カテゴリ:朱徳の半生( 227 )

f0364260_20585678.png


先日、2017年のノーベル文学賞にイギリス人のカズオ・イシグロ氏が選ばれたことを知ったが、いつだったか『日の名残り』を読んで感銘を受けことを思い出した。
イギリス上流階級での執事という裏方の職業にすごく興味をいだかせてくれたし、こういうイギリス伝統社会を、5歳からイギリスに住み始めた人が描けることに驚いた。


中学生のころ好きだった本の一つ『大地』の作者パール・バックもノーベル賞を受賞している。彼女もイシグロ氏と似た立場で、中国の農民一家の姿を描いていている。
どちらも、両親や生まれた環境を考えると、書けそうには思えない世界を対象にしている感じがした。


今から書こうとしている軍閥というキーワードは、実は『大地』三部作ではじめて知って、よくわからない言葉でもあった。
貧農の主人公がのし上がっていき、息子たちは富裕な人生を歩むなか、末の息子は家を飛び出して軍閥になった。
この軍閥になった息子は自分の息子に跡をつがせようとするが、この息子は争いを好まず、親に反抗して、つつましい農民であった祖父の人生にひかれてゆく。

なんかこんな話だったと記憶している。


語るにはむずかしい軍閥だが、『偉大なる道』を読むと具体的になってほんの少し見えてくる。


財閥、学閥、閨閥、軍閥と閥がつくことばはいい意味では使われない。排他的な集団になる。


1937年にスメドレーは朱徳に聞き取りをしていたのだが、軍閥時代については、彼女ですらややこしいと思ったので、早く終わらせようとして、始まりと終わりの時期だけをきこうとした。


「それは袁世凱とともに始まったが、今日もなお終了してはいない」と彼は答えた。


軍閥を私なりにまとめると、1920年代ごろ、帝国主義諸国から金銭や武器供給の後押しを受けて、おのれの名誉欲、出世欲、金銭欲をみたすために一定の地盤を支配下において、民衆から税金という名目で金をしぼりとる。地盤を維持していくために、他の軍閥と同盟を結んだり、裏切られたりして、血なまぐさい抗争はつづく。


孫逸仙の民族革命に同調し国民党員になっていた軍人も、彼が亡くなると、軍閥への誘惑に勝てず、革命を捨て軍閥の権力争いに加わる。


結局外国勢力と銀行家に支えられた蒋介石と仲間の軍閥によって、孫逸仙がきずいてきた民族主義者の側は敗北ばかりする。

地方ごとに勢力をのばして支配している地方軍閥は、必ず外国の勢力によって支えられている。北京を含む北部は日本帝国主義によって支えられていて、南部はヨーロッパの諸勢力のようだ。

みんな金で買収されたということだ。


表面的な同盟や義理、友情でつながってはいるが、最後はみな裏切られる感じがする。


日本をふくむイギリス、フランス、ドイツなどの帝国主義諸国がからんでいるところが軍閥理解のためのキーポイントだと思う。


朱徳も出世欲、名誉欲、権力欲などの誘惑は大きかったと語る。

相手が差し出すジャラジャラ鳴る洋銀の魅力に打ち勝つのはむずかしかったようだ。


朱徳でも挫折の日々に、甥を自分の軍隊内の士官学校にいかせてゆくゆくはと配慮したことがあって、スメドレーは「軍閥めいたこと」と表現している。


スメドレーは、革命途上の朱徳が他の指導者にない謙虚さをもっていたのは、彼の経歴に四川省で軍閥闘争にまきこまれ、自身もそれに近いような生活をおくっていたことが、コンプレックスの一つになっていたからだろうと推測している。


日本帝国主義と関係が深い軍閥は多いが、有名なのは中国東北部を支配していた張作霖で、結局日本の軍部によって爆破されて亡くなった。

この爆破事件に協力した父の配下の将校を、息子の張学良はすぐに殺した。
やがて内戦なんかしてるときじゃないと、協力して日本と戦うために西安事件で蒋介石を監禁し、国共合作へと歴史をすすめていく。


軍閥のトップになる人は一族意識の強い当時の中国にあって、何らかの理由でその集団からはみ出したものが多いように思う。
理由のほとんどは貧困からの脱出だろう。

軍閥のトップになると、その人より上の世代のつながりは薄くなり、自分が家系図でいえば起点になる感じもする。

だから必ず自分の息子もしくは身内に跡を継がせようとする。


軍閥を理解するための2つ目のキーポイントは、身内で固めていこうとするところではないか。


現在の大国中国は問題山積みの国で、軍事的にも周辺国にとっては信用できないところがあるけれど、国のトップは建国以来世襲は一切ない。
「反軍閥」は中国革命の看板のひとつだ。
外国からの干渉を極度に避けているように、世襲は国として否定する共産主義国家としての常識はふまえている感じがする。


では現在の北朝鮮はどうかといえば、これは旧き時代の軍閥の慣習を引き継いでいる。
身内以外信用できないので、自分の地盤を自分の息子に引き継がせる。
この本に出てくる軍閥のやり方そのものだ。

一代目の金日成はソ連の後押しのもと登場してきて、それ以来世襲。

東北満州地域の軍閥張作霖と似たようなもので、北朝鮮は軍閥政治をしていて、国とはいえない感じがする。


朱徳は戦前戦中の帝国主義国としての日本のことも「日本軍閥」と表現している箇所があり、意外だった。トップは当然「ヒロヒト」だ。

そういえば、明治維新も諸外国が悪役としてではなく、からんでいる。

日本の近代史はあまり詳しく知らないけれど、軍閥という言葉を意識しながら見ていくと、また違ったふうに解釈できそうな感じがする。


外国からの干渉を切れず、周辺国とは秘密裏に同盟をむすんだり、裏切ったりして関係がころころ変わり、トップが世襲の国は軍閥政権の延長と考えていいのではないか。



[PR]
by far-east2040 | 2017-10-12 21:14 | 朱徳の半生

f0364260_12415598.jpg


建国をになった中国共産党の中心人物に留学経験者が多いことは気づいていた。
ちょっと気になる人物が出てくると、ネットで調べてみたりするが、その中で「いわゆる勤工倹学でフランスへ」なんていう文面を読むことがあり、「勤工倹学」とは何だろと思ってきた。


1922年ぐらいにフランスへ向かった朱徳は、周恩来という青年が中国共産党の支部をつくったといううわさを耳にする。


「……この周恩来と、その同志たる陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)、李立三、李富春とその夫人蔡暢らは、後日中国の歴史をつくったのである……」
とスメドレーは書いている。


この若者たちは「勤工倹学」で留学していた若者のあくまでも一部である。

この本ではトウ小平は出てこないが、やはりこのころにフランスに「勤工倹学」で留学していた。


ちなみに朱徳は雲南で軍人としていい給料をもらっていたときの蓄えを使って、自分のお金で留学した。36歳という当時の中国では中年と呼ばれる年齢での決断だった。


共通しているのは、国費でもないし、かといって一族の豊かな資産を持ち出しての優雅な留学組でもないということ。

国内の学校や大学へ息子をなんとか行かせることはできても、海外へ留学させるだけの余裕はない層の出身になる。80パーセントの農民層と数%(?)の特権階層の間に位置する富農、小地主、商人、知識人などの進歩的な階層と考えたらいいのかなと考えている。

岩波新書の古い『フランス勤工倹学の回想』という本を読んだが、いろいろなことがわかってくる。「勤工倹学」の定義やいつ始まったかを説明することはむずかしい。

ただ建国にいたる中国共産党を理解するためのキーワードのひとつであることは確かだ。


清朝末期、政府は日本の日清・日露戦争勝利の影響もあって近代化を急いだ。


「当時の政府も、かなりの留学生を派遣し、主として日本にやって軍事を学ばせたが、えらばれて派遣される人の大半は、官僚か貴族の子弟であった」


朱徳の雲南時代の師であり親友であった、辛亥革命で重要な働きをした蔡鍔将軍も日本の士官学校で軍事学を勉強した人だった。

魯迅もこの時期の国費留学生のひとりとして日本で医学を学んだ。


新しい思想に目覚めた青年は自費で日本留学を実現させ、ピークは3千人ぐらいいただろうという。この人たちは生活費をきりつめて苦学したらしいので、あくまでもこれは「倹学」。こういう日本留学組から辛亥革命で活躍する人たちを多く輩出している。


朱徳が1909年ごろ入った雲南軍官学校は日本の士官学校などを手本にしてつくられ、教官も日本留学組が多く、その中に同盟会員がいた。こういう留学組は国内の清朝打倒が目標だったし、このころは日本軍の大陸での行為もあまり目立たず、日本は進んだ国としてあこがれとともにまあまあ印象もよかったように思う。

それがどこでどうなったのか。


「勤工倹学」に話しを戻すと、中国建国の功労者たちは、軍事畑出身以外はほとんどヨーロッパへの留学を経験しているように見える。唯一の例外と考えられるのは毛沢東となるから面白い。


「第一次世界大戦が勃発して、フランスの男子はほとんどみな戦場にでていき、工場では労働力の欠乏をきたした。フランス政府は中国の人口がおおいことに目をつけて、中国へいって労働者を募集しよう、と考えた」


これは両政府にとって利害が一致して、各地に労働者募集所ができて、素朴な農村の若者や職人などがフランスに労働者として渡ったらしい。

こういうことを商売にする人も出てきたり、信じる主義や思惑はいろいろあってややこしいが、「勤工倹学という方法によって、志ある貧困青年をあつめてフランスに留学させよう」という「一種独特の思想運動であり、救国運動でもあった」となる。


「これはいいことだ」とこの情報を得た人たちが北京で留仏勤工倹学運動を起こすのだが、なんと若き毛沢東もその運動の中心メンバーのひとりで、積極的に動いて青年を送り出していた。


フランスまでの旅費の用意が大変だった。東南アジアで一日一食で働いてお金をためようかとかそんなことも考えていたらしい。

なんとかフランスに着くと、とりあえず3通りの方法で勉強したらしい。昼間勉強して夜労働するか、はじめの半年か三ヶ月は働いてお金をためて、それから学校に入って数ヶ月勉強するか、少しだけお金はあるので、ひとまず勉強し、そのうえで労働する。

官費留学生や裕福な自費留学生とは違う彼らは、ひとりひとり違う苦労話があったし、共産党に加入するなどの政治意識の高揚もあったと思う。

フランスで共産党に加入した青年も多かったのではないだろうか。

ロシア革命後まもないころだった。


では、なぜ毛沢東は関わっていたのにフランスに行かなかったのか。

毛沢東の聞き取りを出版したエドガー・スノウがそのへんのことを聞いている。

毛沢東は「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」と答えている。

毛沢東は行動もとる人だけれど、何より読書家ですからね。この人らしい理由だと思った。


毛沢東は北京大学の図書館で司書の助手のようなことをしていた人なので、そこで相当読書をしただろうなと個人的に思ってきた。時間と灯りが保証されたら、いくらでも読書できるという恵まれた環境にいたことになる。

彼の頭の中には読みたい本がリストアップされていたのではないかな。

図書館で働いていたということを知って、個人的にこの大物政治思想家に親しみを感じてきた。

「同じことを考えたんじゃないかな」なんて。


勤工倹学を私なりにまとめると、1920年代前後、暗黒の国内の政治情勢の中で出口をもとめて、中国の中間20%に属する青年がフランスで慣れない肉体労働をしながら苦学し、その中からのちに中国の歴史の1ページをつくるぐらいの政治意識の高い人材を輩出してきたとなる。


バブル時代のころ、豊かな国費留学生を多く見てきて、うらやましいとは思ったけれど、政府としては無駄な出費とは思わなかった。日本に好感を持つ人材を各国につくってきたのだから。
でもそろそろ海外の国が、日本からの留学生を受ける大皿を作ってくれてもよさそうな時代になってきていると残念ながら思う。


100年たつと、物事ががらっと変わる。



[PR]
by far-east2040 | 2017-09-27 11:19 | 朱徳の半生

f0364260_17132412.jpg


中国革命に出てくる主要人物がどういう女性と結婚していたのかを知ることは、人間性を理解するうえで参考になる。


『偉大なる道』を読むかぎり、中華人民解放軍の総司令官朱徳は生涯において4人の女性と結婚したことになる。

革命途上で血なまぐさい波乱万丈の人生をおくってきた男性としては、4人という数字はうなづけると密かに思ってきた。


が、ネットで朱徳のことを調べているときに、朱徳は6人の女性と結婚したと羨望や驚嘆の感情が入り混じったような文章を数回見つけたことがある。

これは朱徳の人間性を貶めるための偽情報か、失意の日々にそばにおいていた複数の女のことを含めているのか、朱徳自身が何らかの理由であえて2人の女性をスメドレーの前で伏せたのか、あるいはスメドレーが2人の女性との関係は結婚とはいえないと判断して朱徳の諒解のもとで省略したのか。


中国で出版された伝記ではどのように記載されているのか調べようがない。

気になってじっくり調べると、写真つきで結婚した6人の女性を詳しく紹介する中国語で書かれたサイトを見つけた。

漢字の意味を頼りにおおよその内容をつかんだところでは、やはり6人の女性と「結婚」したことになるようだ。


東アジアは古い社会制度もとで早婚だった。正式な結婚適齢は男女とも二十歳前ではないかな。

今でもときどきインドで早婚の弊害を問題にする記事を見かけることがあるけれど、そのような結婚が中国や朝鮮半島でも一昔前には存在していた。

中国映画『黄色い大地』ではこの早婚の風習を描いていていい映画だった。


戦前戦中を朝鮮半島で暮らした女性史研究家森崎和江さんも、同級生で結婚している人が何人もいたと早婚の風習を語っていた。


そういう意味では一昔前の日本でも現代から見れば、信じられないぐらい若い年齢で結婚していたようだが、中国や朝鮮半島よりもやや年齢は高いように感じている。


中国に話を戻すと、毛沢東は14歳ぐらいで家どおしが決めた結婚をしている。

びっくりする話だけれど、当時の農村では普通の結婚だったと思う。
愛情とかいう感情は別問題。

その後2回結婚して、最後は有名な江青と結婚することになる。


孫中山(孫文)も19歳ぐらいで親が決めた相手と結婚している。

その後日本で亡命中に日本人女性としばらく夫婦のように暮らして、子もいたようだ。

やがて親が決めた相手とは離婚して、宋慶齢と革命事業を共にしていくことになる。


1881年生まれの作家魯迅も17歳ほど年下の女性と恋愛結婚したが、形の上では親が決めた妻がいたようだから重婚になる。

この作家も旧社会の結婚制度から自由ではなかった。


周恩来はちょっと違う。
毛沢東より5歳、朱徳よりも12歳若くて、農村出身ではなかった。
夫人ともども親が官吏のような職業で都会に近いところで学生生活をおくる知識人だった。

周恩来夫人は志を同じくする仲間であり、周恩来にとっては妹のような存在として出会ったらしい。

あの激動の時代に相思相愛でそのまま結婚し革命事業を担い、共に晩年をすごすという極めて珍しい夫婦像を作りあげている。

どこまでも周恩来と夫人は「清い」。

若い頃写した二人が寄り添う写真を見ると、信頼し合っていたことが伝わってくる。

作家ハン・スーインが周恩来の伝記を書くために晩年の夫人にインタビューしたとき、夫人は恥ずかしそうに出会った頃の思い出を語っていたらしい。


朱徳も旧社会の結婚制度から自由になりきれなかったようだ。

二十歳ぐらいのときに成都で纏足をしていない自然な足の女学生を初めて見て、金がない朱徳は遠目であこがれていて、将来結婚するときはそういう女性としたいと思っていた。


しかし、朱徳一人のための学費を捻出するために貧苦に耐え、多額の借金の返済に追われていた家族は別のことを考えていた。

学問を身につけた朱徳はやがて科挙に合格し、えらい役人になることは約束されている。


「みなが、私に嫁を持たせねばならぬと思っていることがわかった」


「私ならば、家の借金を返済できるだけの持参金を要求できると考えていた」


この本では朱徳が結婚を勧めてくる家族ともめたらしいことだけは書かれていた。

朱徳はそういう話を振り切って家を出たと思っていたが、どうやらこの時期形式的には結婚したらしい。

実際のところはわからないが、多分かなりの持参金つきで纏足をした女性を嫁にして、生涯養父母に仕えさせたのではないだろうか。

中国語の文章を読むと、朱徳の「最初の妻」は寂しい人生をおくったようなことが書かれている。


『偉大なる道』では軍人になったとき、友人の妹と初めての結婚をしたと書かれている。
しかしこの女性は息子を生んだ後病死した。

母を失った息子のことを考えて同じように別の友人の妹と結婚し、ここで幸せな結婚生活をおくった。

本の中では理知的な女性として描かれている。


その後朱徳はフランスとドイツ留学を果たす。

ドイツ留学中大いに活躍して勉強して充実した日々をおくっていたが、女性の存在なんてまったく書かれていない。

ところが写真つきの中国語のサイトによれば、その時いっしょにいた数少ない女性の留学生が朱徳と結婚していたとなるらしい。

中国語なので詳細はわからないけれど、ありえる話だと納得できた。

実際はどうなのかわからないけれど、正式な結婚ならば重婚になるし、同志としていっしょにすごした女性とするなら「不倫」になるし、いずれにせよ扱いがデリケートになる。

『偉大なる道』ではこの女性についてはまったく触れられていない。

当時としては恵まれた境遇の女性だから、どんな人生をおくったのかしら。


その後帰国して革命途上で呉玉蘭という作家であり活動家でもある女性と結婚したが、これは平和な時代であればはっきり重婚になる。

しかしこれについては朱徳は、遠く離れていて普段会えない妻も自分の活動をしていて、革命事業に忙しい夫といっしょに住むことはないと悟っていたとスメドレーに説明していた。

後にこの妻は朱徳のもとに逃避行中に、国民党の軍隊に殺されてしまった。


最後は康克清と結婚し、建国後豊かな晩年をすごした。


スメドレーはこの本の中で何度か朱徳のことを男性的だったと語っていたが、結婚生活の語りを読み返すと、男性として誠実でノーマルな人物像が浮かび上がってくる。



[PR]
by far-east2040 | 2017-09-11 17:30 | 朱徳の半生

f0364260_14155323.jpg

中国が多言語国家であることに気づくまで、日本は日本語を母語にする人々の国であり、韓国は韓国語を母語にし、中国は中国語を母語にする人たちの国だと漠然と捉えていたように思う。


ところがアジアのことをいろいろ知るようになって、学校教育を受けた中国人は中国語とは別の地域ごとの言語を母語にしているバイリンガルであることを知って、英語コンプレックスを持っていたこともあって驚いたものだった。

他国では単なる方言にすぎないものを言語といってるのかな。

それと地域ごとの言語がどれほどの違いがあるのだろうか。

これは未だによくわからないままだ。


「日本語と沖縄の言葉を話せます」
「日本語と大阪の言葉がわかります。あと京都の言葉も少し」なんていう日本人はほとんどいないと思うので、単なる方言ではないことは理解している。

実際に中国で母語で話している人たちの会話は母語が違う人にはまったくわからないことは見聞で知っている。

やはり「日本語と英語が話せます」に等しい能力かな。


むかし接した中国人は中国語とは別にモンゴル語、朝鮮語、客家語、広東語、台湾語などを母語にしていた。

話したことのある中国系フィリピン人はフィリピン語とは別に福建語がわかるといっていた。
さすがに中国語は習得する機会はなかったと思うが、英語はできたはずだ。

インドも中国に似たような言語情況がある。


多少の違いはあっても同じアルファベットを使っているヨーロッパで考えてみれば、例えばドイツ人とスペイン人は互いの母語はまったくわからない。
フランス語と英語は別言語だ。

ヨーロッパと中国の領土はあまり変わらないように見えるので、中国で北方の言語と広東などの南方の言語が別言語と言われたら納得できそうだ。

中国は建国後本格的に中国語という標準語を教育を通じて普及させたので、中国人どおしの意思疎通は困らない。

ヨーロッパでもかつてのエスペラントという人工言語を普及させる運動があったけれど、無理な話でもなかったのかなとちょっと思う。


話を戻すと、日本と韓国のような少数の国を除けば、アジアで少なくとも大学教育を受けた人たちは言語に関しては複数の言語理解者だ。

英語を「ご主人さまの言語」と捉える時代はもうとっくに終わっている。


日本人が日本国内でバイリンガルになるのはほんとむずかしい。

因みに日本でバイリンガルを育てている教育機関はKoreanChineseの民族学校だと思う。

あとInternational Schoolも?

好き嫌いがあると思うが、言語習得の面だけを考えたら、ユニークな教育環境にある。


『偉大なる道』では朱徳は自らの言語環境についても語っていて、そこが多言語社会に生きる中国人らしいと思う。

朱徳の一族は何代も前に南部の広東から移住してきた人たちで客家だった。1886年生まれの朱徳は自分たちの親の世代までは広東で使っていた客家語を使っていたが、朱徳の世代になって客家語と四川の言葉を両方あやつれるようになったという。


1916年生まれの作家ハン・スーインも四川生まれだが、伝記の中で客家語は自分たちの親の世代あたりで使われなくなったと書いていた。
こういうことを語るところがなんとも中国らしい。


太平天国の乱の指導者や兵士たちは客家が多かったので、彼らの母語は客家語だった。

広東出身の孫逸仙や四川省出身の朱徳を始めとするトウ小平や陳毅など有名無名の建国の功労者たちの多くは客家語を母語とする人たちだった。

当然のことだが、湖南省出身の毛沢東は客家語で話されている会話はまったくわからなかったはずだ。

なお現在客家語の推定使用者は5500万人ほどらしく、客家を自称する人たちのおおよそ半分ぐらいになる。

広東など中国南部や台湾、海外の華僑たちの住む地域で残されていることが多いらしい。

あと香港で話されることが多い広東語も独特の世界観を持っている。


アジアの言語のことを考えていると、迷路にはまったような感じになるのでここで終える。


この本では、朱徳の言語に関して言文一致運動の影響についても少しふれている。
朱徳は科挙に合格した知識人として、中国の古典語である「文理」の読み書きができた。

1910年代あたりでこの「文理」を排除する言文一致運動が起こり、当時知識人であった若者の多くはこの影響を受けて、型にはまらないやさしい話し言葉を習得していった。


朱徳は四川省で挫折の日々をおくっていて、この流れに加わることができず、ずっと後になって「文理」に代わる新たな言語を努力して獲得したと書いてある。

このことは朱徳のコンプレックスの一つになっていたようだ。


一般的に中国人は異なる言語が混在する環境に慣れているような気がする。



[PR]
by far-east2040 | 2017-08-12 14:23 | 朱徳の半生

f0364260_13594795.png


数年前にハリウッドの女優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースの中で、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしている事実を知ってちょっと驚いた。


もう数十年もむかし外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように子どもたちが立っていて、その中に明かに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして日本でも韓国でも外国の子どもを養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。


同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知り、当時は奇異に感じたものだった。


養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないだろうが、経済的な余裕だけで語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じてきた。


儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。


朱徳も養子であった。

朱徳の家は祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちで構成されていた。


「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」


家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配を奮って一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意を持って扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。


一方で子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たよなものだったと思う。


朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。彼はそのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。


「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」


当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。


儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札としてこういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。


韓国では再婚した女性の前夫の子が姓を変えることは可能らしいが、今でも子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。


日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で繋いできている。天皇家もそうだ。婿養子を認めてきていないところが共通している。


あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

二人は孤児を何人か養子にして慰みを得てきたようだが、その一人は朱徳の雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は女優志望というだけあって、目鼻立ちが整った美人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。


ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに身寄りのない女の子を養女にした。


男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-07-28 14:10 | 朱徳の半生

f0364260_12070802.jpg

この本は朱徳が、どのような時代背景の中で問題意識をもち、なおかつ挫折を繰り返しながら,
共産主義者になっていったかが描かれている点が一番の特徴だと思っている。


朱徳のファンだからといって個人的に、「共産主義万歳」「人類を救うのは私有財産制度を否定した共産主義以外ない」「資本主義の否定」「だから中国人はすばらしい!」「中国は偉大」などなどよくわかっていないことを、声高に述べようと考えているわけではない。

しいて言えば、中国革命をもたらした人々の情熱、友情に魅力を感じているということだ。


朱徳たち紅軍や中国共産党が、江西省から出発し1万2500キロを徒歩で行軍し、北部にある延安にたどりつくまでの長征が完了したとき、作家の魯迅は中国共産党が無事に生き延びたことを喜び、「中国の未来はあなた方に託す」という内容を打電したという。


1916年生まれの作家ハン・スーインは革命前の中国で、皮と骨だけのやせて丸くなった苦力(クーリー)の背中、壁際に捨てられた新聞紙に包まれた赤ん坊の死体、工場で目が見えなくなるまで酷使された挙句に戸口に捨てられた少年の姿など、それまでに見てきた悲惨な情況を語り、「あの時代の中国を救えるのは中国共産党しかなかった」と率直に語っていた。

ちなみに彼女は日本軍による重慶爆撃も現地で体験し、悲惨な情況を本に書き残している。
日本では映画『慕情』の主人公としてだけあまりにも有名になりすぎた感じがする。


革命の最中ハン・スーインの妹やベルギー出身の母親(この女性は結婚時にベルギーで中国国籍に変更している)は海外へ逃れたが、義和団の乱後にベルギーで鉄道技術を学び、帰国後は鉄道技師として働いてきた父親は中国に残った。


朱徳のもとで指揮官として活躍し、建国後は外務大臣までやった陳毅が、四川省にいた父親を訪問し、とどまって技術者として建国に協力してほしいと要請したという。

そういうわけで、彼女自身は建国後の中国に住むことはなかったが、何度も父親のもとを行き来し、文芸活動を通じて亡くなるまで中国を支援していた。


もし私があの時代を生きる人間として生まれていたら、魯迅やハン・スーインや多くの大衆のように、共産主義の方が人間らしい国家を目指していると判断できるそういう人間でありたいとは思っている。


蒋介石を代表とする国民党支持者たちは、中国の特権階級は古来悲惨な情況の人間の大多数の犠牲のもとで成り立ってきたので、今さら変えようがない、仕方がないと考えていたようだ。

だから圧倒的多数の自国民の犠牲で成り立つ近代国家を目指した。

朱徳たちは、国民の80パーセントを占める農民や労働者を圧迫してきた封建制を否定し、彼らを納得させる国家理念を提示することなしに、中国は外国勢力を排除した独立国家になりえないととらえて、粘り強く戦ってきたのだ。

それが当時は西洋から導入された共産主義やマルクス・レーニン主義だったというわけで、それが別のXイデオロギーだったとしてかまわなかったように見える。


『偉大なる道』では、19世紀に起こった太平天国の乱をブルジョア民主主義革命の起点ととらえて、それから64年後になって朱徳や毛沢東が創建した紅軍が、この太平革命を熱心に研究して、法や戦術を多く学び、同じ過失を繰り返さないことを決意したことが一貫して語られている。

そして文字を知らない農民たちを含めて民衆は、負けた英雄たちの物語を記憶するまで心の中に刻んできた。


一方ハン・スーインも自伝の中で太平天国の乱を勝者の側から詳しく語っている。

彼女の父方の祖母は、太平天国の乱を制圧した清朝側についた有名な曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。

自伝を書くために集めた文字で書かれた祖先の英雄伝は多数あり、太平天国の指揮官や兵士は謀反を起こした犯罪者として描かれていた。

そこで彼女は自分の先祖は間違った選択をしたとしみじみ振り返る。


私は太平天国の乱は世界史で言葉を知ったぐらいであまり知らなかったので、中国ではすごく大事な出来事だったと知り、感慨深いものがあった。

学校でよくわからないまま記憶してきた歴史用語に実態をともなった感じだった。
歴史を学ぶためには時間がかかる。


太平天国の乱が中国の国土を耕し、そこへ孫逸仙が同志とともに種をまき、苗を踏まれても諦めずにまき続け、やがて朱徳たち紅軍も種をまきながら、こぼれ種から育った苗を含めて大きく育てていき、ついに独立国家を建設したというふうに考えると私の頭の中はかなりすっきりしてくる。


朱徳は中国共産党は数千年の歴史をもつ中国文化の最良の伝統、つまり勤勉と忍耐と学問に対する尊敬を受け継いだと語っている。

さらに大革命と土地革命と抗日戦争の経験を積み重ね、内容的に成長していく中で、共産党はマルクス・レーニン主義を中国化し、われわれの歴史的遺産を中国社会の当面の必要に適合させたと述べていた。


中国革命の勝因と強さは、この朱徳の言葉で言い尽くされていると思う。


建国後の中国の政治のことはあまり詳しくないが、国土がヨーロッパ全土ぐらいあり、香港、台湾や少数民族の問題、都市と農村部との格差など、中国を治めていくことのむずかしさを外野から眺めて感じている。

政治は綺麗事ではないので、裏側は想像以上にどろどろしているのだろう。

中国は領土も人口も桁違いの国なので、問題がそんなに簡単に解決されるはずがない。


ただ、何世紀も続いた封建主義をとりはらい、外国勢力に侵略されない独立国家を苦難の歴史をへて、いったんは創ったという経験が、今流行りの言葉でいえば「すごい」と思っている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-07-08 12:17 | 朱徳の半生

f0364260_23135831.jpg

客家(ハッカ)いう言葉はアジア図書館に勤めていた頃初めて聞いた。
それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。
どうやら中国の歴史において被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。


台湾人の女性留学生が「私も客家です」といっていたのが耳に残っていて、こういう風に表現するんだわなんて思ったものだ。

このいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり客家語が母語かも知れないことがわかる。


四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。

彼女は読書人階級だったおかげで文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページを割いて説明していた。

こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。


同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。

中原呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。

ハン・スーインの自伝では、確かイングランドかスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。

中国らしいスケールの大きさを感じる。

しかも現在客家を自称する人は1億を越えるだろうというから、一つの国と考えてもよさそうだ。


客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。

客家の典型的な住居は何家族も一緒に住む丸い家で観光地になっていることがある。

なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。


さらに何世紀も経て広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。

ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え学問を身につけていって、やがて読書人階級を形成するまでになったという。

四川省出身の政治家トウ小平や朱徳の配下にいた陳毅も似たような階級形成の歴史を持つ一族と思われる。


朱徳の一族も広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。


「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」


朱徳の家族は80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。
朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。


先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から、外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。

世の中の不正義に対して敏感であることや勤勉であることも客家の特質として語られる。

海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。


有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも客家が多かった。

孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。

その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東も客家について論文を書いている。

革命途上で客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。

客家の歴史への興味は尽きない。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-30 23:34 | 朱徳の半生

f0364260_07553008.jpg

この本は朱徳の波乱万丈の半生記だけでなく、封建社会での農民の暮らしが細かい所まで書かれている。

作家ハン・スーインは朱徳と同じ四川省の生まれだが、何代も前から読書人階級として暮らしてきた名門出身なので、自伝では特権階級の暮らしぶりが書かれている所が興味深かった。

それに比べると、朱徳の生まれた家の暮らしのつつましさには驚くことが多かった。


この本は中国だけでなく東アジアの封建社会での民衆の習俗を考える材料も提供してくれた感じがする。


たとえば、男子の名前について考えてみると……。


現在の韓国では、一族の男子の世代ごとに行列字を設定して名前の一字に使い、どの世代に属する人間かわかるようにする慣習を残していることが少なくない。


韓国の前大統領朴槿恵氏の父親の元大統領朴正煕の名前は煕という漢字が行列字だと思っている。
朴正煕の同じ派に属する一族で従兄弟を含めた横広がりの同世代の男子は朴○煕という名前になっていることがほとんどというか多いはずだ。

これは現在名目上だけになっているかも知れないし、必ずしも保持されている一族が日本語の「名門」と考えるものではないと思っている。


作家ハン・スーインの生まれた家は何代も前から商売に成功し、息子たちは学問を身に付け、一族のものは労働をする必要がなかった。

使用人をたくさん雇い、女たちも日中から集まって麻雀をするなど家事労働を一切しなくても生活はまわっていく家だった。


この作家の自伝を読んでいたときに、韓国の行列字に相当するものが書かれている箇所があり感動した覚えがある。

韓国での行列字に相当するものを中国では輩字と呼ぶらしい。別の呼び方もあるかも知れない。

当然これは中国大陸から朝鮮半島に伝わったものだろう。

ハン・スーインは一族を語るときに、曽祖父の世代から父親の世代の輩字について必要な情報として何のてらいもなく紹介していた。


個人的に韓国の行列字は身近に感じて調べたことがあるので、「あ、一緒だわ」なんて思いながらこのあたりはすーっと入っていけた。

ハン・スーインの家が特権階級なので、輩字や行列字を保持してきた一族は名門であることの条件の一つかなと密かに思ったものだった。


ところが、『偉大なる道』では朱徳も祖父や父や自分の輩字を名前に関する必要な情報としてさりげなく語っていた。

具体的には朱徳の長兄の名前はタイ・リーで、次兄はタイ・フォンそして朱徳はタイ・チェンで、タイが輩字で従兄弟たちも同じようにタイがつくはずだ。

ただ朱徳の家は貧農で、字が読めた人は一族にいなかったので、この輩字の情報は音と意味だけで伝承されてきたと思われる。


何代にもわたって重労働の農作業を繰り返してきて、誰ひとり文字も読めなかった朱徳の一族にも先祖代々輩字が伝わっていることが意外だった。


私の見識では、こういう慣習は日本にはまったくない。
男系の血縁集団を表す姓と家の名前になる苗字との違いも関連してるのかな。他の東アジアのように姓が一般に普及しなかったのが不思議だし、日本の独自性だと思う。


現在の中国では輩字を使用する慣習はまったくないはず。

『偉大なる道』に書かれているように、封建社会を一変させる大嵐のような出来事がすべてをひっくり返したからだ。

朱徳も息子の名前を名付けるときまったく輩字から自由だったように読み取れた。


北朝鮮についてはわからないが、韓国ではまだこの行列字を保持する集団は存在する。少子化、男女同権意識、キリスト教思想の普及などの外因で薄れてきてはいると思うが、社会の根底から払拭しようという動機がなかったからだと思う。


別に行列字があっても不都合はないし、一族にあっては優雅で誇り高い気分をもたらしてくれるものだが、女性は排除されているので、遅かれ早かれ時代の遺物になっていくことは間違いない。

おそらく発祥の地であった中国ではほとんど廃れたものが、韓国社会ではまだ生きているという構造になっている。


それと、建国前の中国では、姓は男系を表しているので神聖なもので不変だが、名前に関してはそうではないようだ。

幼い時の名前とは別に、学校に入学したときとか科挙に合格したときなど、人生の節目に心機一転を期して名前を変えてきたような記述が目に付く。
日本でいう戸籍名のような「本当の名前」という意識はあったのかな? 
実際、朱徳という名前も軍官学校に入学したときに自分でつけた名前だ!

科挙に合格したときは恩師につけてもらっている。


孫文も孫逸仙とか孫中山とかいろいろあって、私から見ればややこしい。


そういう伝統があるから、香港を始め、中国の都市部に住む若者が西洋の名前も持つことが多いし抵抗もないのかな。

日本でいうニックネームやネット上のハンドルネームとは違う独特の格式を持っている感じがする。


見識不足で断定できないが、こういう節目に名前を変えることも封建社会の名残なので、現代の中国にはないと思っている。韓国にもないと思う。

過去を清算したいという動機以外、現代社会で名前を変えることに利点はないと思う。


でも、ひょっとしたら、生涯にわたって本名は一字たりとも不変と捉えていることは世界的には少数かも知れないとも思ったりしている。
混乱してきた。




[PR]
by far-east2040 | 2017-06-28 08:10 | 朱徳の半生

f0364260_15020296.jpg

この本には敵味方いろいろな人物が登場してくるので、読んでいて楽しかった。

朱徳が対峙してきたのは地主などの特権階級からはじまって、清朝の西太后、袁世凱や蒋介石とその周辺の軍人政治家たち、外国の帝国主義者たち。


朱徳が語っているように、国が外国に侵略されるときは必ず自国内に買収された協力者がいて、彼らの存在は中国固有の問題ではない。

ただ中国は領土も人口も桁違いに大きいので、その分反逆者の数は多いし、殺された民衆や知識人、将兵たちの血も川のように流れてきたという。


一方で、封建的な制度のもとで圧迫されてきた民衆を解放するために、また外国に侵略されようとする国を救うために、同じ志のもとに集まってきた若者たちは、反逆者の数に劣らないほど多く存在したことに感動する。

こういう人物たちの友情がこの本の魅力だ。


朱徳を軸にした展開なので、毛沢東や周恩来をはじめとする著名な指導者たちは脇役になって登場する。

彼らひとりひとりも一冊の本になるぐらい波乱万丈の半生をおくってきた。

反逆者も多いけれど、その真逆の立場に立った人物も数多く存在することが、中国らしいスケールの大きさと層の厚さを感じる。

現代も傾向は同じだと思う。


印象に残っている人たちを振り返ってみると……。


朱徳の母親

旅芸人の娘として生まれ、農婦として死ぬまで働き続けた女性。
80歳ぐらいまで長生きをしたので、自分の生んだ息子の名前を、人々が敬愛をこめて口にするのを知っていたはず。
朱徳とは長く会えなかったけれど、革命事業の話を聞いていて応援していたらしい。


朱徳の養父

貧農の三男だった朱徳が、教育を受ける機会を得たのは叔父である養父の野心からだった。


機織りじいさん

朱徳の家に毎年定期的に機織りの賃仕事をするために来た職人。
実は太平天国の乱で有名な首領石達開の配下の生き残りの兵士でもあった。
太平天国の乱や国内外の政治情勢のことなど外部の世界の情報を、朱徳の家に伝えるという役割をになってきたことになる。


シ先生

朱徳が弟子入りした家塾の老先生。
科挙には合格していなかったが、それ相当の尊敬を周囲から受けていた人で、朱徳はこの先生のもとで科挙の準備をした。
朱徳はここで洋学信者になり、国の将来を考えるきっかけになる薫陶を受けてきた。


蔡鍔(さいがく)将軍

この本を読むまでこの人のことを私は知らなかった。
スメドレーは、この人がいなかったら、歴史は違った展開になっていただろうと語っていた。

雲南軍官学校の教員で、朱徳よりわずか4つ年上。
年少の頃から梁啓超の弟子で、日本の士官学校で学んだ人。

辛亥革命での功労者の一人だったが、30代で結核のために革命途上で亡くなる。

青年時代の朱徳の師であり親友でもあった。


孫逸仙(孫文)

朱徳はフランス留学の前に上海で会見している。
孫逸仙に実際に会えた人は珍しい。
第一次国共合作はその会見での朱徳の助言も何らかの影響を与えたような感じがする。


周恩来

ドイツベルリンで会い共産党に入党する。
この本では少ししか登場しないが、ハン・スーインが建国後聞き取りをした周恩来の半生記『長兄』には、逆に朱徳は少ししか登場しない。
中国革命の裾野の広さと奥行を感じる。


陳毅

朱徳の配下にいた指揮官で、長征には参加せず残された部隊をまとめた人。
代々学者を輩出する家柄の出身。
敵側の学生部隊を「奴隷なるよりも今中国で怖いことがあるだろうか」という内容で説得して味方に引き入れた。

この人の半生も1冊の本になるだろう。


賀竜

貧農出身で文盲だったけれど、農民パルチザンを指導した中国革命の功労者の一人。
この人の名前を聞いただけで、地主は荷物をまとめてさっと逃げたらしいが、仲間うちではおもしろい人物だったようだ。
私もそう思う。
残された写真はみな愛嬌たっぷりの顔をしている。

ページにこの人の名前が出てくると、ワクワクしていた。


彭徳懐

この人は軍人としては朱徳につぐ功労者だったと思う。
敵側に追われて避難した時、部隊を率いて毛沢東と朱徳を探したが、見つからなかったのでもう死んだと思い、自分が紅軍を作るぐらいの気概を持っていた。

詳しい事情はわからないが、建国後の文化大革命中に、牢獄で非情な扱いを受けて亡くなった。
検索すればひどい写真も出てきて、この本で彼の功労を評価する者としてはつらい。
名誉回復を受けているらしいが、中国の激動の政治の怖さを知る。


呉玉蘭

朱徳の3番目の夫人。婦人作家で集会で演説することもあり、彼が一番惚れていたような感じがする。
敵側との戦いの中でつかまり、拷問を受けて、見せしめのために故郷の町でさらし首にされている。このように身内が敵に殺される体験は、紅軍の指導者や兵士はほとんど持っている。


毛沢東

蔡鍔将軍とのつらい別れのシーンを知っているので、信頼できる同じ農民出身の毛と出会えたときの朱徳の歓びはわかる気がする。

作家ハン・スーインは周恩来同様に毛沢東の伝記も書いているが、後年毛沢東への評価が変わり後悔していたらしい。

私は建国後の大躍進とか文化大革命については詳しく知らないので、歳をとった毛沢東に何かあったぐらいで思考が止まっている。

ただし、建国までの毛沢東の強い指導力と革命の最中に培ってきた知性には感服している。


康克清

朱徳の最後の夫人。自ら決心して紅軍に参加するまで、文盲で地主の畑で農業労働をしていた女性なのだが、残された写真を見ると、地味で丈夫な身体の持ち主だったことがわかる。

朱徳との結婚話は、歳の差以前に身分違いという理由で最初は断わったらしい。

長征にも参加した数少ない女性の一人だが、彼女自身は長征中にさほど苦労したという話はしなかった。

もうひとり同年齢の女性がいて、行軍中は彼女とのおしゃべりも楽しかったらしい。
歩けないほど疲労しきった兵士の銃を替わりにかついで、歩いた時もあった。

周恩来夫人は病気のときには、担架で運ばれて長征を乗り切ったことを考えると、朱徳は、若くて自分と同じような頑丈な身体を持つ行動力のある女性をうまく選んだなと思う。

晩年のこの女性と面識があったハン・スーインは、すばらしい女性と評価していて、西洋であまり紹介されていないことを残念がっていた。

私もこの女性に興味がありネットで調べたが、中国語なのでかろうじて伝記が出版されたぐらいしかわからない。


蒋介石

朱徳とほぼ同年齢で、ずっと憎き敵として互いに意識し合ってきた感じがする。
ねばり強いというかアクが強いというか、どれだけ民衆を圧迫してきたか。
共産主義を潔癖なほど嫌い、完全に排除するまでなんでもした感じがする。

社交家で英語がネイティヴのように話せて資産家の娘でもある宋美齡と結婚したのが、見事な戦略だったと思う。

孫逸仙夫人宋慶齡は、妹と結婚したからまだあの程度ですんでいると語るほどの問題ありの人物だった。

太平洋戦争は自分が仕掛けたようなことを発言しているところが衝撃だった。
確かに蒋介石にとって、太平洋戦争は好都合だったように思える。


あと孫炳文、袁世凱、林彪、劉伯承、宋慶齡、彭湃、葉挺などまだまだいる。
中国の建国苦労話に登場する人物たちは敵も味方も多彩だ。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-22 15:09 | 朱徳の半生

f0364260_17120274.jpg


国家的偉業をなした人物の伝記はたくさん出版されてきている。

『偉大なる道』で描かれている朱徳についても、中国では国家的事業としてたくさんの伝記が出版されてきているはずだ。

ただし、偉大なことは教育を通じて認識しているけれども、もう過去の人物として普段の生活では忘れられた存在だろう。このあたりの実感はよくわからない。

毛沢東や周恩来など他の革命の指導者の伝記もそうだと思う。


朱徳の最後の夫人だった康克清は、革命に参加するまでは文盲で地主の畑の農作業に従事していた人なので、中国で伝記が出版されていることがネットでわかったときは読んでみたいとは思った。

中国語がわからないので無理な話だけど。


朱徳たちが生きた時代から見れば、信じられないぐらい豊かな大国にのし上がってきている中国では、こういう革命世代の伝記なんて「もう古いもの」として、ほとんど読まれていないと想像する。

実際古い話だ。
古い異国の人物にこだわる私はつくづくはぐれ者だと思う。


国家的事業で書かれた政治家の伝記は読む気がしない。
どうしても実際よりも美化したり、悪い面はトーンダウンしていい面を強調しているように勘ぐってしまうからだ。。

だいたいこの種の伝記は出版はされても、さほど読まれないと思うのだが。

政治家とくに旧共産主義国の功労者としての政治家や宗教団体の教祖の伝記モノとか。


司馬遼太郎は、膨大な資料の読み込みと行動で独特の作品群を産みだした作家で、紀行文は好きで親しんだ時期があった。

坂本龍馬を扱ったフィクションは、残された資料に基づくこの作家の知性による創作人物であり、娯楽として楽しむ以上のものは期待できないと思っている。


『偉大なる道』を司馬遼太郎の作品と比べるのも無理な話だけど、あの時期に革命途上にある人物から直接または周辺から参考になる話を聞いて、自分のジャーナリストとしての見識を動員して編集したという点で、重ね重ねすごく希少価値があると思うのだが。


アグネス・スメドレーは1892年生まれで、中国人の農民を描いた『大地』の作家パール・バックと奇しくも同年齢でしかも女性ということも共通している。

生い立ちはかなり違うが、中国を愛しているという点でもどちらも引けをとらない。

バックは1931年から1935年に出版された『大地』の三部作が評価され、1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ぱっと出て、さっと賞をもらったという感じ。


スメドレーはこの『大地』を読んでいたかどうかわからないけれど、これだけ有名になっていたので、中国の農民の生活をきめ細かく描いた作品ということは知っていただろう。

バックは両親がキリスト教の宣教師で幼い頃から中国で育ち、英語と中国語のバイリンガルで、中国の名前を持ち、自分は中国人と思っていたぐらい中国社会に溶け込んでいた人だった。


私は中学生ぐらいの頃に彼女の三部作は読んでいて、好きな作品だったので、『偉大なる道』を読んでいるときこの『大地』を想い出すことが何度もあった。

フィクションだけれど、バックが描く中国の貧しい農民、そこからのし上がっていく一族の個々の姿が、『偉大なる道』に出てくる人物たちと重なって、中国人でない作家がここまで創作して描けられることに、感心しながら振り返れたものだった。


スメドレーの『偉大なる道』はフィクションではない。

実在の人物からいい話も答えにくい話も、時には沈黙という形で直接聞きとりしているだけに、迫力やためらいなどが伝わり、ノンフィクションならではの読みごたえがある。


スメドレーが朱徳に聞き取りを申し出た理由の1つは、中国の農民がかつて外部の世界に向かって口を開いたことがないという確信だった。

フィクションではなくて、直接の聞き取りを活字にして発信したかったのだと思う。
だから女性ならではの衣食住にわたる生活の細かいことも聞き取りできている。

このあたりバックの『大地』を少し意識していたように感じる。


エドガー・スノウというジャーナリストが、同時期に延安で毛沢東に直接聞き取りをした『中国の赤い星』という本も一時期有名だったらしい。

もちろん最盛期のアジア図書館で一覧できる中国コーナーには何気なく並んでいた。


残念ながらこの本を手に取る機会がなかった。
スノウが女性だったら、読んでいた可能性は高い。

『偉大なる道』よりもイデオロギーが強く出た作品になっているらしいと、どこかで読んだことがある。

中国共産党を全世界、とくにアメリカに広く好意的に紹介したことで有名な作品らしい。


スメドレーの『偉大なる道』をアメリカで出版できるように骨折ってくれたのもスノウだった。この本の価値がわかっていたのだ。

彼女は全米でマッカーシズムが吹き荒れる最中に遭遇したので、出版どころか住む家を見つけるのも困難な情況に追い込まれ、結局イギリスに向かった。


彼女が日本で出版されることを知ることなくイギリスで1950年に亡くなり、その骨は中国に埋められていることはよく知られている。
その墓石の文字は、朱徳自らの揮毫によるものだ。


なお、スメドレーが共産主義に共感を持っていたことは行動と主張から事実である。

経済的な援助を含めて当時のソ連の機関とある程度の接触があったと考えても不思議ではない。


有名なゾルゲ事件の関係者で、戦中に死刑になった日本人ジャーナリスト尾崎秀実とは中国で愛人関係だったと、どこかで読んだことがある。

尾崎秀実は日本に妻子がいる身だった。

元は兄嫁だった妻と娘に獄中から書いた手紙が、『愛情はふる星のごとく』という題で出版され多くの人に読まれたらしい。

情熱的な人だ。

愛人関係か事実上夫婦だったかどうか事実は知らないが、どちらも異国で共感するものを持つジャーナリストであったことを考えると、十分ありえると個人的には思った。

スメドレーもゾルゲ事件の関連からだろうか、当然スパイ扱いされたらしく、そのことでも戦ってきた。
政府からの嫌がらせはひどかったらしい。
ゾルゲ事件については現在定説になっていることも、ほんとうの所はどうだろうかと私は思っている。
すっきりし過ぎている感じがする。


で、スメドレーがあの当時どんな主義を持つ人だったかなんてあまりこだわりがない。

『偉大なる道』を残した事実と彼女の見識、良心、勇気にただ感服している。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-19 17:22 | 朱徳の半生