってしまったが、「人が変わった」ようにきびしい顔をして真剣に教えていただいた思い出は残っている。


K
さんがたまたまアジア図書館でベトナム難民の男性と会ったことがあった。気まずいのかなとちょっと心配したが、すぐに打ち解けて、お二人とも目を輝かせて故郷のベトナムの思い出話をされていた。抑揚のある早口のベトナム語で、まるで鳥のさえずりのように聞こえたものだった。
 
私は、統一後のベトナムで生きていくことに困難を感じて出国した人と、新たな社会で生きていく場を見出していった人を同時に見ていたことになる。
二人に共通しているのは、人としての良識とベトナム人として誇りを持ち、政治・イデオロギーにさほど熱くならないことだと思えた。
 
日本で微妙な立場の違いを越えて、はにかみながら話すお二人の姿を思い出すことができる。



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by far-east2040 | 2016-07-26 08:10 | アジア図書館

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中国と同じように多言語社会であるインドの共通語のヒンディー語教室の先生は在日インド人の夫人であるМさんだった。インドで大学を卒業しておられるエリートで、しかも長く語学教師をしているのので教え方は安定していた。

この方もインド出身の知識人らしく出身地の言葉(グジャラート?)とヒンディー語あともう一つの言語が少しできると聞いたようなが気がする。そしてもちろん英語と日本語ができた。


ヒンディー語の生徒さんはそれぞれが独立していて群れないタイプの人が多かったという印象がある。お坊さんもいたし、インド人男性と結婚後インドで住む予定なので、勉強している若い女性もいた。日本人男性にないものをインド人男性に見出し、お金持ちでもなく何もないような所へ行こうとする彼女の情熱にこちらは感服。


アジア人と結婚が動機となってその地の言語を学習する日本人女性はときどき会った。

アジア人女性と結婚する日本人男性よりも純粋な傾向はあったように思う。もちろん例外もあるだろうけれど。
 
さて、Мさんがちょっとした内輪のパーティーに民族衣装サリーを着てこられると、必ず注目された。インド人独特のやや浅黒い肌と深みのある目元をしていて、日本社会ではどこへ行っても目立ちそして絵になる方だった。

2012年のインド映画「マダム・イン・ニューヨーク」の主人公と重なるところがある。大阪の庶民的な町を歩くサリー姿の彼女のことを覚えている人は少なくないだろう。

 
そんな彼女から、インドでは少しいわゆる「ぽっちゃり型」がもてることを聞いたことがある。だから1枚の布をくるくる身体に巻きつけるサリーから、肉づきのいいお腹が少し張り出して見えるほうが魅力的なのだという。私は生れた国を間違えたかも知れない。

Bさんに2,3枚サリーを持参してもらって、アジア図書館で「サリーの着付け教室」を女性客限定で企画したことがあった。予想以上に女性が集まり、にぎやかな雰囲気の中、かんたんなサリーにまつわる話しを聞いたあと、実際にお客さんにも着てもらった。サリーは持ち運びや手入れが簡単そうな布一枚の民族衣装だと思う。「マダム・イン・ニューヨーク」の映画でも主人公は何枚もスーツケースに持参してニューヨークに来ている。

当日のМさんが着ていたサリーは色無地に全体的にスパンコールのようなものが縫い付けてあってきらきら光っていたので、「スパンコールがきれいですね」なんていったら、「ダイヤモンドです」といわれて、参加者とびっくりした思い出がある。全体だから、何十個ではなかったはず。

あるとき「インドの女性はみな美人」という内容のことをいわれたのだが、返すことばが見つからなかった。そうですよね。アジアの中でもオリエンタルといわれる人たちの顔つきとは明らかに違う。みんな彫りの深い顔立ちを持っているので、迫力で負けてしまう感じ。
 
このようにはっきりものをいう気さくな性格が私は好きだった。在日インド人として長く滞在していたので、いつか本国へ帰る留学生とは違う「在日」感覚もあり、親密な会話をもたらしてくれた。


子どもがまだ小さかったので、将来の教育に関してはいろいろ考えていて、日本が英語の会話力がしなやかに身につく社会でないことはすでに感じておられた。

そういえば、アメリカの親族から子どもの「マクドナルド」という発音を手厳しく非難された話も聞いた。つまり「きちんと英語を教えなさい」と。



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by far-east2040 | 2016-07-25 07:12 | アジア図書館

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マレーシアの国語であるマレー語クラスの講師になっていただいた方は二人記憶しているが、偶然どちらも女性の方だった。言語的にはほとんど同じインドネシア語の講師がみな男性だったこともあって、今でもマレーシアには女性のイメージを持ってしまうのが困りもの。
 
マレーシアで大学卒業後さらにスキルアップするために来日したRさんは、ずっとベールで「尼さん」のように髪の毛を隠しておられた。時にはベールではなくて、毛糸の帽子をすっぽりかぶっていた。つまりイスラム教圏内の慣習を日本でも工夫して実践しておられたというわけである。外交的な性格で体型もふっくらして、初対面ですぐ好きになるタイプとお見受けした。

こんな文章を書いていると、ますますマレーシアに行って、この女性ともう一度会ってみたい気持ちが募る。私は当時に比べたら、肩の荷が軽くなりすっかり抜け殻のようになってしまったが、彼女はひょっとしたら政府関係の仕事で活躍されているかも知れない。庶民的で器の大きい頼もしい女性だった。

イスラム教では一夫多妻制で男性は4人の女性を娶ることができるのだが、なんと彼女は第二夫人だった。このお話はまた別の機会に。


彼女は当然ベール姿で電車に乗ることもあり、ある年配の男性乗客が近づいてきて、尼さんと間違えたのか、手を合わせて頭を下げていったことがあるというエピソードをおもしろおかしく語っていた。

一度アジア図書館の会員向けの会報に顔写真が小さく載ったことがあった。電車の中で男性が一人近づいてきて、「会報であなたのことを知っている」といって挨拶してくれたことをうれしそうに語ってもいた。
 
イスラム教といへば、「ラマダン」ということばをご存知の方は多いと思う。このラマダンは「断食」のことではなく、日の出から日没までのあいだ断食をする月名のことである。まったく食事をとらないことだと思っていたが、そうではない。正しくは日没から日の出までの間に一日分の食事を摂るそうだ。重労働者や妊婦、産婦、病人など体調不良者は免除されると聞いたが、敬虔な信者は断食の間は自らの唾も飲み込まないそうだ。
 
どうしてこんなつらいことをするのか。一種の宗教的な試練をラマダン中には世界中のイスラム教徒が実践することで、一体感を共有することになると理解している。

あるときRさんは打ち合わせをしているとき、日没の時間が来たことを確認して、かばんからタッパーウェアのような容器を取り出して、いっしょに食べましょうといってすすめてくれた。中には角砂糖の形をしたごはんの塊(?)だった。断食明けによく食べるものらしい。Rさんはほんとうに敬虔なイスラム教徒だった。

「ちょっといいですか」といって衝立の中に入り、持参していた白い服を上からさっと被り、床にすわれるだけの大きさの敷物を敷いて、その場にしゃがんでメッカのある方向にお祈りをしている姿を見たこともある。イスラム教にはあまりいい印象を持っていなかったので、認識を新たにしたものだった。


日本のゆるい宗教環境から見れば、中華系のマレーシア人以外=イスラム教徒という枠組みは窮屈そうに見えるのだが、仏教やキリスト教と同じように宗教であって、イスラム教そのものは別段過激なものには思えなかった。



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by far-east2040 | 2016-07-24 07:29 | アジア図書館

アジア図書館と中国語


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1990年始め頃のアジア図書館の語学スクールでは、中国語についてはレベルごとのクラス数が一番多かった。常連さんも中級クラス以上で学べる人も多かったし、生徒の年齢層にもはばがあった。

もともと全体的に女性の生徒が多いアジア語学スクールだが、中国語クラスは男性も多く、男女比は極端にならずバランスがとれていたような記憶がある。
 
あくまでも私の印象だが、タイ語やインドネシア語の生徒さんたちと比べて平均年齢が少し上がっていたと思う。そのせいか教室は大人の雰囲気があった。天井まで届く本棚の背を合わせただけの壁でコーナーを仕切っていたので、となりの「タイ語のクラス」から若い笑い声が聞こえてきたりすると、違いをいっそう感じたりもした。


講師で記憶に残る一人は私費留学生で、難関大学院に合格できるほどの優秀な男性だった。今はどうされているのかしら。中国に戻っているのかな。
アジア図書館は中国の有名な新聞も定期的に購読してファイルしていたので、授業が始まる前に熱心に読んでいた姿が思い浮かぶ。


ある日、彼から講師料を少し上げてもらえないかという相談を受けた。確かに安い講師料だと思っていたので、深く同情はしたが、例外を作るわけにはいかなかった。

現在も世間の相場よりもかなり安い講師料しか出せていないと思う。営利で運営していないので、金銭面は仕方がなく、もし不満があるならばよそでやってくださいとなると思う。


生活はしっかり政府から保証されていた国費留学生と生活すべてを自分でまかなわなければならない私費留学生の余裕の差は歴然としていた。
 
学校教育を受けた中国人はバイリンガルであることもここで知った。中国人は自分の出身地域によって家庭で使われることばが違うからである。

この事実を知っている日本人はどのくらいいるかな。この事実を認識するだけで、中国の国土の広大さが認識された。日本でバイリンガルといえば、高いハードルがあるように感じるが、実はアジア各国ではさまざまな政治的歴史的地理的要因が絡んでめずらしいことではない。

日本で外国語教育の場で「中国語」というのは「普通話」(ふつうわ、中国語ではプートンホア)と呼ばれるもので、中華人民共和国が漢民族の共通語として作った言語である。「普通」は中国語で「普(あまね)くゆき渡る」を意味するそうだ。普通話は中国の公用語で、各民族も学ぶことが推奨されている。つまり学校で習う言語ということである。

実際モンゴル系と朝鮮系の中国人留学生がいたが、どちらも母語とは別に「中国語」を話すことができた。中国人だから、当たり前かも知れないが、受け留める私は少し衝撃を受けた。

私はこういう人にはよく「ものを考えるときは、何語で?」と訊くのだが、相手はちょっと考えて一応答えてくれるがはっきりしなくて、あらためて問われて困っているという感じだった。

頭の中で考えているときには言語は関係ないのかな。
 
台湾でも「中国語」を「国語」と呼び、学校で習う。ちなみに世界で一番多く話されていることばとのこと。うなづける。
 
出身によって家庭で話される漢民族のことばは、北京語、広東語、福建語、上海語、客家語、台湾語などまだまだあると思う。漢字の羅列は同じで読み方が違うのだろう、つまり言語の数が漢字の読みの数と等しいか、日本の方言ぐらいの違いと思いきや、まったく違う言語になるらしい。福建語を知らない中国人は福建語でおしゃべりしている人たちの会話はまったくわからない。
 
知人の女性は台湾ご出身で、家庭では台湾語で中国語は学校で学習したが、2つの言語を場によって自由に使い分けていたという。

別の台湾出身留学生は家庭では客家語を使い中国語を学校で学習し、日本留学のために日本語もマスターしていた。その女性の夫の母親は台湾語しか話せない人で、戦前日本の領土になっていたことから日本語を話せたらしい。だから二人は日本語で意思疎通をはかっていたと笑いながら語っていた。
 
このあたり日本に住むものの発想を超えていると思った。



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by far-east2040 | 2016-07-23 07:27 | アジア図書館

アジア図書館とタイ語


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いま大阪市東淀川区にあるアジア図書館の語学スクールではどこの国の言語の教室が人気があるのかしら。韓国語かな?


私がスタッフをしていた時期で1992年あたりは、圧倒的にタイ語だった。傍で見聞きしているかぎり、日本人にとって学習しやすい言語とは決して思えないのに、募集すると人は集まった。

いろいろな人が集まったけれど、会社勤め風の若い女性が多かったような気がする。あと個性的な生き方をしていたそれほど若くはない男性が少しという感じだった。若い女性が多いと教室が華やかになる。
 
タイ語はボールペンでためし書きをするときに描くらせん状の線のような独特の文字である。半月が横になったような線図がところどころ載っかっていて、愛嬌がある文字だなと思っていた。しかし、インドネシア語やベトナム語などの文字はアルファベットであることを考えると、文字習得だけでも時間がかかりそうだ。

その上日本語の場合は「、」があり、欧米の言語などは単語と単語の間にブランクがあって自由に一息つけそうだが、タイ語は中国語のように一つの文に切れ目がない。

だから初心者には、早々に学習意欲がそがれないように、文字をいきなり教えることはなかった。
では、発音はやさしいのかといえば、5種類の声調は決して日本人には学習しやすい言語ではないはずである。声調があって文字も見慣れないものなので、アジアの言語では日本人が学習するにはむずかしい言語の1つだと思う。
 
にもかかわらず習いたいと思わせるものがタイ語にはあった。一番の理由は、旅先でタイというお国柄に魅了され、次回行くときまでに少しぐらいのことばはしゃべれるようになりたいと思う人が多かったからだと思う。

中国や韓国のように意味のない偏見を持つという歴史的な経験がないし、「いまだ解決していない問題」と表現されるような政治問題もないから、魅了された後「疲れる」とか「裏切られた」という負の感情を持ちにくいことが幸いしていたと思う。
 
講師になってくれたタイの留学生は、ほとんど国費の留学生だった。顔立ちだけを見たら、中国人とほとんど変わらない。実際「中国系」であることを語る人もいたが、それでもタイ人としてのアイデンティティを持っていて、他の東南アジア在住の中国系と称する人たちとは違っているように感じた。
 
タイの歴史は中国系との接触なしには語れないが、接触の際生じる葛藤があまりなかったのではないだろうか。見識不足でこれ以上は語れないが、そんな気がする。
 
日本に留学するチャンスを得ることができるということは、本国である一定の階層出身者であることを表している。夏休みを利用して講師の留学生の家におじゃました生徒さんの一人から「ものすごく大きかった」という率直な感想を聞いたことがある。

クラスはアジアの貧富の差を学ぶ機会も提供していた。



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by far-east2040 | 2016-07-22 08:00 | アジア図書館


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アジア図書館の貸し出し業務をする傍ら、手が空いたときは、B6サイズのぺらぺらの登録カードに書かれた古本の情報を、パソコンに入力していく作業をしていた。

この作業は現在もボランティアの人たちに助けられて続いているはず。


登録カードに題名、著者、編者、出版社、どの国や地域のどういうジャンルの内容かを把握して分類コードを記入していく作業で手書きだった。雑誌なども特集記事内容で分類していたので、記事名を題名にして登録していた。


市民から持ち込まれた雑多な古本の登録なので、どうしてもこういう手作業が必要になってくる。これを私が一枚一枚パソコン画面に入力していた。


パソコンの環境設定は詳しいボランティアの人がやってくれていたが、OSはまだウインドウズではなくてMS-DOSだった記憶がある。そういえば、日本語変換プログラムももっぱら一太郎を使っていた。

若いからこつこつやれたことで、辞めてから頚椎を傷めていることがわかり治療に時間もかかったので、この作業を思い出すとちょっと複雑な思いを持ってしまう。


当時この登録カードを主に作成して下さっていたのがAさんというボランティアの方だった。
私の父親ぐらいの年齢の方で、ご自分の会社経営は他の方にまかせて、冷暖房設備はなくて、夏は扇風機で涼を取り、冬は石油ストーブで暖を取る倉庫のような作業場で、平日は毎日登録カードを作成しておられた。歴とした老舗の会社の「社長さん」であり、アルコールも相当好きな方だったと聞いていた。

会社には居場所をちゃんと教えていたので、たまに会社から電話がかかってきて「社長」の顔になっていたとのこと。こんなことが陰で話題になるぐらい、社長という別の顔を持っている人には見えなかった。

作業場への「通勤」には長年使ってきたよれよれの風呂敷を使い、中は読みかけの文庫本や自作の短歌や俳句を書いたメモ類や大学ノートだったと記憶している。
 
ほとんど感情を出されない方だった。飄々として疲れたら好きな本を読んだり、たばこをふかしたり、ぶらっと外に出て気分転換されていた。マイペースでちょっと「浮世離れ」した方だった。同じ空間にいても別世界にいるような感じもした。今思い出すとおかしさがこみ上げてくる。

Aさんの書いた登録カードの字が読みづらいものだった。直接はいえないので、事務局長を通じてもう少しわかりやすく書いてほしいと頼んだような記憶もあるが、あいかわらずだったような気がする。
昼間からアルコールが入るときもあったのだから、仕方がなかった面もある。ときどきデータ入力作業を中断して、カードとにらめっこしていたのがなつかしい。 

こちらが読み取ろうとする集中力を少しでも失えば、とたんに読めなくなる字というしかない。つまり達筆なのである。訊いて教えてもらって初めて「ああ、そうか」と思わず言いたくなる字。わかってしまえば、それまで波打っていた字が意味のある文字に見えてくるから不思議。
 
私が納得した顔を返すと、そばでAさんはにこっと笑っていたものだった。ご自身をひけらかすタイプではなかったのだが、出版物に関しては相当な知識を持っていたように思う。そういう知識がなければ、やれない作業でもあった。


作業場の最寄り駅は大阪の下町で商店や住宅が密集した地域にあり、新幹線の高架下。作業中に新幹線が通過するたびにゴーという音が鳴った。風呂敷包みをぶら下げて、ちょっとアルコールが入ったような足取りで歩くAさんの姿は目立つようで案外目立たなかったかも知れない。
 
もうお亡くなりになっているが、アジア図書館にいた頃の私の思い出の中で音を立てずに静かに存在している。



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by far-east2040 | 2016-07-21 10:00 | アジア図書館