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主人公たちは子役から青年になり、戦中の朝鮮半島が舞台になったので、当時の日本語と朝鮮語の使用について考えてみた。

植民地時代だからといって、朝鮮半島は一様な日本語使用社会ではない。
ドラマでも町の看板を始めとする印刷物は漢字、ひらがな、ハングルが混在していた。
慣れるまでちょっとおかしかったが、登場人物はドラマなので日本人役の俳優もみな韓国語を喋っていた。

実際は日本人同士は日本語、朝鮮人同士は朝鮮語のはず。
では日本人と朝鮮人が出会う場ではどうだったろか。
朝鮮半島が併合された初期のころは通訳が活躍したと思う。


植民者二世として朝鮮半島で生れ育った作家森崎和江著『慶州は母の呼び声』によると、


「わたしの父は大邱公立高等普通学校、つまり朝鮮人の少年たちの五年制の中学校に勤めていたのだ。朝鮮人は家庭では朝鮮語であったが、併合後は国語は日本語ということになり、生徒たちは国語として日本語を学習した。普通学校の入学率は低かったが、学校では朝鮮語のほかに日本語を学び、高等普通学校の受験を志す子は日本人の子らとかわらぬ理解力を日本語にも示した」


教育を受けた若者になったチェフンもカンチョルもバイリンガルだった。

銀行の頭取になったチェフンが総督府に出向くシーンがあったが、流暢な日本語で交渉できたのだと想像する。

Koreanは教育を受けてバイリンガルになれるいうことをこの時代に経験している。


さらに森崎和江さんの著作によると、


「わたしの父は、他の日本人教師と同じように朝鮮語を使えなかった。総督府では官庁の職員に朝鮮語の習得を奨励していた。その試験の合格者には手当を給付した。公用語は日本語だったが、都市部はともあれ、村に入ると必要だったから朝鮮語を話す役人や警察官はすくなくないのだった。」


ところが、1938年の第三次教育令で随意科目になり、しだいに教育現場から「朝鮮語」は排除されていったという。
しかし農村部や朝鮮人同士や家庭の中では当然のことながら、朝鮮語で話していた。

亡くなった私の父も農村部の面事務所(日本でいう村役場)で働く下級官吏だったが、農家をまわるときは朝鮮語を話せないので、日当で通訳を雇っていたという。

「学校でうっかりして朝鮮語を話したら、先生から怒られたり、「ごめんなさい」と謝らされたりした」という内容で思い出を語る韓国にいる遠縁の親族を数人知っている。

こういう風景は沖縄で日本語を普及していくときにも一時見られたという文章をどこかで読んだ。東南アジアでもそうだったかも知れない。

戦中は公教育の現場や官公庁においては日本語使用が徹底されていった時代だった。
理由はなんだろうか。朝鮮語の学習時間が国語の学習の妨げにはなっていないと思うが。どう考えてもバイリンガルの人間や社会への圧力と写る。

森崎和江さんのお父さんが戦後日本に引き上げてきてまもない頃、自分の教え子たちが一人でものを考えるときも日本語だということを気にかけて泣いていたという思い出も読んだことがある。

私はバイリンガルでないので、ものを考えるときの言語の選択がどんなものかよくわからない。

学校で習った主たる言語がものを考えるときの言語になるのかな。


話がそれてしまうが、1942
10月に朝鮮語学会事件というのが起こった。詳しく語る見識はないが、ハングルを保存していこうとする学者たちの集まりだった朝鮮語学会の主要メンバーが別件で治安維持法違反で逮捕されるという事件だったらしい。

8月15日の解放後、「地下」でしか行動がとれなかった学者たちが一斉に表に出てきて、まずハングルを教えないといけないということで、にわかに講習会のようなものが開かれたらしい。

亡くなった父もそのような場で子どもがひらがなを学ぶようにハングルを習ったらしい。

「そのへんの先生ちゃう。えらい学者に教えてもらった」と語っていた記憶がある。


で、なぜ戦中こんなふうに朝鮮語使用を弾圧したかだが、私はやはり戦力不足を補うために実施された朝鮮半島での「徴兵制」が関係しているように、ドラマを観て改めて思った。


これはKoreanにしてみれば、負の記憶として残ってきたと思う。



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by far-east2040 | 2016-09-29 14:49 | 言語

エスペラントと英語

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2010年チリでの鉱山事故を知って書いた文章の再掲と英語について最近思うことを書いてみた。


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「エスペランサ(希望)」を聞いて知人を思い出した。

                              2010-10-14


チリ北部の鉱山事故で地下に閉じこめられた作業員救出作業が昨日から始まった。一人目がカプセルから出てくるところはリアルタイムで観ていた。いよいよお父さんが上ってくるという段階に入って、幼い息子が感極まって泣き出すシーンが感動。ちょっとウルウル。

一連の報道の中で、希望を意味する「エスペランサ」ということばを何回か耳にしたのだが、夫も私も50代という若さで逝ったエスペランチストの知人Hさんを思い出す瞬間を持っていた。もともとは夫の行きつけの「立ち飲み屋」の常連客という縁で親しくなり、私も数回いっしょに飲んでおもしろい話しを聞くことができた。

満州から引き揚げてきたのだが、38度線を越えてやっと韓国の釜山で引揚船に乗る際、親とはぐれて迷子になって「あわや……」という話、引き揚げ後の生活の困難さ、学生運動、挫折、語学を必死に勉強したこと、新婚旅行は韓国のエスペランチストを訪ねる旅でもあったこと、好きなヨーロッパ映画の題名をそのままお嬢さんの名前にしたこと、息子さんの行く末を心配していたことなど。 

酒をこよなく愛する人で、ヨーロッパのエスぺランチストを自宅に招いて交流という知識人の顔も持ち、下町の「立ち飲み屋」で庶民の酒を一人でたしなむ時間も大切にしていた。なじみのスナックでは「先生」と呼ばれていたと夫の証言。

「アナーキスト」を自称して、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の時代背景あたりのアナーキズムの在野の研究家でもあった。このあたりはむずかしくてよくわからないのでここまで。

仕事柄インターネットは早くから利用していて、一般に普及し始めたころ、インターネットで世界をつないでいく言語として「エスペラント」の地位を上げることに関心を持っていた。積極的に講習や講演をしていた頃に「病」を得て亡くなった。
本人の強い希望で「葬儀」「周囲への告知」もしていない。夫も「立ち飲み屋」でのうわさで初めて知った。

もちろん英語は「言語帝国主義」ということばで否定的にとらえていて、受身で聞くしかなかった。
アジア図書館にいた頃は「エスペラント」について考えるきっかけもあったが、その頃に比べるとだいぶ考えが煮詰まってきて、今なら私の「言い分」もあるが。

数年前、新聞のコラム記事で、同じエスペランチストでもある夫人が遺稿集を編集しているということを知った。

どうやらチリでは33人全員が救出されたようだ。

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H
さんがもう亡くなって10年ぐらい経っている。

アナーキストだからなのか、政治、経済、宗教など世の中のこと全般に渡って感情的になることはなく、距離を置いてクールに眺めている感じだった。

世俗的なことにほとんど興味もなかったようにお見受けした。


病気になってからは医師から大好きな酒類を一切止められていて辛かったようだ。
亡くなった後、夫人がかばんの中から飲みかけの焼酎の入った瓶を見つけたという笑えない話を聞いたときはほんとに好きだったんだと思った。

Hさんの亡くなった年齢を今の私はとっくに越えている。

あらためて早く亡くなりすぎたと思う。


英語についてはHさんが今生きていたら、「やっぱり英語じゃないですか」と言いたい。

多言語を話す人たちを知っているので、人間は複数の言語をある程度受けいれる能力は誰でも持っていると思ってきた。

日本社会では英会話能力を伸ばす必要性がなかった。

これだけ米国の影響下にあるというのに、不思議だ。


エスペラントについてはこれからもいっそう衰退していき、20世紀の遺物になると思っている。もうひょっとしたら、遺物かも知れない。


エスペランチストは日本だけでなく、世界のどこでもそうだと思うが、インテリやエリート層の趣味の言語という感じがしてきた。


H
さんからエスペランチストの学習会にはそうそうたる肩書きを持つインテリが集まり、エスペラントで講演しているときに、途中でいつのまにか英語に切り替わったりしたなんて話を聞くと余計に思った。


エスペランチストが平和主義者だということには敬意を持っているが、私から見れば、雲の上の人たちだ。

そういう人から言語帝国主義ということばで、英語をさらりと流してエスペラントをと言われてもそう簡単に納得できない。


社会的に立派な肩書きはなくとも、エスペラントを話せる人はほとんど英語(地域によればロシア語)も話せる人ではないだろうか。それと外国語の効率的な学習方法や楽しみ方を知っている人だと思う。


一方で、母語+学校で習う外国語、または生活のために身に付けた外国語で四苦八苦してる人たちは多いはず。私もそうだ。


しかし、この程度の英語でも、インドで幼い妹を学校に行かせるために物売りをしている少年とかんたんな会話は通じるだろうし、アジア各国で英会話を学習して今いる場から這い上がろうする人たちとなんとか会話は通じる可能性はある。


広大な中国大陸では地方ごとの言葉があり、中国語を学習することで一体感を築いてきた。

同じような感じで、多言語であるアジアを繋ぐ共通言語としてはっきりと英語を位置づけていけばいいように思う。

「あれっ、英語って南米や欧米でも通じるわ」なんて思えるぐらいに。


と考えて英語を勉強してるけれど、なかなか集中力が続かないのが悩みだ。



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by far-east2040 | 2016-09-18 14:08 | 言語

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女性史の在野の研究家でもある作家森崎和江さんの父親は、植民地下の朝鮮半島で朝鮮人の五年生の中学校である高等普通学校の教師だった。

そのため森崎さんは1927年に朝鮮半島で生まれたのだが、ご自分の植民地体験を客観するために回想記『慶州は母の呼び声』(ちくま文庫)を書いた。

この本は個人的にとても味わいがある作品だ。

序章より

……わたしが生まれた大邱は今日の韓国の、慶尚北道大邱市である。町名の三笠町というのは植民者である日本人が名付けたのだと思う。旧市街の中の日本人住宅地の一角であり、わたしはここに産院をひらいていた日本人医師の産室で助産婦によってとりあげられた。
 三笠町という町名が生まれ、消え去ったように、他民族を侵しつつ暮らした日本人町は、いや、わたしの過ぎし日の町は今は地上にない。


日本人町は内地日本での故郷を異にする人々が永住目的で新たに築いたコミュニティだった。

公務員は外地手当がかなりつくので、ここでの暮らしはかなり豊かだったことが書かれてもいる。
普通の家庭でお手伝いさんがいて、夏にはプールへ行ったとか、進学するために福岡に戻ったとき、農作業を日本人がしていることにびっくりしたとか。

このようにこの著作は私にとって興味深い記述が多いのだが、当時森崎さんが使っていた日本語のことに触れているところもその一つになっている。

運動会のシーンより

「先生はほとんど日本人であり、日本語で号令をかける。生徒たちの掛け声も日本語である。普通学校時代に習得してきているので、わたしたちとかわらない。わたしら植民者の子どもたちは朝鮮人の子どもたちが学校で習う日本語と同じことばを使った。それは方言のない学習用語で、標準語と言っていた。家庭でもそれを使った。
 余談めくが、敗戦後二十余年ぶりに韓国で旧友に会った時、その日本語が昔のままに、なんのなまりもないことに激しいめまいを覚えた。日本に帰って来て、その日本語と同じことばを耳にしなくなっていた。地方はもとよりのこと、東京語も、そして共通語にも地域ごとのなまりがあったから、わたしは亡霊となった自分に出会った気がした。」


父と同じ1925年生まれの金大中氏も流暢な日本語を話していたが、こんな日本語だったと想像する。

どうしても韓国人独特の発音上の限界は残っただろうが、日本語としてはていねいな響きを持っていたと思う。

現在の韓国大統領パククネ大統領の父親である1917年生まれのパクチョンヒ前大統領をはじめとする同年代の学校教育を受けた韓国人もていねいな日本語を話していたはず。

但し家庭では日本語なんて使わない。そこが日本人との違いである。

今風にいえば、バイリンガル。


私の父も考えてみれば、ていねいなひびきを持つ標準語を話していたように思う。
ただ両親が朝鮮半島出身者だったので、なんとなく話している会話は聞き取れても話すことはできなかった。両親は生活を維持することに必死だったろうから、子どもに母語を残す余裕もなかった。


話が少しずれるが、妹は結婚して英国にいるが、息子には日本語を残したかったので、小さい頃は家庭では努めて日本語で話すようにしていた。ところが一日中忙しく働いていたりして、親の方に余裕がなくなり、とうとう日本語は話せなくなってしまったという。


母語についてほぼ真っ白な子どもに異国で母語を残していく作業はよほど生活に余裕がなければ、むずかしいものだと思っている。


というわけで、森崎さんの著書から日韓併合時代、朝鮮半島の教育現場・官公庁、日本人の家庭では方言のない学習用語である日本語が話されていたというなかなか知りえない事実を知った。



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by far-east2040 | 2016-08-12 15:33 | 言語