震災の年の墓参り

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今読み返すと、当時こんなこと考えていたのかとちょっと感心している。

*
出迎えてくれた空港で、事故の状況を心配していた叔父叔母に「日本の将来はわからない」と答えた記憶がある。

叔父は自宅がフクシマ原発から何キロ離れているかを心配そうに確認していたが、実は叔父たちが住んでいるところは日本の熊本あたりとさほど変わらない。しかも原発がけっこう近くにある。

子ども達はみな北米に移住したが、その地点は私が住む地点と汚染状況は同じぐらいではないだろうか。

この年の秋に叔父は癌を患った。同じ癌ですぐ上の叔父は震災前に亡くなっている。叔父たちは若いときはヘビースモーカーで、みやげとして贈った日本製のたばこを美味しそうに吸っていたのを覚えている。

もう何が原因がわからない。

叔父のおかげで日本で安心して暮らしていることを対面で言えたことがこの旅の何よりの成果だった。



                      2011-03-30 公開

子どもの春休みに合わせて計画していた墓参りを兼ねた韓国旅行から戻ってきたところ。
原発事故処理が予断を許さない状況の中での出発だったので、帰ってくるときは日本がどうなっているかちょっと心配だった。半分冗談で、半分本気。
釜山空港ではばっちり放射能検査が実施されていた。

旅行ガイドの女性から、韓国でも24時間ニュースが流れるチャンネルで地震発生以来ずっと放送されていたという。さらに原発の深刻な事故がわかると、マスクを買う人が出てくるなどちょっとパニックになったという話しを聞いた。しかし、風の方向を冷静に考えると、むしろヨーロッパの方が影響が大きいことがわかってきたので、落ち着いているとのことだった。

「韓国では地震がないといわれているが、あんな津波が釜山に来たら大変だ」ともいうので、詳しく訊くと、釜山にも原発があることを教えてもらった。これは知らなかった。

「菅さんもたいへんだ」とも語り、首相よりも大統領のような強い権限を持った方が危機の際にはいいのではないかと語っていたが、大統領と首相では何が違うのか私は今ひとつわからない。彼女から見ると、今の日本の政治は議論が多くて前に進めない感じがすると。管さんにないのは強いリーダーシップだという。私はこの三重苦に苦しむ事態では誰がリーダーになってもしんどかったと思う。

正直いうと、もっと心穏やかな気分で旅をしたかった。
久しぶりに会った叔父叔母たちと墓参り、会食を楽しんだり、難波や心斎橋の賑わいと重なる「西面(ソミョン)」でのウインドウショッピングや急に金持ちになったような免税店での買い物もよかったが、心のどこかで原発事故状況が気になっていたからだった。
ホテルの部屋ではNHKのBS放送が見れたので、流れるテロップで余震は続いているが、大きな変化はないことはわかっていたので安心はしていたが。

この旅行を起点にやろうと思っていたことがあるのだが、集中できそうにないので、しばらく置いておくことにした。

やっぱり原発事故の今後の影響が気になるわ。
落ち着いたら、因果関係をはっきりさせることがむずかしい子や孫への影響を考えたり、誰がいうべきことをいわなかったか、また嘘をついたかが問われる時代がくるだろうと思う。




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by far-east2040 | 2016-06-30 11:58 | 震災

中国の子どもの読み書き

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アジアからの留学生に講師になってもらい語学スクールを運営していた頃の思い出。1990年代始め頃かと思う。

*

こういう仕事を少ししていた経験があるので、今でもアジアで使われる言語の多様性に興味を持っている。

*

アジア地域で初等教育で習う言語と家庭で使われる言語がほぼ同じなのは、日本と韓国・北朝鮮ぐらいではないだろうか。この職場で発見することは多かった。
*



                   2010-11-11 公開

むかし中国人留学生から「日本語はひらがながあるからいいわ」と突然いわれたことがある。ちょっと感情が高ぶっていたので、授業中何かあったのか知れない(笑)。
私が「どうして?」と聞くと、「中国の子どもはしゃべることができても、読み書きができない。だから手紙なんて書けない」という。
なるほどと思った。

日本ではたいていの子どもは小学校に入学する前にひらがなは読めるし、早い子は書ける。小学校低学年で、漢字に読み仮名をつけてやれば、少々むずかしい文章でも読める子はめずらしくない。
ひらがなさえ習得すれば、手紙や、日記に自分の思いを綴ることができる。
「おかあさんが すきです」「おにぎりを たべました」「おとうさんと うみえ いきました」とか。
 
彼女は中国の子どもはある時期までそれはできないということを嘆いていた。「漢字ばっかりの国」のお国事情を密かに聞いたような気がした。

漢字は数が多いし、複雑な形の部分で構成されているし、画数の多さといい、学習するには圧倒的に不利な文字である。それを中国人自身から直接聞いたので、「ああ、やっぱりそうなんだ」と思った。
中国でも簡略化した漢字を考案したり、ローマ字化を試みているけれど、中国語はやはり漢字の世界である。

日本での「ひらがな・カタカナ」、朝鮮半島での「ハングル」が体系化されてきたのも、漢字が持つ不便さへの解決していくためだっただろうと思う。
こうなると、中国大陸を意識して、日本と韓国が「ひらがな・カタカナ」「ハングル」の歴史的作成努力を互いに讃え合ってもいいんじゃないかなと思った。

ところが、残念ながらかつて韓国では植民地時代に教育機関から「ハングル」の学習の場を奪われたという歴史を持っていることに気がついた。ちょっとややこしくなりそう。

ふと思ったけれど、中国ではパソコンや携帯に文字を打つときどうするのかな。日本語と同じようにローマ字入力だと思うけど、それができるようになるまで、やはり相当な学習時間がいるのではないだろうか。




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by far-east2040 | 2016-06-28 12:30 | アジア図書館

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著者が社会人で大学に入り直して朝鮮語を学ぶ動機の一つが被害者から通訳なしに直接ヒアリングしたいためというのをどこかで読んだ。

子どもを保育園に預けながら、大学生活を続けるなんて、よほど強い信念がなければできなかったと思う。

この本を読んだとき、「そうかな?」と思うところもあったけれど、全体的には私にはとても貴重な本だった。



                          2010-07-16公開

副題はー「韓国の広島」はなぜ生まれたのかーである。
「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の会長をなさっている市場淳子さんの著作である。1998年に前会長松井義子さんが亡くなられたので、その後を継がれたのだと理解している。

著者紹介から抜粋する。
「1956年、広島県生まれ。大阪府在住。1979年1月に初めて韓国を訪れ、在韓被爆者の実態に接して以来、「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の活動にたずさわり、現在会長。大阪外国語大学、神戸女学院大学朝鮮語講師」

松井さんに講演していただいたときに、後継者としてこの方の名前を聞いていた。当時市場さんはまだ手のかかる子どもさんがいるのに大学に籍を置いて朝鮮語を学ばれ,と同時に「市民の会」の活動もなされていたということで、松井さんが評価されていたことが記憶に残っている。

その市場さんのこれまでの活動の報告と、「韓国の広島」と呼ばれている韓国慶尚南道陜川郡の歴史的・社会的研究をまとめられたのがこの本である。この本を通じて、いっそう原爆の使用に対して強い怒りを持つようになった。

私が在韓被爆者に関心を持ち始めた理由は個人的なものである。父方の一家の戦前戦中戦後の歩みを検証したいと思ったとき、祖父や祖母は亡くなり、父の世代も高齢になってきたり亡くなったりと、直接話しを聞く機会がなくなっていたからである。

故郷はどんなところか、日本に渡るとき、また帰国したときどういうふうに、どんな手段でと想像するものの、具体的にイメージできないことを残念に思っていた。

だから祖父の故郷が「韓国の広島」と呼ばれていることを知ったときは、在韓被爆者と祖父は何が違っていたのか、どうして祖父は広島を選ばなかったのかという疑問から資料を探すようになった。そういう理由で在韓被爆者の資料の一つとして、この本に出会った。この本は韓国語の文献からの引用もあり、参考になることが多い。

広島・長崎の原爆の被害への憤りを持つとき、私は日本人だけでなく朝鮮半島出身者も視野に入る。




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by far-east2040 | 2016-06-27 16:00 | 被爆

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こういう方に直接お会いできたこと今でもよかったと思っている。


祖国が解放された頃、亡父はふるさとに戻っていたので、広島から帰国してきた原爆被害者から直接原爆の恐ろしさを陜川(ハプチョン)郡のどこかで聞いている。

「電車が舞い上がった」と。

日本育ちの亡父は生々しい証言を聞いて、

「ああ、自分を育ててくれた日本がもうめちゃくちゃになったんだ」という感慨で胸がつぶれそうだったと。

機会があれば、知る人はもう誰もいないふるさとに一度訪ねてみたいと思っている。



                                      2010-07-16公開

在韓被爆者の救済に中心的役割を果たした「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の代表をなさっていた方である。

スタッフとして働いていたアジア図書館で企画した「アジアを囲む会」という集まりでお話しをしていただいたことがある。もう20年ほど前になる。テーマが硬いとやはり人の集まりは望めなく、この日もごく内輪の人の集まりになってしまった。

当時は「アジアブーム」といわれていた頃なので、テーマ次第では椅子が足りなくなるぐらい人が集まったので、裏方として申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし松井さんはほとんど気になさらず、それまでの活動のあらましに始まり、当時何が問題になっていたのかを講演してくださった。
* 
講演後は車で来ておられたので、スタッフと近所の喫茶店でお茶をご一緒した。
ちょうど真向かいにすわることができたので、
「ふるさとは陜川(ハプチョン)郡なんです」
と普段口にしない故郷の名前を出すと、
「韓国の広島といわれているところですね」
と即座に返してくださったのだが、会話がとぎれてしまった。

私もふるさとが「韓国の広島」と呼ばれていることは知っていて、
「そうであったかも知れないけれど、そうではなかったという立場」をどう表現すればいいのか、どうしても運がよかったということになりそうな気がして、ことばが続かず失礼してしまった。ただ活動に対して敬服していることを一言いいたかったのだが。

1998年12月に70歳で亡くなられたことを新聞の小さな死亡欄の記事で知った。確か葬儀もなさらなかったと記憶している。偶然参加していた集会で司会をされていた、きりっとした痩身の姿を思い浮かべて、あの方らしい生き方でしめくくられたという印象を持った。
* 
現在でも、密かにこういうふうに生きたいと思っている方のお一人である。
* 
後日、植民地だった「満州」の大連で生まれ、戦後無教会派のキリスト者として活動をなされた経歴を知った。著作も多いので紹介させていただく。

 『台所の聖書』 (聖燈社 1976
 『わすれなぐさ』 (キリスト教図書出版社 1985) 
 『平和のパン種』 (東方出版 1993
 『死ひとつひとつ』 (松井昌次・松井義子追悼文集)(松井謙介編
                            番紅花舎(さふらんしゃ) 2003




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by far-east2040 | 2016-06-26 09:29 | 被爆

アジアの名前あれこれ


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震災半年前こんなこと考えてけれど、のんびりしてたなと思う。


結婚の形態がすごく変わってきているので、名前に関しては、これからはビルマのように婚姻や血の繋がりなどに重きを置かないで、単に「Aさん」「Bさん」「Cさん」のように個体の認識のみ使われる世界になっていくような感じがする。つまり個人としてああだこうだと主張し合ってるネットの中の世界。

全世界を視野に入れて名前を考えるだけもいろいろなことが見えてきそうだ。



                                          2010-09-20公開


朝鮮半島が日本の植民地になっていた頃の政策「創氏改名」を調べる機会があって、氏や姓、ファミリーネームについて考えたことがある。

日本の苗字は血縁集団ではなく、「家」の名前である。
かつて儒教文化圏にいた民族は血縁集団の名前である姓(苗字同様に姓がない階層もいたらしいが、ここでは考えない)を使う。漢民族や朝鮮民族、ベトナム民族など。血縁関係を表しているので、婚姻関係で変わることはない。一つ屋根の下に暮らす一族では、配偶者として嫁いできた女性だけが別の姓を持っていることになる。  

一方イスラム教文化圏内では姓や苗字を持たず個人名だけである。
むかしマレーシアの女性に、名前の後ろに「アリ」とか「モハメッド」に似たごつごつした男性をイメージする名前が付いていたので訊いてみた。
○○はお父さんの名前で、□□はお祖父さんの名前」と答えられて、儒教社会の姓のように父系を表現する努力を感じて納得できた。この名前の表現方法はモンゴル人も同じで、朝青龍の本名もこういう構造になっているはず。

ミャンマー(ビルマ)について調べることがあった。この国も多民族社会で、多分マジョリティに関する情報だと思うけれど、名前については個人名しかないとのこと。その個人名に母系はもちろん父系も表現する慣習がないらしい。つまり一つ屋根の下に暮らす家族はみなバラバラの名前しかないことになる。びっくり!
ネット上のニックネームのような世界かな。私にはなかなか理解しにくい状態で、「不便じゃないのかな」と思ってしまう。
しかし食べることや生きることに、また政治的に不自由はあっても、名前に関しては不自由はしていない。逆に世界的に見て女性の地位はそれほど低くないということをデータを使って説明していた。

以上は私が持っているアジアにおける各民族の名前の情報である。他の民族のことはわからないし、頭の中はすっきりと整理されていない。

というわけで、アジア全体を見渡して、名前について各民族の時系列の変化や現在の状況について書かれた一般向けの本を読みたいと思っている。




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by far-east2040 | 2016-06-24 10:37 | 名前

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原発が危ないことはわかっていても口に出せない雰囲気があった原発城下町と呼ばれる村で大工をしながら、暮らしていた中で大震災が起きた。彼女の家は地震でも壊れなかったので、すぐに通常の生活に戻れたという。


                                            2011-05-10 公開

暗くなったころに、まず「冷却水ストップ」のニュースが、ニュースの中でほんのちょっとです。すごく大きなことなのに、ちょっとだけニュースで聞こえました。
「何か起っているんだ」と思いました。それから1、2時間後、3キロ圏内避難指示というニュースが入ってきて、夫といっしょに避難しよう、何が起るかわからないから少し離れたところまでいって寝ようといって、パジャマを着せた子ども、5歳と1歳の子どもがいるんですが、子どもを車の後ろにふとんを敷いて乗せて、とりあえずの荷物、「取りあえず、取りあえず」って自分の身に言い聞かせながら、家を出ました。

そして40キロ離れたとこまで行って一晩明かし、次の日は100キロ離れた会津の辺まで行って、様子を見てましたが、いっこうに収まる気配はなく、水素爆発の手前のころでしたが、私はそのとき後ろに髪が引かれて、自分が住んでいたところはきっと大丈夫って避難を決められなかったんですね。
でも夫は小さい子もいるんだから、絶対川内には帰れないから、離れようっていうんですね。頭ではわかってるんです。けど、心と身体が動かないんですね。突然断ち切られて、自分の家から出てきて、しばらくぼーっと会津若松の町ですごした後、あるときに「あっ、そうか、私が住んでたあそこにも放射能が来ちゃったんだ」って認めた瞬間があって、とっても悲しくて。
それからとりあえず「しばらく滞在できる岡山の実家に帰ろう」と決めて、車で新潟を通って3月13日に岡山に着きました。

今私が住んでいた川内村は全村避難で村の人たちはほとんど、牛を飼っている人や鶏を飼っている人はどうしても離れなくて、少しは残っているんですけど、今川内村はからっぽです。

働き者の大工の親方も、春が来て種を撒きたいお百姓さんたちも狭い避難所やビジネスホテルでこの春を迎えています。

きょう広島の町にバスに乗って入ったときに、「あ、そうかっ」て気がついて、ここは原爆が落ちたときに、やけどをして亡くなった人たちは、私はもう後に生まれてその人たちは被爆者としてしか認識していなかったけど、8月6日のその日まで普通にそこに生活していた人たちだったんだという事実に気がつきました。


今、福島県で被災している人たちも、当たり前のように自分の場所でささやかな幸せな日常を送っていた人たちが自分たちの土地を生活を離れています。またそれは放射能は目に見えません、一見自分が住んで場所は何も風景が変わっていません。少しだけ屋根は落ちていたりするんですけども、変わっていません。その事実を認識することのむずかしさということも感じています。

人はお金がなくても、土と水と空気さへあれば生きていけます。どんなに札束があったって人はそれだけじゃ生きていけません。私たちの命を支えるものは、この大地と水と空気です。その一番大切なものを福島県の人たちは奪われてしまいました。これから5年、10年ずっと長い間どうぞ福島の人たちに思いを寄せて、関心を持ってそして愛を送ってあげてください。

それから、この教訓をエネルギーシフトへの明るいエネルギーに変えていけるように人がつながって、つながることからしか力は生まれないと思います、みなでつながって変えていけたらいいなと思っています。

……

このあと1分ほど、彼女が取り組んできたフラダンスの紹介があるが、うまく聞き取れないので省略。
動画の中では、冷静に語ろうとする彼女の揺れる肩や息遣いが伝わってきて、観た人はみな彼女に好感を持つと思う。

関西なので、福井県の原発で何かあれば、まず水がだめになるだろうから、次世代である子どものために避難しないとだめなのかなと考えている。
 



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by far-east2040 | 2016-06-22 15:05 | 原発事故

岡山から福島に来て、自給自足のライフスタイルを築き、大工になった若い女性が自宅から20キロ離れたところに原発があることに気づいたという前回の話の続き。



                                             2011-05-09 公開

そこの川内村は原発城下町と呼ばれていて、経済を原発関連の仕事についている人がたくさんいました。また村としても助成金をたくさんもらっていました。
そんな中で「原発が危ないよ」という声を上げることはタブーのような、ちょっと重い空気を感じてました。それでも村で住む人たちは肌で原発が危ないということを知ってました。なぜなら、原発に働きにいった人が病気で亡くなるからです。

私と同じ部落に住んでたおじいちゃんおばあちゃんには大事な一人息子がいました。その息子さんは若いときに亡くなりました。かれの仕事は原発関連の仕事でした。

また2年ほど前、村で人一倍元気な村づくりにほんとに貢献してたいいおじさんがいたんですが、その人があっという間に急病で亡くなりました。その方も仕事の一部で原発関連の下請けの仕事をしてたことを知ってました。

そんな話しをいくつも聞きながら、住んできました。村の人たちは「危ない」って気がついてたけれど、その……そうですね……、いらないとはいえない状況にありました。
そんな中で私はもし、もし原発で働いる人が同じ電気を作る仕事だったらば、ソーラーパネルを作る工場だったらどんなにいいだろうか、燃料電池やリチウムイオン電池とかそんな新しい自然エネルギーの工場だったらどんなにいいだろう、同じ電気を作る仕事でそう思っていました。

そんな中3月11日地震が起り、今まで心配していたことがほんとうに起ってしまいました。
地震は震度6強だったので、家はずいぶん揺れたんですけど、私が建てた家はうまく揺れてくれる家だったせいか、あまり被害がありませんでした。
そして、割れたものを片付けたぐらいで、あとはもともとライフラインがないところですから、停電することもなく、自分たちで掘った井戸からくみ上げて、五右衛門風呂を薪で沸かし、薪をくべてご飯を作り、いつもの通り夕方生活を再開始めました。

そこまでが私が川内村で暮らしていた時間でした。

(続く)


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by far-east2040 | 2016-06-21 09:27 | 原発事故

この動画を見たとき、自分もやりたいと密かに思っていたライフスタイルを実践されていて、こんな女性いるんだわと感心したことを覚えている。私が現在畑を耕したりて野菜を育てる生活を持っているのはこの若い女性の影響も少しあるので、忘れがたい。

しばらくして、別の動画でインタビューされている彼女も見たのだが、飾り気のない語り口を持つ魅力的なか細い女性がそこにいて、かなりやつれているようにも見えた。こんなにも涙が出るものかと思うぐらい避難後、悲しくて毎日涙を流し続けたことを話していたことが印象に残っている。

あと、当時彼女は風邪をひいて実は体調も悪かったことを知った。

比較的安全な西日本にいたので、何かやれることがあればと思い、この女性の感動的な話を文字に起こしてみようと思いついた。震災からまだ2ヶ月しか経っていない頃だった。


                                              2011-05-09 公開

4月24日に行われた「原発なしで暮らしたい100万人アクションinヒロシマ」という屋外の会場での若い女性の講演内容を動画で知り感動した。飾り気のないことばはとてもわかりやすくて伝わってくるものがあった。
彼女がどんな生活を福島で築き、置いてきたか。

とりあえず、何回かに分けて、彼女の話す内容を文字に起こしてみることにした。

3月11日まで福島県双葉郡川内村の住民でした。今30キロ圏内の丸のなかにすっぽりはいるところです、川内村は。

12年前、1999年から自給自足の生活がしたいと思いまして、選んだ農場がたまたま福島県でした。とてもそこに惹かれたので、岡山から研修にきました。そしてその後、東北の美しい自然が気に入って そのままそこに住み着くことになりました。

住み着いた場所は電気も電話も通じていない、もちろんガスや水道も通ってない山の中でした。そこにまず自分で小さな小屋を作り、田んぼや畑でお米や野菜を育てて暮らし始めました。

そのあとで村の大工さんと知り合って、大工になりたいと思っていたので、4年間大工修行をしながら田んぼや畑を作るという暮らしをしていました。

そのあとで横浜で設計士をしていた夫と知り合って、今度は二人で大工を卒業した後で自分たちで20坪ぐらいの木と土壁の家を作りました。


新しく作った家には夫が電気がほしいといって、ソーラー発電を取り入れました。電線が来てないところなので、ここと同じシステムです。畑にパネルを置いて、そこから出来た電気をバッテリーにためて、そこのバッテリーに入っている分だけを使いながら生活する。だから曇りや雨が続くときは、ちょっと電気を抑えながら暮らすというお天気に合わせたような暮らしをしていました。

そこはとても自然が美しい所で、場所が気に入ってすみ始めたんですが、住んですぐ原発が20キロのところにあると気づきました。

そして、チェルノブイリで起ったことを本で読んで、その「こと」の大きさということがわかって、そこに住みながら自分にできる行動をとってきました。

(続く)


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by far-east2040 | 2016-06-20 14:18 | 原発事故

今読み返しても、この詩から強くて心地いい緊張感をもらう。

若い頃から詩にはほとんど興味関心がなく、味わう方法がわからない表現だったのに。
詩を読むよりも、もっぱら散文かもっと制約をうけながら凝縮されたことばを探し創意工夫していく短歌の方が好きだった。今でもそれは変わらないけれど、詩の良さを発見したことはまちがいない。


この詩に出会って5年。どこに惹かれた?

作者辺見庸さんが死者によりそう人間的やさしさと怒りを雄々しい言葉で表現し、時には神や仏の世界に挑戦的なことばを投げかけていくところだと思う。この詩はキリスト教世界に生きる人では作れないと思った。

もう一つはジャーナリストと詩人のことばが一人の人間の中で共存できることの驚きだと思う。 

辺見庸さん今どうされてるかしら。



2011-05-06 公開

4月30日に再放送されたNHK「こころの時代宗教・人生」を録画していたのを連休中ゆっくり見終えた。
辺見庸さんといえば、ジャーナリストで『もの食う人びと』の著者としてしか知らなかったので、詩人としての出演は意外だった。
病気をされて身体が少し不自由にしているように見えたが、創作への強い意欲を持っておられる。出身地は被災地でもある宮城県石巻市。番組は私にとっての「3・11」を語るシリーズということで、今回の題は「瓦礫(がれき)の中から言葉を」だった。

1回聞いただけでかんたんに咀嚼できない言葉を、唇を噛み締めながら訥々と語っていたので、録画してよかったなと思った。「個」ということばを何度か強調する中で「希望」ということばも口にしていたのが印象深い。

一番よかったのは番組最後に流れた辺見さんが4月18日に脱稿した新作詩。
響くものがあって、思わず早戻しして書き取った。原発事故のことばかりに気がいって、震災で亡くなった人や周辺の人への想像力が欠如していたことを秘かに感じいった次第。


「死者にことばをあてがえ」
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけの歌をあてがえ

死者の唇ひとつひとつに
他とことなる
それだけしかないことばを吸わせよ

類化しない 統べない
かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬え

砂いっぱいの死者に
どうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか眠りにおちるな

石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ

浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな

わたしの死者
ひとりびとりの肺に
ことなる
それだけの
ふさわしいことばが
あてがわれるまで


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by far-east2040 | 2016-06-19 11:26 | 震災

今読み返すと、5年前テレビやネットの情報を得ながら、こういう本からも刺激を受けていたことを思い出す。


2011-04-25 公開

近所のブックオフを覗いて、新潮文庫の棚で偶然見つけたのでさっそく購入した。夕飯の後片付けを終えてから読み始めて日付が変わるころまで一気に読んだ。

茨城県東海村の核燃料加工施設「JCO東海事業所」でウラン燃料の加工作業中の作業員による臨界事故。放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線による被ばく事故。作業員自身が臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」と呼ばれる青い光を直接見ているという。裏マニュアルにそったバケツを使った作業だったことは有名。

この本は被ばく者の一人の大内さんの治療記録。
過去に前例のないケースなので、医師も看護師も試行錯誤の治療を続ける意味を問う深刻な葛藤を抱えていたことが伝わってくる。
一方、大内さんの家族は医療スタッフを全面的に信頼し、最後まで望みを捨てないという姿勢を持ち続けていた。特に妹さんは自らの骨髄と皮膚を提供している。こういう家族の支えが医療スタッフ側の救いになっていたと医師は証言している。

入院当初は看護師がほんとに重症患者なのかと思うほど、心身のダメージをほとんど受けていなかったが、ある時期からどんどん悪化していったらしい。
内部被ばくの怖さー放射線がDNAを破壊し、身体を内側から溶かしていくという。

前回のエントリーでも触れたが、夫人が賢明な方だ。
大内さんが亡くなって1年たったころの夫人から医師にあてた手紙がある。

「事故以来、ずっと思うことは、自分勝手と言われるかもしれませんが、例え、あの事故を教訓に、二度と同じような不幸な事故が起きない安全な日々が訪れたとしても、逝ってしまった人達は戻って来ることはありません。逝ってしまった人達に今度はありません。
 とても悲観的な考えなのかも知れませんが、原子力というものに、どうしても拘わらなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。所詮、人間のすることだから……という不信感は消えません。
 それならば、原子力に携わる人達が自分達自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません」


胸を打つ文面なのだが、もし私の身内が大内さんのように入院したならば、きれいな身体のまま楽にさせてほしいとまちがいなく頼むと思う。ここまで被ばくしたなら直せないことはこの本を読むとよくわかるから。

なお、大内さんと篠原さんに対する業務上過失致死などの罪に問われたJCOの6人の幹部の裁判は、2001年4月23日始まった。この中で検察側は、大内さんの妻が「夫は日ごろ自分の仕事は危なくないと言っていたが、仕事の危険性をよく理解していなかったのだと思う。今では夫は会社に殺されたのだと思っている」と証言していたことを明らかにした。


当時、現場ではJCOの社員による決死隊が組織され、国の現地対策本部の指揮下で、臨界を収束させる作戦が展開された。
私はこの決死隊は将来自分の子どもを持つ可能性がない人が抜擢されたと人伝に聞いた。当然若い人ではない。この本は大内さんだけを焦点にあてているが、犠牲者は他にもいるように思うが。

ただちにすべてを止めることはむずかしいと思うが、「止めましょうよ、原子力なんて。怖いじゃない」というのが率直な感想である。


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by far-east2040 | 2016-06-18 11:53 | 原発事故