カテゴリ:朱徳の半生( 107 )

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蒋介石による井岡山地方封鎖命令が出された頃、朱徳将軍は広東省から進撃してきた封鎖部隊を切断するための牽制作戦を行おうと、紅軍三個連隊を率いて、南部湖南へ進撃した。

旧雲南軍時代の朱徳の旧友范石生将軍が友情を裏切り、反革命の側へ寝返っていたからだった。

朱徳は彼に教訓を返してやろうと決意した。


范将軍の諸部隊は南湖南のある都市を占拠し、大量の弾薬を蓄えていた。

朱将軍の部隊が突然この町を襲ってきたので、野外で訓練していた范将軍の部隊数個中隊は度肝を抜かれて何もできなかった。

ただちに范将軍の全兵士の武装解除が行われた。

さらに朱徳は数百人の敵兵が講義を聞いている大きな公会堂へ平然と入っていった。

敵兵が机にかけたままびっくりして眺めているあいだに、彼の部隊は公会堂の壁にかかっている小銃と弾薬を取り上げてしまった。

さらに残りの部隊は天秤棒と縄で弾薬箱をせっせと運び出していた。


范将軍の部隊が体制を取り戻すころには、朱徳の部隊は山のような分捕り品をかついで山に帰っていった。

その途中で彼らは二個連隊を率いて救援にきた毛沢東に出会い、井岡山の封鎖がほとんど完璧に近いという報告を聞いた。

彼らは行軍しては重荷をおろして襲撃してくる敵軍とたたかって追っ払いながら、ついに朱徳と毛沢東は曲がりくねった細い道にたどり着き、荒涼たる井岡山の山中に登っていった。


「井岡山の基地から、われわれは、敵軍を、見おろすことができた」と朱将軍はかたった。

「敵の動きは、全部わかった。やつらが、食事のしたくをするのまで、われわれは見張っていた。
月がまんまるくなる仲秋節の最期の晩、われわれは、一つの山道のふもとに露営していた敵軍六個中隊を、捕虜にしようとして、数個部隊を下山させた。
二時間後に、彼らは、敵兵をつれ、その補給物資をもって、山道をのぼってきた。
農民出身のこの六個中隊は、わが軍に参加した。
一週間後には、封鎖部隊一個大隊が、脱走して、わが軍に加わった。
この連中は、四川の部隊で、この私も四川人だということをきいて、やってきたのだった」


9月の終わりには戦線は凍結状態になり、12月になると紅軍は飢餓に悩まされ始めた。

病院や兵舎に充満していた五千人の兵士のほとんどは飢餓から病気になったもので、肺炎や結核にかかっているものもいた。

雨が続き、寒い気候になっていたが、あたたかな服を着ているものはほとんどいなかった。


12月の半ばころ、彭徳懐が千人の兵士を率いて、北方から山岳地帯へやってきた。

彼は四千人の部隊を育てたが、半数は戦死してしまい、千人の兵力を黄公略の指揮下に残し、その残りを率いて井岡山にやってきたのだった。
半数は農民だった。


彭徳懐が到着してから会議が召集され、敵の封鎖を突破する計画がつくられた。

彭徳懐は千五百人の兵力と病人、負傷者を預かって山上に残り、毛沢東と朱徳は政治部の婦人も含めた残りの四千人を率いて封鎖を破り、ゲリラ戦を行い敵軍の勢力を分散させることになった。

この同行した婦人の中に朱徳の三人目の夫人呉玉蘭もいた。


この遠征に参加した男も女も1ポンドの米のご飯を携帯する袋に入れて持っていくことになった。

いくつかの前衛分隊には各人数発の弾薬を支給されていたが、弾薬の残りはすべて井岡山に残しておくことになった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-24 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳は井岡山の一帯をくまなく踏破して、地形と防御方法を研究し、匪賊になった農民たちの指導者王佐や袁文才と語り合った。

この二人は自分たちと同じ匪賊の一人であった「つんぼの老チュウ」の話を朱徳に語った。

この老チュウはよくこういったそうだ。


「おまえらは、戦さのやり方なんぞ知らんでもええ。おまえらが知っとらねばならんことは、どうして敵を囲むかということだけじゃ」


王や袁はこの教えを忠実に守ったので、彼らの一生のあいだ、井岡山の守りは一度も突破されたことがなかった。

しかも彼らの部下は弓矢などという原始的な武器でしか武装していなかったという。

大砲は中をくりぬいた木の幹でできていて、中に火薬や鉄や鉛の破片を詰めて、敵が近づいたら導火線に火をつけて大砲ごと爆死させた。


朱徳もこの老チュウの戦術から多くのことを学んだ。

国民党軍は前面と左右両翼に防衛隊を配置して、一縦隊で前進するという日本軍が常用する戦術を使っていた。


朱徳たちの軍は、迅速に行動できるいくつかの小戦闘部隊に分散し、敵の背後と両側面へ迂回して急襲し、敵をばらばらに寸断するという戦術をとった。


この戦術は学べば誰でも使うことができたので、軍閥たちもこの戦術を使おうとしたが、結局失敗した。


こういうゲリラ戦には、戦場の地勢についての完全な知識が必要であるばかりでなく、なによりも一般人民の支持が必要だからだ。

人民は、国民党軍閥を憎んでおり、その動静をさぐり、その小部隊や落伍兵を待ち伏せして、殺し、輸送部隊を捕虜にしたりした。

その結果、敵軍は、遠くからやつらの動きを見張っている。

はだしの百姓を、一人でもみつけると、たちまち恐怖におそわれて、前進を中止するという時代がきたわけだった」


紅軍第四軍は1928年の6月の第一週、井岡山周辺の6つの県で、地主と軍閥に対して攻撃を始めた。

たった一週間で紅軍は3つの区から敵軍を一掃し、軍需品を奪い、1200人を捕虜にした。

区役場に人民代表会議が樹立され、各村々にも下級人民代表会議がつくられた。

土地は農民に分配され、農民は武装し訓練された。

婦人や青年、労働者の同盟が建設されて、ここで婦人は男に従属するという昔からのしきたりが取り払われた。


江西省中央部から派遣されてきた敵の諸部隊は追い返された。

子どもも老人もできる限りの働きをした。


その当時大都市の外国新聞や中国新聞には、革命軍のことが「紅匪の残虐行為」として紙面でさかんに活字になっていた。


蒋介石将軍は競争相手の軍閥と一時的に休戦協定を結んで、四万の軍隊で井岡山地方を3つの省から包囲し、「紅匪」を餓死させるように命令した。


この井岡山地帯を北方から封鎖するように命じられた湖南の諸師団の中に二人の若い士官がいた。

一人は大隊長黄公略であり、もう一人は臨時に一個師団の指揮をとっていた連隊長彭徳懐であった。

この二人はその後中国革命の歴史上目覚しい役割を演じることになった。

もう一人若い中隊長クン・ホー・チァンもいたが、1930年代に蒋介石側に寝返ってしまった。

この3人の国民党士官はみな共産党の秘密党員であった。


彼らの諸部隊は井岡山の北方地帯に駐屯していて、封鎖を圧縮するように命じられたとき、彭徳懐は旅団を率いて叛乱を起こした。

混乱状態の後、彭徳懐は二千人の部隊と数百人の鉱夫を引き連れて農村へ入り、ゲリラ地帯を作り上げたのであった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-23 09:00 | 朱徳の半生

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井岡山会議は朱徳の軍と毛沢東の軍を再編成して、一つの軍に統一することを決定した。

この統一軍の隊員は旧第四軍の出身者が多かったので、紅軍第四軍と呼ばれた。

この会議では主たる3つの規則が採決された。

1 農民から、たとえ針一本、糸一すじといえども、とってはならぬ。
2 没収したものは、すべて提出せよ。
3 命令に服従せよ。

これにさらに「借りたものは、すべてかえせ」「こわしたものは、すべて弁償せよ」などの8つの規則が定められた。

この会議では、井岡山をとりまく6つの県や郷を土地革命の基地に転化した上で、さらに江西省や隣接する省内にまだ存在するほかの基地を合体していくことが決定された。
そして土地は補償なしに没収され、農民に分配していき、農民や一般人民は組織されて、武装し訓練を受け、できるだけ教育も受けさせることも決定された。

その当時、朱徳はこういう意見を述べていた。

「われわれには、いろいろなものが必要だが、何ひとつ持ってはいない。
だから、山のなかに野菜畑をつくり、米は、まわりの地主から没収してきて、将来のために、山のなかに貯えるのだ」

軍の再編成に際して、朱徳が総司令官に、毛沢東が政治委員に選ばれ、
毛沢東が紅軍と大衆とのあらゆる党活動と部隊内のすべての政治教育工作を指導することになった。
政治部は軍閥への堕落を阻止する「紅軍の生命線」であった。
朱徳の説明によると、政治部の目的は

「国の解放とわが人民の解放とに献身する、教育をうけた、意識の高い、鉄のようにきたえられた、革命軍をつくることである」

各部隊は革命の歴史、中国に対する諸外国の侵略の歴史、大衆指導と組織化の方法について教えられ、兵士たちは敵に対する宣伝のやり方、歌をうたうことや演説のやり方まで教えられていた。

井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。
1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ二百ページの小さな本になっていた。
この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。


この本には歌や短い詩、紅軍の規則、共産党の歴史と原則についての短い論文、さらに紅軍が祝う記念日の一覧表などが載っていた。
インキのしみだらけの色褪せた赤い布表紙のこの小さな本をやさしくなでまわしながら、朱徳は井岡山の荒々しい岩山や緑豊かな自然をじっと思い浮かべていた。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-22 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳軍は毛沢東の二個大隊に導かれて、山の中の行軍を続けた。

この行軍を阻止しようとする敵の部隊を粉砕し、井岡山へ登る5、6本の細道の一つをうねりながら登っていったのである。


井岡山はまわりが150マイルもある山岳地帯の総称だった。

美しい景色に囲まれた地域だったが、一年の大半は霧に包まれていた。

このあまり生産物に恵まれない山地の真ん中に、木々に覆われた傾斜地に囲まれた広くて丸い谷が横たわっていた。

むかし「匪賊になった農民たち」がここに5つの村を作り、ずっと続いてきた場所だった。


朱徳の部隊はこの谷の中や周辺に兵舎、訓練学校、病院、兵器廠などの施設を建てた。

こうしてすでに毛沢東が農民の間で始めていた土地革命のための訓練基地と司令部にふさわしい環境が出来上がっていった。

毛沢東はこの5つの村で、農民の指導者王佐と袁文才の賛同と援助を受けて、農民を組織して訓練を始めていた。


農民たちは猫のひたいのような野菜畑を耕し、筍や茶、薬草を売って生活していたが、それだけでは暮らしていけないので、結局最後には遠方の町を襲撃して掠奪していたのである。


「中国では、匪賊と地主とは、いつでも、手をにぎっていた」と朱将軍はかたった。
「地主制度は、貧乏と無知とをそだてた。
しばしば農民は毎年、すくなくとも、一年の一部分は、匪賊にならざるをえなかったのだ。
井岡山地方と同じように、匪賊化した農民が、指導者のもとに組織化された場合には、地主は、その指導者と協定をむすぶ。
われわれが、この山にはいる前には、王佐と黄文才は、地主から、わずかばかりの貢物を受けとって、そのかわりに、彼らを平和にしておいたのである。
地主どもは、『われわれをおそわず、ほかの地主をおそってくれ』といっていた。
われわれが、土地革命をはじめ、地主の土地と財産を没収し、それを農民に分配するようになってから、これらのことは、すっかり変った。
そこで、地主どもは、われわれをやっつけるために、国民党軍を呼びよせたのである。


国民党の部隊は井岡山をめぐる6つの県の主な都市や町を守っていた。

朱徳軍がこの山岳地帯に到着した直後の共産党会議で、井岡山を基地として工農委員会を建設し、ここから革命をたえず広い地域へ拡大していく方針が採決された。


朱将軍は、この会議のことを、「反革命がはじまって以来、もっとも重要な党会議」だったと、かたっている。


毛沢東は、この会議で採決された軍事戦略と政治戦略の基礎になる中国革命戦の5つの基本的特質を指摘した。

1 毛沢東によると、中国は不均衡な政治的発展を持つ半植民地国家である。
 中国は豊富な資源をもつ広大な国家である。
 反革命的ブルジョアと封建的地主階級を代表する国民党が国を支配している。
 革命軍が弱体であり、現在は山岳地帯にある。
 土地革命と指導を共産党が行っている。

毛沢東は、そのときにもこうのべたし、またその後も同じことを書いている。
すなわち、革命軍が存在し、かつ拡大することができたのは、革命軍の隊列が土地革命から出ているからであり、また、その指揮官と下級兵士とが政治的に一つであったからである。
これに反して、国民党と地方軍閥の軍隊とは、土地革命に反対し、農民からなんらの援助も受けることができず、その隊列はたえざる政治的意見の対立でばらばらに分裂しており、したがってその将校は、兵士や下士官を奮起させて、死をかえりみずに戦わせることができなかったのである。


朱徳は軍事的戦術を要約した。

「敵が進めば、われらはしりぞく。
「敵が宿営すれば、われらは攪乱する。
「敵が戦闘をさければ、われらは攻撃する。
「敵がしりぞけば、われらは追撃する。


                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-21 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳軍は戦いながら東方へ撤退していき、5月にレイ県地区に野営して井岡山へ登っていく準備をした。

その頃、毛沢東と戦ってきた江西省の国民党軍はレイ県の主な郷役場の所在地を占領していた。

この連中が湖南省との通信連絡網を破壊してしまったので、毛沢東は連絡ルートを再開するために、井岡山から一挙に攻めくだった。

毛沢東は二個大隊を率いて、みずからレイ県の朱徳に会いにやってきたのである。


土地革命の二つの主流が結びつく、このささやかな会合こそ、中国史上最代の出来事の一つとなったのである。
朱徳は、毛沢東を見たことはあったが、秘密会議のさい、うす暗い部屋のなかで、ながめたというにすぎなかった。
だから、この二人が、まだ、本当に会ったことはなかったのだ。
レイ県ではじめて、会合したときから、この二人の男の全生活は、渾然と一体になり、あたかも、一人の人間の両手のようになった。
その後数年間というもの、国民党や外国の新聞は、この二人を「紅匪の頭目、朱毛」と書きたてたり、紅軍のことを「朱毛軍」とよんだりした。


この二人の男は驚くほど似た点が多かったが、大きな違いもあった。

毛沢東は朱徳よりも10歳若く、1937年の現在42歳だった。

どちらも教育を受けた農民で、1911年の革命以来あらゆる革命闘争に参加してきた。

毛沢東は「五・四運動」で指導的役割を演じたが、その当時朱徳は四川省軍閥の泥沼のなかで混乱しながら、もたついていた。


毛沢東は湖南省最初のマルクス主義研究会を組織し、共産党を創立した第一回党大会の代議員になり、その後主たる党指導者の一人になり、国民党中央委員会の委員にもなった。

彼は強い迫力と洞察力をもった文筆家であり、時には詩人でもあった。


風采や気質の点では、朱徳の方がはるかに毛沢東よりも農民的であった。

二人とも農民のように率直でむき出しでかつ実際的であったが、毛沢東は基本的にインテリで、彼の独特の思弁的精神は絶えず中国革命の理論的諸問題と取り組んでいた。

彼は女性的な鋭敏な感覚と直観力を持っていたが、同時にあらゆる自信と決断力を持った非常に男らしい男でもあった。


二人とも強情でねばり強かったが、朱徳の方がよりはっきりしていた。

朱徳は政治的にも深い理解力を持っていたが、むしろ行動の人であり軍事的組織者であった。


しかし朱徳の性格には奇妙な矛盾があった。

頭のてっぺんから足のつま先まで男性的で、焼きを入れた鋼鉄の棒のように行動したが、内に強い謙遜の念があふれていた。

後年、この謙遜の念については毛沢東をしばしば怒らせたという。


朱徳の出身が貧農であるとか、教養と学問のある人に対する農民が持っている尊敬の念からだけではなく、彼が若いとき軍閥の一員としてすごした時代に根ざした無意識的な罪悪感にもとづいているとスメドレーは考察した。


朱徳は人間の性格と誠実さを見る力に恵まれていたので、毛沢東に会ったとき、これからの後半生をこの男の判断にまかせることができると認識したようである。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-20 09:00 | 朱徳の半生

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新しい妻呉玉蘭の悲惨な最期を語った後、長い間沈黙が続いたが、ようやく辛い思い出を振り切って、莱陽での勇気ある農民たちの物語を始めた。


農民たちはそれまでの数々の勝利に自信をつけて、自分たちだけで国民党の正規軍にぶつかっていったが、そのたびに大虐殺を被るのであった。

たとえば、工業都市である衞陽の町を占領した広西軍二個師団を追い出すために、正規の革命軍が来るのを待たずに自分たちだけで激突したこともあった。

指導したのは大劉と小劉という名で知られていた農民で、戦場で数千の農民とともに殺されてしまった。


その頃、水口山のアンチモン鉱山の鉱夫八百人が朱徳の軍に加わった。

もとは鍛冶屋で鉱夫になっていた宋・チャオ・センという男は古くからの共産党員で労働運動の組織者であった。

40歳になる宋は組合と研究会を組織するために、アンチモン鉱夫を指導して何度も流血の闘争を行ってきた。

棍棒と鉄の棒をもって、鉱山会社の武装した守衛と戦い、小銃30挺を分捕ったあと、朱徳の軍に参加するために行進してきたのであった。


ところが鉱夫たちの多くはまだ11歳か12歳の子どもだった。

朱徳は革命軍に従っていた大勢のほかの貧しい子どもたちと同じように、いつでも正規の教育が受けられるようにひとまず政治部に入れて、司令部付きの看護兵や伝令を務めさせた。


朱徳が鉱夫の話をしていた1937年には、彼らの多くは革命軍に残っていて、将来軍司令官や政治指導者になるために一生懸命働いていた。

しかし彼らの指導者宋はすでに戦死していた。


1928年4月、広西軍五個師団が湖南の革命軍に攻撃を開始してきたときには、朱徳軍は約一万の兵力になっていた。

しかしそのうち制服を着ていたのはたった二、三百人にしかすぎず、大部分は莱陽の女たちが「靴を作る運動」を起こして、綱とわらじでできた靴を補給してくれるまでは裸足だった。

強力な装備をもった広西軍や湖南の軍閥唐生智軍とのたびたびの戦闘から、朱徳たちはこれ以上戦闘を続けると全滅させられると判断した。

朱徳の旧友范石生将軍の部隊の援助も受けたが、結局大損害を被り、広東省へ追いかえされてしまった。


そこで、朱徳軍と毛沢東軍との共産党軍事委員会代表の合同会議が開かれた。
その決定にもとづいて、朱徳軍の主力は、湖南―江西の省境に近いレイ県に集結したうえで、戦略的山岳基地、井岡山へ撤退することになった。
彼らは、この井岡山を基地として、江西省西部と湖南省東部の全域とを農村革命の基地に化そうというわけであった。
朱徳軍の幹部の多くは、便衣隊をつれて、湖南省にのこり、活発に農民運動をつづけさせることになった。


朱徳がこの期間に改善し発展させた部門の一つは通信だった。

通信組織が網の目のように湖南省南部と江西省西部の全体を覆い、さらに地下組織を通じて敵側の区域にまで広がっていた。

すべて農民の人力で行われた。

一人の農民が3から6マイル走って、次の農民に手紙や報告、命令を渡し、その農民はさらに次の連絡場所まで走っていくというやり方だった。

舟を使えるときはもっと早かった。

敵軍から馬を捕獲してからは「早馬速達便」を開設した伝令も出てきた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-19 11:15 | 朱徳の半生

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郴県に残っていた敵の五個中隊は朱徳軍接近の噂を聞くと、たちまち逃げ出してしまったので、朱徳は一発も撃たずに県城を占領した。

まもなく郴県に工農委員会が作られ、続いて県内の村々に工農委員会が作られていった。


当時毛沢東は井岡山をなだれ降りて、江西省一円を掃討してまわっていた。

茶陵にあった漢口守備兵大隊は湖南省南部と東部に人民政権が樹立できるまではという勢いで四方に攻撃していた。


郴県の北方に、莱陽県という大きな県の莱陽という県城があり、戦闘的な農民と知識人で有名だったが、地主が残虐なことでも知られていた。

朱徳はここを占領するために、自ら数個部隊を率いて進撃した。

県城の南門から数里のところで、彼は千人の武装した農民に出会った。

彼らから南門の防御は堅固だが、他の門の防御は手薄で、北門はいつも開け放たれていて、6人足らずの民団兵で守られているにすぎないことを知った。


朱徳は今回も農民が進言した計画に従った。

その夜、彼は山岳地帯を通って莱陽の東側へ行軍した。

眠りに落ちた村々を通過すると、男たちは起きて来て、武器を手に取り革命軍といっしょに行軍していった。

地主の指揮官と民団兵の夜間勤務の交代の隙を狙って、革命軍は町のなかに進入し、彼らを背後から襲撃した。

農民たちも餓えた人間のように民団に襲いかかり、武器を奪い取った。

農民が捕まえた幾人かの地主は、その場でなぐり殺された。


二週間のあいだ、農民たちは莱陽の解放と工農委員会の建設を祝った。

朱徳は、ぞくぞくと集ってくる新しい志願兵の処理と、革命を広げるために農村へ送り出されていく農民分遣隊の編成の問題で、朝から晩まで多忙をきわめていた。

そして毎日開かれる民衆大会で話をする時間をなんとか作っていた。


そこで朱徳はひとりの女性と知り合った。

彼女も大胆不敵な農民組織者として農民たちに広く知られていて、力強く理智にあふれた演説家だった。

25歳で、自然のままの足と頑強な身体を持ち、髪を短く切り、浅黒い肌をしていて美人ではなかったが、大きな立派な目は理智的で決断力を秘めて輝いていた。


朱徳は、彼女が呉玉蘭という名で、小説家であり、かつて大革命において指導的役割を演じた知識階級の一家の一人だと、紹介された。


彼女の二人の兄弟はただちに革命軍に入り、彼女は政治部に入った。

朱徳が彼女と莱陽で結婚したことをスメドレーにいうと、彼女はびっくりして顔をあげた。

彼は少しまごついて急いで説明を加えた。


「それは世間一般の慣習的な結婚ではなかった。

私はそれまでに、四川省に妻をもっていたが、1922年からずっと会ってはいなかった。

ときどき文通はあったが、彼女もずっと前から、私の一生が革命のものであり、私が決して家庭に帰らないだろうということを、よく知っていた。

呉玉蘭も、彼女の家族も、このことは十分承知していたのだが、みな因襲的形式には縛られなかった。

もちろん呉玉蘭も、ほかの婦人たちと同じように、彼女自身の名前をもちつづけ、政治部で彼女自身の仕事を担当し、彼女の時間の大部分は村々での仕事についやしていた」


ここでスメドレーは呉玉蘭の話をする朱徳の憂鬱そうな表情に気がついて、理由をたずねた。

何かこの世のものではない光景を見ているかのように、朱徳は薄暗い室内を激しくじっと見つめながら、しゃがれた声で答えた。


「彼女は、その後、国民党軍に捕えられた。

やつらは、彼女を拷問した上で、首を切った。

その上、彼女の首を棒につきさして、その生れた故郷、湖南省長沙の町の大通りで、さらしものにした」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-18 09:00 | 朱徳の半生

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宜章占領後3週間目に、蒋介石軍の二個師団が宜章に向かって進軍してきた。

司令官の許克祥将軍は、1927年の5月湖南省で数千の農民をみな殺しにしたので、「百姓殺し」と呼ばれた有名な人物だった。

市内は恐慌状態に陥り、みんな付近の村々に逃げ出した。


朱徳は分散していた部隊を呼び戻し、宜章の工農委員会と人民組織の指導者たちを連れて、湖南と広東の省境の山岳地帯へ撤退した。

そしてこの地域の二千人の民団を武装解除し、その武器を農民に引き渡した。


「匪賊どもめ!」とののしりながら、「百姓殺し」は彼らをみな殺しにするために二個連隊を派遣してきた。

ところが誰も結果を報告してこないので、許将軍は自ら五個連隊を率いて攻めてきた。

このとき革命軍がとった戦闘方法が、その後ずっと朱徳軍の作戦の基本になった。

朱将軍は次のように説明した。


「われわれは、人民に基礎をおいている。
われわれは、自分で戦場をえらび、山を背にして布陣し、われわれの望むところへ敵軍をひきいれ、しかるのち、敵の輸送隊を寸断し、敵の両側面を襲撃し、こうして、敵を包囲し、せん滅した。


「百姓殺し」自らが指揮をとっていることがわかった農民たちは、棍棒から猟銃にいたるあらゆる武器で武装し、四方八方から約千人が増援にかけつけた。

一週間朱徳の軍と敵の主力どうしが闘っている間、農民たちは敵の輸送隊をせん滅した。

農民たちはバラバラになった敵兵を狩りたて、橋が崩れ落ち川に投げ込まれたものが這い上がってきても徹底的にたたき殺した。

この戦闘の混乱の中、「百姓殺し」は小舟の底に身を潜めて逃げてしまった。

「百姓殺し」を取り逃がしたことを知ったとき、農民たちは泣いて悲運を呪った。


しかし、この戦闘で獲得した立派な小銃で二千人の農民が武装することができた。

また「百姓殺し」の司令部があるシーピンを占領したときは一個師団分の軍需物資や食糧、現金を見つけ出すことができた。

山岳地帯に逃げた敵兵を、朱徳の数個部隊はその地域の農民たちと追跡し、完全に息の根を止め、さらに五百の小銃を獲得することができた。


勝ち誇った革命軍は宜章に帰って、工農委員会を再建した。

一方朱徳は敵の軍閥唐生智将軍が十一個中隊で守っていた地域へ、古参兵を引き連れて北進していた。

その途上で情勢を嗅ぎつけた一群の農民と出会った。


彼らは朱徳に軍閥唐生智将軍の十一個中隊のうち六個中隊は旧式の傭兵ではなくて、徴兵された小学校や中学校の生徒たちであり、将校にするために独立訓練隊にいれられたものだと報告した。

さらに彼らの待遇は良好で、将来は将校になることを誇りに思っているものもいる。

現在朱徳の軍と闘うために宜章に進軍しているが、この戦いが彼らの最初の戦闘になるだろうし、朱徳たちを匪賊と思いこんでいるという。

怯えさせたらかえって戦ってくるだろうから、彼らだけを捕虜にしてはどうかと進言してきた。


じっと聞いていた朱徳の目は輝いた。


「学生六個中隊――しかも、もういくらか軍事訓練をうけている! 
われわれは、ちょうど、そういう連中を必要としているんだ。
われわれは、連中を宜章につれていって、再訓練することができるし、それから、わが軍に参加しろと要求することもできる」


朱徳と陳毅は、彼らのまわりに集まった兵士たちにこの学生六個中隊を革命軍に加えることの重要性を語り、戦闘に入ったら、ひとりの死傷者も出さずに捕虜にする作戦を説明した。


この計画は成功し、六個中隊全員が捕虜になり武装解除された。

丘のあいだの窪地で、朱徳と陳毅は革命軍の性格と綱領について説明した。
まるで友だちに語りかけるような陳毅の演説は捕虜たちに深い感銘を与えた。


というのは、陳毅自身が古い学者の家柄の出身で、四川省とフランスの大学と、さらに孫逸仙が創建した有名な黄埔軍官学校を卒業していたからだった。

彼は、捕虜たちと同じ階級に生まれたが、軍国主義と帝国主義に対して戦い続ける道をなぜ選んだかを説明したあと、捕虜たちにこのまま護衛兵といっしょに宜省に行き、いろいろな人とよく話し合いをするように説得した。

その後、帰りたいものは旅費と通行証を支給するので帰っていいと、しかし長く厳しい道になるけれど、革命のために戦いたいという人は大歓迎すると語った。


「われわれ中国の青年には、奴隷にされることよりも恐ろしいことがありうるだろうか?」

陳毅は、みんなにたずねた。
捕虜のなかから、多くの声がいっせいに答えた。
「ない!」と。


ある若い革命家の指揮官も立ちあがって説明を始めた。

彼もかつては学生だったが、反革命が始まったときに兄弟を殺された。

続いて一人の農民兵が封建的地主と戦った彼の家族の悲劇的な運命を語り始めたが、彼の頬にとめどなく涙が流れ、とうとう最後まで続けられなかった。

朱徳は捕虜たちの中にもすすり泣いているものを見た。

学生六個中隊は宜章に送り返されたが、わずか十五人を除いて全員が革命軍に加わった。


朱将軍が筆者に話をしてくれた1937年には、すでに彼らの多くが、朱徳軍の軍事的あるいは政治的幹部になっていた。

                         紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-17 09:00 | 朱徳の半生

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城壁をめぐらした小都市宜章の近くに入ると、朱徳軍は農民自衛隊と出会った。

この自衛隊は二、三百人の兵力を持ち、十八歳の青年が指揮をとっていた。

この青年は家族は全員彼らの地主に殺されてしまい、彼だけが生き残ったのだが、自衛隊には彼のような境遇のものが多かった。

この自衛隊は朱徳軍に参加することになった。


次に参加したのは宜章にいる二人の共産党員の一人だったフー・シャア・ハイという知識人で、共産党と連絡をとっていた。

この二人の家族は地主だったので、比較的彼らは安全にすごせていた。

宜章を支配していたのは商人や国民党の役人でもあった地主の小グループであった。

地主たちはフー・シャア・ハイを使者として北部広東へ送り、叛乱した農民を鎮圧するための援軍を求めさせた。


そこでフーは一計を案じた。

もし朱徳軍から二百人の部隊を彼に指揮させてくれるなら、彼はこの部隊を率いて町に入り、民団を武装解除し、町の支配者を逮捕することができると考えた。


朱徳はただちに古参兵二個中隊を選び出し、小奇麗な服装で身を飾らせ、国民党の軍隊らしくふるまうように命令した。

1927年12月29日の朝、フーに導かれた二個中隊は宜章市へ行進していった。

市の支配者たちは彼らを歓迎し、その夜指揮官たちを宴会に招待した。

宴たけなわの頃、二個中隊は民団を包囲し、続いて宴会場も包囲した後、市の支配者たちを逮捕してしまった。

そして指揮官たちは宜章を占領したと支配者たちに挨拶した。


この二個中隊に続いて、朱徳軍も市に入った。

城壁の上には広東コミューンの赤旗がひるがえっていた。


「その時いらい、われわれは、この旗を使った」と朱将軍は、話した。

「その旗は、赤地の中央にー労働者と農民の支配のシンボルー白い星と槌と鎌とが描かれていた。


あくる朝にはそれまで弾圧されていた人民の諸組織の代表者で革命委員会が結成され、1928年1月1日には湖南省で最初の工農委員会を組織した。

工農委員会は労働者や婦人の問題を処理する機関を作り、地主、軍閥、役人の財産は没収され、地主の土地はなんらの補償なしで没収すると宣告された。


朱徳の軍は二個連隊からなる師団に改編した。

第一連隊は「鉄軍」の古参兵からなり、第二連隊はこれまでに参加していた農民自衛隊と新たに編成された約千人の宜章農民自衛隊で結成された。

新しい義勇兵がぞくぞく参加してきて、第二連隊の兵力は約二倍になった。


しかし、当時われわれの政策は、正規軍をあまり大きくしない方針であった。
われわれの政策は、農民を組織し、武装させることであった。

後の中国紅軍―現在のわが八路軍―の多くの幹部たちは、この最初の湖南省における大農民闘争から出てきている。


幹部を始め無数の戦士たちはみな兄弟を国民党軍に殺されたり、戦死したという身の上話を語ることができた。


朱徳軍の宜章占領後、湖南省南部と東部一帯で革命の炎が燃え上がり、土地の分配が始まった。

朱徳は農民たちの闘争を援助するために援兵を各地に送ったので、ほんの短い期間、彼の部隊の大部分は広い地域に分散してしまった。

地主たちは生き延びるために、国民党軍か地方軍閥の影響が強い大都市へ逃げ出していった。


敵軍が南方から迫ってきたとき、朱徳は古参兵二個大隊を派遣して農民の組織と武装にあたらせた。

また軍閥唐生智が北方に侵入してきたとき、さらに別の部隊を派遣した。

とうとう宜章を守備するものはひとにぎりの労働者自衛隊だけになってしまった。

紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-16 17:01 | 朱徳の半生

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革命軍の分散した部隊が集結し、広東省北部の広東市から2、3日行程にある市に達したときは12月半ばになっていた。

このあたりには地主が雇った民団や国民党軍やその他の反動軍が群がっていた。


朱徳の軍は山地を通り抜けてゆく道を探しているときに、広東市の将校訓練連隊の武装した候補生たちの一個連隊と出会った。

候補生たちは自分たちが参加した12月11日に起こった広東市の蜂起を語った。

この蜂起の中で広東コミューンが結成されたが、3日後には国民党軍と英国砲艦の共同攻撃によって打ち破られ、数千の労働者、農民、革命軍兵士に対する大虐殺が行われた。

やっと逃げ出した人々は小さな群れを作って、革命を続けるために何とか朱徳軍にたどり着こうと奮闘していたのである。


朱徳の語るこの時期の国内情勢は次のようになる。

新たに加わった二百人の候補生を含めて朱徳の直接指揮下にある軍の総数は約千七百人。

北方の茶陵には五百人の漢口守備隊。

そこからあまり遠くない井岡山には毛沢東が指揮する千人の部隊がいた。

賀竜将軍は湖南省北西部のどこかで再び農民軍を結集させていた。

農民指導者方志敏は江西省北東部で農民運動を指導していた。

黄埔軍官学校卒業生の一グループは江西省中央部の東固山岳地帯に革命基地を築き上げようとしていた。

広東省東江地方では、彭湃が「鉄軍」残存部隊と農民パルチザンとを率いて活動していた。


湖南省は農民たちが「郷紳」と総称していた中国で最も残忍な「虎地主」たちの領地として有名で、この頃農民の叛乱は湖南中を震撼させていた。

必死になった農民たちは毎晩「郷紳」の邸宅を襲撃し、すると「郷紳」は民団を率いて農民の指導者を虐殺していった。

農民たちは、逃げ惑う農民叛乱者たちをひそかに家に招き入れて匿い、女たちは遠くから米を運んできて彼らのために料理を作ったりした。

どちらも絶対に容赦ない無慈悲で残忍な闘争の悲劇が華南のいたるところで数年間続いた。


このような事実が、朱将軍をして、しばしばくりかえし、こういわせたのである。

「中国の農民は、地球上でもっとも革命的な人民だ」

中国の農民が必要としているもののすべては、すぐれた指導、堅実な綱領、そして武器だけだ、と。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-15 16:24 | 朱徳の半生