カテゴリ:アジア図書館( 23 )

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著者は大学教員をされている宮嶋博史氏で1995年に発行された中公新書である。
長い間解けないままに頭の隅にあった問題を解いていく手がかりを得たような感じがした。
たまたま家の検証のために族譜を手元に置いていた時期だったので、その族譜の眺め方、楽しみ方も教わった。


族譜を簡単に説明すると、宗族の男性構成員について、生没年月日、経歴、配偶者などの情報が記載された本で、配偶者は姓と本貫のみの記載であり、女子には本人の名が載せられずに夫と子の姓名・本貫が記される。

現代は女子も男子と同じように名まえが記載されている。


族譜に載っている情報はもちろん嘘や出鱈目ではないが、記載内容については戸籍のような正確さは求められていないと思う。
だから海外にいて詳しい情報がわからなかった私や北朝鮮に行った人たちのような場合は名まえだけになっていた。


お墓についてはわからないけれど、日本でなくなっていることがわかるなら、「墓在日本」となっているケースも見たことがあった。

知り得た情報はできるだけ残していこうという情が伝わってきたものだ。

朝鮮半島の歴史関係の研究者も出版物もまだまだ少なかった40年ぐらい前に、朝鮮史を読み始めた。

両班はそのときに知ったことばだった。


当時は「両班=貴族」で、「ヤンバンは朝鮮の貴族なんだ」となんとなく理解し、雲の上の人たちだから当時目の前にあった「在日問題」を考える際は関係ないものと理解した。
つまりわが家に関係がある身分ではないと。

ところが在日でも「ヤンバン」ということばは思っている以上に身近に聞くことばであった。
日本人が日常生活で「貴族」「華族」「苗字帯刀」を口にする比をはるかに超えている。

父から祖父の家の没落は土地調査事業が原因と聞いた。なぜ申告しなかったのかという点では「うちはヤンバンだから」「ヤンバンの土地は手を出さないだろ」とのん気にかまえて、いつのまにか土地を失ってしまったからだという。
「ヤンバン」ということばで身を守ろうとしていたようだ。

私が知りえた情報で想像するには、祖父が育った一族は他人に貸せる土地も所有していたが、どうやら農業を生業にしていたようだ。しかし汗水流して農作業をしていた感じはない。むしろ男子にあっては肉体労働を蔑んでいた気風が感じられる。
父は祖父のことを「肉体労働ができない人」と表現した。
肉体労働ができないとは、親の世代の男子が肉体労働をしている姿を見ていないと解釈している。
祖父は書堂という当時の教育機関で学び、漢文の作文能力を持つ人で漢字文化圏なら筆談でコミュニケーションがとれたという。

こういうライフスタイルを持つ一族とは一体なんだろうと思ってきたので、この本はとても参考になった。

在日の方は世代を経てきたので、「ヤンバン」を口にする人はほとんどいないと思う。

北朝鮮ではなおさらそうだと思う。


もう6年ほど前に、韓国での宴席で誰かが、相手に姓と本貫という出身地を訊いていて、初対面の相手が答えると「○○(出身本貫名)安氏はヤンバンやね」という言い方をしていたことが印象に残っている。

そういってもらえると答える方もうれしいし、尋ねた方も知り合いになれてうれしいという感情が場の雰囲気をやわらかくしてくれる。

実際にはこういう使い方をするんだわと感心した。


現在の「ヤンバン」は曖昧な表現であり、かつ庶民的で、みんなで共有していて、社交辞令のようになってきているような気がする。


では、この「ヤンバン」を日本語にどう翻訳するか。

「ヤンバン」を「貴族」や「名門一族」と由緒正しい出自という意味合いで訳してはズレでしまう感じがする。

「安氏は何代にも渡って○○に暮らしてきた一族」ぐらいの意味合いを表現する方が日本社会ではなじみやすい気がする。

「ヤンバン」ということばがなじまない社会では、このことばを大層にとらえる必要はないと思っている。


この本によると、韓国社会で出自を「ヤンバン」と意識する人たちはなぜか多いらしい。

著者は、それを一種の社会運動と捉えたら理解しやすいと書かれていたと記憶している。
著者が控え目に表現しているこの「社会運動」という言葉で、私の中で引っかかっていたモノがポロっと取れた感じがしたものだった。


今私は「ヤンバン」と聞いたら、韓国で楽しんだ民俗的雰囲気いっぱいの居酒屋を思い出す。



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by far-east2040 | 2016-08-31 16:13 | アジア図書館

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岩本千綱著 『シャム・ラオス・安南三国探検実記』

もう20年ほど前に読んだ本なので、内容は忘れかけている。

アジア図書館で働いていた頃なので、こういうアジアに関する珍しい本にも出会える機会が多かった。

紹介してくれたのは東南アジア通の男性で、私とそんなに変わらない年齢だったような気がする。

今振り返ると、彼は何をして生活していたのかなと思い出される。

「社畜」ということばは彼から聞いたので、社会にはまりにくかったのかな。


沢木耕太郎のアジアの紀行文はかなり読んでいたようだし、実際東南アジア各国へは観光でよく行ってたようだ。

といってもぞろぞろ団体で行くのではなく、あくまでも単独で。

当時は「お楽しみ」を目的にした団体観光や数人の仲間で行く話はよく聞いたので、彼のような単独者で東南アジア通という存在はなかなかいいものに写った。

男でも女でも一人旅ができるというのは、日本人の中でも独特の性格を持った人たちだと思っている。自分でものを考えている。


で、「笑えまっせ」という保証つきで勧められたのが中央公論社の文庫本である。
「ほんまに笑えるんかな」
と半信半疑に読んだ。

著者は生まじめに綴っているが、なるほど確かに笑える箇所がいくつかあった。

今はネットで結構つまらないことで笑うことがあるのだが、本を読んでそこまで笑うことはあまりないので、記憶に残っている。

1897年(明治30年)の初版を底本として、現代仮名遣いに改めて1989年に出版されたものだった。

この本は古本屋経由でこの図書館に来たことは、最後のページにえんぴつで書かれた店頭販売価格の数字でわかる。
1896年(明治29年)に巡礼僧に身をやつし、現在のタイ、ラオス、ベトナムにかけて冒険旅行を試みた二人の日本人の探検記である。

二人はそれぞれ「三無」と「鉄脚」と号を名乗っている。

私が笑いの壷にはまったところを引用してみる。

「九時頃プラケア村に着す。人家三、四軒、停車場あり、坊等始めて蘇生の思いをなしまず朝餉の料に有りつかんといよいよ托鉢を思い立ちしも、人に向かって食を請いたる経験なき俄坊主の悲しさ、何分に乞食の勝手暗くきまり悪さの限りなければ、二坊互いにその実行を譲り、三無は鉄脚に鉄脚は三無に、イヤ君は名僧らしければまず第一に試み給え、イヤ君はシャム語の名人なれば人を感ぜしむるの妙あらんと躊躇逡巡、先陣の譲り合いはいつ果つべきとも見えざりし折柄、天の助けか仏の恵みか東の方より一老舅の荷物を肩に来掛りしあり。」(岩本千綱『シャム・ラオス・安南三国探検実記』)
 
こんな調子の珍道中。

現代文ではないのでとっつきにくい文体であるが、全体的に偏見のない目で淡々と綴っているのが二人の人柄を表していた。

どんなものを食べ、どんな家に住んでいたかなど衣食住にわたっても、よく観察して具体的に書かれていて、今読んでも新鮮な感じがすると思う。

ラオス、安南(ベトナム)は当時フランスの植民地になっていて、白色人種の黄色人種に対する圧迫を憤っている様子も伺えておもしろい。
小田実の『何でも見てやろう』と重なりもする。
 
この本は1897年(明治30年)博文館から初版が出た。
ぺらぺらの紙表紙の薄手の冊子だったそうだが、現在この本の初版は奇覯本になってしまっているらしい。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に再刻版が出されていて、このときに親しんだ人が多かったという。
だが、この本すら奇覯本になってしまっているとのことである。


隣国の東アジア各国よりも、こうしてちょっと距離があるアジアに対しては案外親密感持てたんじゃないかなと思う。

このぐらい離れた国なら国境問題や拉致問題、タイムリーなミサイル発射とか国民のデリケートな感情に接触することもなくて、メディアも積極的に煽るネタも探しにくくて、いい関係を築きやすいように思う。



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by far-east2040 | 2016-08-28 18:41 | アジア図書館


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現在のベトナムは手頃な値段で観光旅行がしやすくなってきているし、衣服を中心に「made in Vietnam」という表示がついた製品もよく目に付く時代になって、経済的な繋がりも増えてきてると思う。

日本から見れば、もう遠い国ではない。


私はベトナムは日本や韓国と同じように歴史的に中国の影響を受けてきた漢字文化圏の国であり、その後フランスの植民地でもあったことから、いい意味でも悪い意味でも西洋文化を許容し影響も受けてきた珍しい国と捉えている。


そしてこの地で今から考えれば、ばかばかしく思えるのだが、この狭く細長い国で自由主義と共産主義のイデオロギーの違いから、アメリカを中心に想像を絶する悲惨な戦争が繰り広げられた国でもある。


そのベトナム戦争も1973年に終結とあるから、今のベトナムの若者にとっても遠い大人たちの記憶でしかないかも知れない。


朝鮮戦争もそうだが、ベトナム戦争なんて写真集を見ていたら腹立たしくなってくる。

前回のエントリー「アジア図書館の本 ―ベトナムー」で書いた1966年当時社会党の国会議員であった楢崎弥之助氏が発行した写真集『ベトナム』の中から、発行への思いを抜粋してみた。


……「焼きつくし、殺しつくし、破壊しつくす」これがベトナム戦争である。そしてナパーム弾、毒ガス、殺人爆弾シュラプネル、無差別爆弾、虐殺、これはアメリカ帝国主義侵略の実体である。これら侵略の殺人道具は一部日本で作られている。沖縄は侵略のための最大の基地になっている。
 私たちは、ベトナム戦争がどのようなものであるかを日本国民に正しく伝える義務があり、私たちはいま何をなすべきかを訴える責任がある。ベトナム人民との戦闘的友情を果す責務の一つとしてここに写真集『ベトナム』を日本国民の前におくる。……」 


この本はベトナム関連の書籍収集家から個人的にこの図書館に寄贈された本の1冊だった。古本屋を巡り歩いていたときに、店頭に無造作に積まれていた写真集であったと回想されていた。

1973年(昭和48年)1月発行の雑誌「週刊サンケイ緊急増刊」の特集「全記録ベトナム戦争30年」も蔵書として2冊ある。

このようにアジア図書館では雑誌は特集記事に焦点をあてて登録して配架するので、ベトナムコーナーになっているのである。

この2冊は書架で肩を並べているが、別ルートから来たものである。登録番号がかなり離れていた。

いまこの雑誌は日本にどれだけ残っているだろうか? 

全体的にはかなり変色していて、裏表紙も少し破れていた。

長い年月を経た雑誌特有のパサパサとした紙質に変化していた。しかし当時ベトナム戦争がどのように報道されていたか知る貴重な資料である。
 
1986年(昭和61年)発行写真雑誌『PHOTO JAPON』5月号の特集は「41人のベトナム戦争」である。

この雑誌も特集記事から判断してベトナムコーナーに納まっている。

戦争に巻き込まれ、肉体的犠牲を強いられた子どもの写真が多かった。

両足がない子、全身包帯だらけの子ども、物乞いする両うでのない子、墓場で泣き伏す女・子ども、ナパーム弾で顔じゅうの皮膚がむけ、かさぶたのように覆っている写真が続く。


一度見たら、まぶたに焼き付いてしまう。一枚の写真から受けるメッセージは言葉以上。

現在の中東アジアで爆撃などで犠牲になった子どもたちの報道写真とよく似ている。



沢田教一、一之瀬泰三、石川文洋氏など日本人カメラマンの活躍が思い出される。ベトナム戦争の生々しさを命がけでレンズを通して世界に報道しようとしてきた息遣いが伝わってくる。
 

沢田教一は1936年生れでピューリッツアー賞をもらった写真とともによく覚えている。34歳ぐらいでクメール・ルージュが支配するカンボジアで亡くなっている。


一ノ瀬泰三は1947年生れで、やはりクメール・ルージュが支配するカンボジアで26歳という若さで消息を断ち、その後処刑されたことがわかった?

『地雷を踏んだらサヨナラ』という写真集を読んで泣いたという青年がいたが、ベトナムの話になると意気投合したものだった。

今一ノ瀬泰三が生きていたらなあと思う。惜しい人材だ。


最後に石川文洋氏は1938年生れなので、現在78歳。

私はこの写真家は人間味があって好きなのだが、北ベトナム側にあまりにも肩入れし過ぎだといって嫌っていたベトナム難民の方も知っていた。


ベトナム戦争時代、後に政治家となる作家の南ベトナム行きに同行していたのだが、大砲のようなものを北ベトナム側に試しに打つように南ベトナム軍の誰かに勧められてやろうとしたときに、石川氏が「あなたがこういうことをする理由がない」という内容で止めたというエピソードを知ったのもベトナムコーナーの本か雑誌からで、感動したものだった。


今調べてみると、この作家は1968年にベトナム取材をしているので、36歳ぐらいで、それを制止した石川氏は30歳ぐらい?

石川文洋氏の沖縄生まれと関連づけたらいけないのかな。

現在この人のことを顕彰する博物館がホーチミン市にあるらしいから、一度行ってみたいと思っている。


戦争は軍需産業の在庫を減らすためであり、また新たな武器の実験場でもあると強く思っているので、やりきれない。枯葉剤なんかの実験も兼ねた戦場という感じもする。

写真集の迫力という点ではベトナムに並ぶ国はないと思っている。


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by far-east2040 | 2016-08-26 10:35 | アジア図書館

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ベトナムと聞けば、やはり「戦争」ということばを連想してしまう。年輩の方なら、1960年、1970年代の「べ平連」の運動を思い出される方も多いはず。

私自身は生まれてはいたが、その熱気を感じる年齢層ではなかった。
 
現在はシリアなどからの船に乗ってヨーロッパに難民となってやってくる映像がよく流されていて、「難民」が時代のキーワードになっている。

幼い子どもを連れての家族ぐるみの命懸けの脱出行動を見ていると激動の時代を迎えていることを感じる。


1990年前後の難民といえば、ボートピープルと表現されるベトナム難民のことを思い出すのだが、アジア図書館で働くまでは新聞やテレビでしか知らない遠い存在だった。

しかし実際にアジア図書館を通じて何人かの難民と出会ったことがきっかけで、ベトナム難民がなぜ住み慣れた地を離れようと決意したのかという点にとても興味を持つようになった。


私はベトナム難民の人に実際に接していたり、本雑誌を読んだりしているので、たとえばヨーロッパに来るシリアの難民が故国では中流階級ぐらいに属する人たちだろうということは想像できる。

故国で無学文盲、食うや食わずの極貧生活をしていた人たちが難民になったのではない。


とにかく難民を出すにいたったベトナムの歴史的社会的状況を知りたいというのが実際に本を手にするきっかけだった。


書架には、ベトナム戦争当時発刊された時代の証言としての本が多かった。

古本として出回る本の数と、新刊として出版される本の数は比例関係に近いと思っているので、当時ベトナム戦争に関する書物が多く出版された事をしのばせてくれた。

ページを開くと、日本でだれがどのような行動をとり、本を書いたか、何が報道されたか、外国の知識人が何を訴えてきたのか伝わってくる。

1966年(昭和41年)発行の「ベトナム研究会」編集による1冊の写真集『ベトナム』を手にしたとき珍しい本だと思った。

発行は当時社会党の国会議員であった楢崎弥之助氏。なつかしい名前である。

この写真集、縦25cm横40cmほどの一昔前どこの家庭にもあったアルバムのように重量感のある本だった。

発行年を振り返れば、ベトナム戦争真っ只中とわかった。


表紙をめくると、
「民族の統一を願って戦うホー・チ・ミン大統領」
「自由南ベトナムの指導権を担うグエン・カオ・キ首相」
のそれぞれの顔写真が大きく載っていた。
最後のページは「ベトナム民主共和国国家歌」と「ベトナム共和国国歌」も紹介されていた。
中身は南と北の状況を伝えるページ数が平等に振り分けられ、対等に理解しようという姿勢が感じられる構成になっているのがよかった。

まだ「イスラム」という言葉が時代のキーワードになる前のころだった。

アジア図書館のベトナムコーナーの書架は、かつてこの地で何が行なわれたかを語る気概を持っているように感じた。




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by far-east2040 | 2016-08-24 11:15 | アジア図書館

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ビルマ・インパール作戦とは第二次世界大戦中の1944年3月から7月にかけて日本軍が実施したインド侵攻作戦だった。

インパールというのはインドとビルマ(現在のミャンマー)の国境に近いインドの都市で、そこにあるイギリスとインドの軍隊の大きな基地を攻撃するのが目的だった。

3000m級のアラカン山系が横たわっていて、少数民族しか住んでいないような不毛の土地だったらしい。そこを疲れきった将兵が物資やトラックを運びならが越えようというのだから、正気とは思えない作戦だった。

物資の補給など圧倒的に不利な戦いで、全体的には10万人以上の犠牲者を出しているらしい。

インドとビルマの国境あたりの山道は日本軍兵士の死体が野ざらしになり、「白骨街道」と呼ばれるようになったという。

学校教育の歴史授業ではまったく扱わないし、よほど個人的な関心を持つ機会を得た人を除いてほとんどみな知らないと思う。

イギリスの若者の方がひょっとしたら、学校教育の場で学習して知っているかも知れない。

1950年に製作された映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』」に描かれた「インパール作戦」が実相に近いものであるときく。

私も高校までの歴史授業の中で教わった記憶がないが、この映画を観たことがあるので、多少イメージはできるようになった。


アジア図書館にはこの「ビルマ戦線」「インパール作戦」を知るための資料が少なくとも公立図書館よりも揃っている。特集記事になっている雑誌もあった。

こんなに揃っている図書館がほかにあるだろうか。


戦記とか軍隊用語に慣れていない私が少しずつ興味を持って読み始めたのがこの作戦だったので、思い出深い。


この地域は熱帯雨林独特の雨季があって、雨の記載に特徴があった。

まるでホースの先端から出てくるような太くて強い雨粒が降ってきたとか、バケツの水を上からバシャンとかけられるような降り方だったとか、日本では経験しないような雨だったらしい。

だから将兵はぬかるんだ道を行軍し、泥だらけになる。


とくに参考になった資料は次の3冊。


『責任なき戦場ビルマ・インパール(ドキュメント太平洋戦争) NHK取材班

この本はテレビで放映されたものを書籍にしたものだが、テレビのドキュメンタリーの構成がよくて、当時何回も観るほど気にいっていた。

初心者はこの本から読み始めたらいいと思う。


『インパール』  高木俊朗

この方はその他インパール作戦関連の本をたくさん書いている。



『兵は死ね ―狂気のビルマ前線―』 大江一郎

著者は劇団の脚本関係の仕事をしていたが徴集されて中国戦線からビルマ戦線に参加した。

よく帰ってこれたなと思うぐらいのすさまじい経験をしていて、撤退したあとの高級将校たちの宿舎にやっとたどり着いたら、箱の中から芸者の華やかな色の腰紐がたくさん出てきたという意外な内容を読んだ記憶がある。


因みにインパール作戦の部隊を指揮した有名な牟田口廉也中将はお気に入りの芸者をビルマまで連れていっている話はどこかで読んだ。


従軍慰安婦について書かれた本を1冊も読んでなくて、断片的な知識でしかないけれど、朝鮮半島出身の従軍慰安婦は主にこのビルマ戦線に連れていかれたように思っている。ほとんど生きて帰れていないんじゃないかな。


この著者は徴集前まで劇団女優と同棲していて、やっと戻ってきたら、彼女は生活のために米兵相手に仕事をしていて堕胎もするという悲惨な状況にあった。

著者のルサンチマンが滲み出ているような感じがしてこの本は好きだった。


あと、1943年(昭和18年)4月、教養社から発行された『ビルマ戦記』や同じ年7月に大日本雄弁会講談社から発行された『大東亜戦争陸軍報道班員手記ビルマ建設戦』などの変色した戦中の本も目に付いた。

こういう本は貴重なので、貸し出しはできない。
 
1953年(昭和28年)7月、富士書苑から発行された『秘録大東亜戦史ビルマ篇』がおもしろかった。朝日新聞、読売新聞、時事通信社、共同通信社の記者が実際従軍しての現地報告集になっている。

「インパールの悲劇」と題して共同通信社の記者の文章を少しだけ紹介する。

「袋の中の鼠と思いきや、敵陣には煌々と丸い灯がともる。無謀な進撃にわが補給は絶え、アラカン山中滅びに行く兵士たち、それは枯れゆく根無草の運命に似ていた……

こういう本がさりげなく並んでいるところがアジア図書館らしい。



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by far-east2040 | 2016-08-22 14:57 | アジア図書館


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アジア図書館の東南アジアコーナーの書架で一番好きだったのはベトナムコーナーで、次いで興味を持ったのはビルマコーナーだった。

1989年にミャンマーと正式に国名を変えているので、書物の題名もビルマとミャンマーが混在している。
具体的には発行年によって「ビルマ」「ビルマ(ミャンマー)」「ミャンマー(ビルマ)」「ミャンマー」と4種類の表記があり、この国の抱える政治的な事情を感じさせてくれる。

現在はミャンマー連邦共和国が正式名称で、首都は2006年にヤンゴンからネピドーに移っている。普段の呼称はミャンマーでいいのかな。

6割を占めるビルマ族を筆頭にたくさんの少数民族からなる多民族国家で、文字も○が横に並んでいくように見えて愛嬌がある。但し学習するにはハードルが高そうだ。


「ビルマ」ということばになつかしさを感じるのはかなり高齢の方になる。

「ビルキチ」ということばを知ったのも、このコーナーの雑誌からであった。

太平洋戦争中ビルマに駐留した若い日本兵が今でもこの国に強い思い入れを持ち、「ビルマキチガイ」を略して自分たちを呼ぶことばらしい。もうすでに死語に限りなく近い。


ビルマ戦線から戻ってきた元将校や兵士の方はほとんど亡くなっていると思う。

アジア図書館で体験談の講演をしていただいた元将校の方もすでに亡くなっている。
棚に並んだ1冊を示し、この本に自分の名前が出てくるといっていた。

この方も生活が落ち着いてからは、アジアの留学生と積極的に交流しながら、日本語講師をかなり高齢で亡くなるまでやっていた。


戦後よく読まれた『ビルマの竪琴』の主人公水島上等兵に会えるのもこのコーナー。
作者竹山道雄は当初この本を児童書として書いている。
だから公立図書館では児童書コーナーに並んでいるはずである。しかしアジア図書館はアジアを理解するための資料に大人用、子ども用に分けて考えないので、文学の仕切りで隣り合わせに並ぶ。


内容的には子ども向けだし、著者はビルマ戦線を経験していないところもあって、「実際はあんなもんではない」となるようだ。

大人は、死んだ兵士の野ざらしの骨をきちんと弔うまで帰国しないと決断した主人公に感動してしまう。

誰からも好まれる作品だったと思う。ちょっと「忠臣蔵」みたい?
 
で、このコーナーで一番目に付くのは、太平洋戦争の「ビルマ戦線」の体験記である。

この種の体験記の数でいえば、ビルマコーナーが一番多かったのではないだろうか。
文学の仕切りではなくて、社会科学系の仕切りで並んでいたように記憶している。

「ビルマ・インパール作戦」をご存知の方は多くないと思う。現在はほとんど忘れられつつあるように見受けるが、戦中戦後いろいろな立場から書かれたものが出版されている。
書架を眺めていると、一時出版ブームがあったのではないかと思わせてくれる。
どちらかといえば、奇跡的に生き残った将兵たちの体験談という形でまとめられているのが多い。 

悲惨すぎてまともに扱った映画化なんてできないと思う。

戦死よりも栄養失調による病死がほとんどだったのではないだろうか。

戦後まもなくの頃はビルマ帰りといえば、地獄を見てきた人間のように周囲から見られたという内容を小説で読んだことがある。

1990年代、終戦記念日あたりにこのコーナーの前で「無駄死っていわれてたまるか」とつぶやいたご年配の男性を覚えている。世間の論からいったん離れて、戦死についてや「靖国神社」のことを考え始めたきっかけだった。

それまではほとんど靖国神社のことには関心がなかった。

今振り返ると、戦死した戦友のことを思う気持ちはわかるけれど、亡くなった人には感情なんてないので、「無駄死」を認めてしまうと、生き残った自分が救われないのではないかと強ばった姿から想像もできる。


現在の靖国神社は生き残った者の心の負担を軽くしてくれる国家的施設と考えている。

とりあえずここまで。



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by far-east2040 | 2016-08-20 08:54 | アジア図書館

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著者イ・サンクム(李相琴)さんは1930年に広島で生まれ、15歳で祖国に帰国し、その後梨花女子大学で教鞭をとっておられた女性。
副題が「私が日本にいたときのこと」となっているように、宗主国日本で異民族出身日本人としてすごした多感な十代の少女の回想記である。

この女性が日本を旅するドキュメンタリーもテレビで以前観たことがある。

もし彼女の家族が帰国を決断しなければ、在日二世として現在の彼女とは少し違った生き方、思考様式を持った存在になっていただろうと思う。

この本は現在の韓国人の視点で率直に書かれているところがとても興味深い。
さらに、「記憶違い」もあるかも知れないが、知識人なので冷静に客観的に綴られていると考えると信頼できる。


しかし出版された当時は、児童書ということでなかなか手に取って読む気が起こらなかった。

勤めていたアジア図書館でも韓国・北朝鮮コーナーの文学の棚に収まっていた。こういう本はメディアも取り上げてくれやすかったこともあり、よく見かけた記憶がある。

なお、公共図書館では児童書コーナーに並ぶ本ではあるが、アジア図書館では一般向けと児童向けを分けないのでいっしょに並ぶ。


読んだきっかけは彼女が大分県で終戦を迎えていることを知ったことだった。

私の父方も大分県で終戦を迎えて、彼女の一家と同じように普通に暮らせた生活基盤を整理して帰国の道を選んでいる。
この本は父方の歴史を調べるための資料として手に入れた。

終戦の年から翌年にかけて、博多港で他の家族と帰国船を待つシーンのくだりは在日の聞き取りからは抜けている。

彼女より1歳若くて同じように帰国した叔父から、やはり博多港の倉庫のようなところでおにぎりを食べながら、帰国船を待ったと聞いていたので、ぴったり合う。
ちなみに著者とこの叔父の成長期における文化・言語環境はほぼ一緒と理解している。帰国を拒んだことも同じである。

この叔父はもう亡くなっているが、かつて知的世界へ誘ってくれた日本語への憧憬はずっと秘めて持っていたと思う。

尚、彼女の一家が戦中も広島にいたならば、原爆の被害から免れなかったと思うが、その辺のことはまったく触れていない。
 
私は総督府の植民地政策の一つであった「創氏改名」を調べるために名前を特に注意しながら読んだことがある。
戦後の在日が「通称」を使用する遠因が、宗主国日本で暮らし始めたときにすでに始まっていたことを再認識する機会を得た。日本で生きるときに、名前をどうしてすごしたかがところどころで率直に書いていてとても参考になる。原因は二者択一で考えるものではない。

彼女一家は帰国後「帰還同胞」と呼ばれて身のおきどころがないような立場になったようだ。


「当時、アメリカ帰りや中国・満州帰りの人たちは、その地で日本帝国主義に対抗した独立闘士や愛国の志士の血族ででもあるように、いばっていた。そのかげで、日本帰りの私たちは、長いあいだ、肩身のせまい思いをしたものだ。アメリカ帰りの人が英語をしゃべるのは、羨望の目で見られ、日本帰りは、子どもですら日本語をしゃべると叱られた。そして、朝鮮語を教えなかった親も非難された。」


学校に在籍していた叔父や叔母が直面したことばの問題、ことばができない子どもを連れて帰国した祖父母の苦悩を考えさせてもくれる本だった。



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by far-east2040 | 2016-08-17 12:48 | アジア図書館

祖父の過ぎ去りし日

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太平洋戦争が終結したとき、祖父は家族とともに大分県の国東半島にいた。
当時父は就職で朝鮮半島南部にいたので、祖母と旧制中学に在学していた叔父を筆頭に二歳前後の末弟まで含めた6人の子どもたちだった。

今こうして父の一家のことを綴っていると、祖父がどのような感慨を持ってこの日を迎えたのか訊いてみたかった思いにかられる。
「敗戦国にいる必要はない」といって引き揚げてきたと聞いているが。

国東半島は瀬戸内海を東に臨む地形で、広島に原爆が落とされた日、きのこ雲は見えたらしい。
当時地元の新聞をとっていた家なので、それが新しい大型爆弾だったことも知っていた。

父の納骨を終えて、ささやかな親族の会食の場で、歴史に興味があるので祖父に会いたかったとたどたどしい韓国語でいうと、父の境遇を知る親族にあってはことばがなくなってしまう。
場の雰囲気を変えるように、末の叔母は祖父は日本ですごした思い出話しをよくしたとなつかしむ。
「いい話? 悪い話?」
と私が興味津々で訊くと、
「いい話」と力の入った返事が返ってくる。
しかも「悪い話しのはずがないでしょ」といいたげな顔つきで。

私と一つ違いの従妹は、祖父にとっては身近にいた初孫にあたるのだが、
「いっぱい話し聞いた」とやはりありし日の祖父をなつかしむ。
祖父は酒が入って上機嫌になると、子や孫に思い出話しを披露していたようだ。
日常会話程度の私の韓国語能力では親族と深い話しができないし、今さら聞いても仕方がないと冷静に構えてもみる。

一方、父は自分自身よりもはるかに学識があったという祖父のことを、
「所詮、朝鮮人の子どもとしか見られていなかった」と宗主国ですごした若かりし頃の祖父の姿を率直に語った。


祖父はふるさとの書堂という儒教社会の旧教育機関で漢文を学習した人間なので、筆を持つとさらさら文字が書けた。
祖父のことを語る人の多くは「達筆」ということばで表現した。


国東半島での暮しを成り立たせたものは祖母の努力と才覚のたまものであることはまちがいない。もちろん祖父の少しばかり長けた商才もある。
さらにいえば、この漢文の読み書き能力のおかげで人から信用を得やすかったこともあるのではないかと想像している。

もしタイムスリップできるなら、60歳代ぐらいの祖父からぜひいろいろな話を聞き取りしたい。

解放後の混乱期に密かに日本に向かおうとする若き父の心情を見つけ、二人だけの場に導き、「自分は苦労したから、行かんほうがいい」と考えなおすように諭したという。
つまり展望が持てない大地に必死にしがみついている手を、その手を離すなと息子に戒めたという。

父の過ぎ去りし日の話の中では、多くの民衆と同じように、この時期が生きていくのに一番しんどい時期だったようだ。

さらに祖父との確執もあった。
 
祖父にとっても、普通に暮らせた生活を置いてきて、わざわざ引き揚げてきたことを悔いた時期であった。



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by far-east2040 | 2016-08-02 07:20 | アジア図書館

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現在のアジア図書館の蔵書は借りているフロアが狭いので、すべてを開架できていないらしい。
私はすべて開架された状態の蔵書を眺められた幸運者の一人だった。

では、アジア図書館ではどのように蔵書が並べられていたか。

とてもユニークですばらしいものだった。
 
まず本・雑誌・パンフ等は登録番号が授けられ、その国の書架に並べられる。
基本的には国ごとに、複数の国について書かれていたら地域ごとに日本図書館分類法に従い、蔵書が並べられる。
この並べ方はアジア図書館独自のもので、事務局長が中心となって作ってきたものである。


たとえばインドネシアコーナーの棚では、上から日本十進分類法に従い、

  • 0 総記 (情報学、図書館、図書、百科事典、一般論文集、逐次刊行物、団体、ジャーナリズム、叢書)
  • 1 哲学 (哲学、心理学、倫理学、宗教)
  • 2 歴史 (歴史、伝記、地理)
  • 3 社会科学 (政治、法律、経済、統計、社会、教育、風俗習慣、国防)
  • 4 自然科学 (数学、理学、医学)
  • 5 技術 (工学、工業、家政学)
  • 6 産業 (農林水産業、商業、運輸、通信)
  • 7 芸術 (美術、音楽、演劇、スポーツ、諸芸、娯楽)
  • 8 言語
  • 9 文学

と見出しをつけながら、このような順に並ぶ。


これが国ごと地域ごとだから、働いていた頃はなんと立体的な図書館だと思ってきた。
それぞれの書架からその国の個性が出てくるので、アジアの多様性にも気づかされる。

ベトナムコーナーとインドネシアコーナーでは並ぶ本が明らかに違っていた。

あるタイの留学生がタイコーナーの棚を見て「感激した」とだけ語り、あとはことばを詰まらせていた姿が印象的だったので、タイという国を例にしてみる。

書架のタイのコーナーでは、民族の歴史、地理、政治、経済にはじまり多分野にわたって収集されたものが並んでいる。さらに図録、特集雑誌、私家版、自費出版、同人誌など大学、公立図書館では見落とされそうな雑本も収集している。
 
有名なアメリカ映画「戦場に架ける橋」はタイを舞台にした第二次世界大戦中の捕虜の物語なので、文庫本の小説も映画パンフの類もこのコーナーに並んでいた。
分類は文学かな? パンフのような薄い冊子もアジア図書館には多い。

タイについてどのような文学作品があるのか読みたい調べたいと思えば、文学のところを探す。
日本人作家がタイを舞台に書いた作品や、タイ人が書いた文学作品の翻訳書が並んでいる。
タイの民話などを扱った絵本などもここに対等に並ぶ。

日本語の絵本は珍しいが、留学生からおみやげとしてタイ語の絵本をもらうといっしょに並ぶ。
アジア図書館では書かれた言語で分けない。

タイのシルクを世界に広めたアメリカ人実業家ジム・トンプソンの謎の失踪事件を、松本清張が独特の分析で推理小説にした『熱い絹』も並んでいる。
この本は個人的にとても興味深く読んだ思い出がある。

松本清張がタイを舞台に書いた珍しい短編がある。
題名は忘れたが、兵士だった男が戦後もタイにそのまま残り、現地で「酋長」のようなポジションについたのだが、日本から娘が会いにいくという話しだったと思う。

ストーリーに飛躍が感じられて、「こんな話も書いてるんだ」と思いながら読んだ記憶がある。
公共図書館では松本清張の著作の一部として棚に納まるが、アジア図書館はあくまでもタイの文学コーナーに並ぶ。
題名はたぶん短編集になるので、どうしてタイのコーナーに並んでるのか不思議に思う人もいるかも知れない。

これは短編集の1作にすぎない短編がタイを扱っていると判断して登録までした担当者の見識が高かったということだ。

日本の公共図書館のほとんどで使われている分類法は日本十進分類法(Nippon Decimal Classification,NDC)で、上記のように10分類に分かれている。

この分類法は、なんと1928年(昭和3年)に発表されて、何度も改訂されているけれど大枠は変わっていないと思う。


例えば文学はどうなっているか簡単に説明してみる。

  • 90 文学
    • 91 日本文学
    • 92 中国文学、その他の東洋文学
    • 93 英米文学
    • 94 ドイツ文学、その他のゲルマン文学
    • 95 フランス文学、プロバンス文学
    • 96 スペイン文学、ポルトガル文学
    • 97 イタリア文学、その他のロマンス文学
    • 98 ロシア・ソビエト文学、その他のスラブ文学
    • 99 その他の諸言語文学

とこのように分類されている。


いかに当時は西洋中心主義で作らていたかわかる。これは仕方がなかっただろうと私は思う。

さらに、各項目ごとに戯曲や小説などに細分化されていくのだが、ここで問題がある。
韓国の小説やベトナムの民話、インドネシアの戯曲、インドの詩などはどこに分類される?


答えは92の「中国文学、その他の東洋文学」が細分化されて929が「その他の東洋文学」になっていて、すべてがこの分類に入ってしまう。

このことだけでも、当時の日本社会がアジアのことを軽視していたことがわかる。

これは完全に時代の動きに遅れている。
しかし新しいものを作って現場の公共図書館で実施してくむずかしさもわかる。


実際の公共図書館では時代に会わない所は工夫されて、たとえばエッセイなら「日本のエッセイ」「海外のエッセイ」と分類しているところも私は知っている。



1928年当時はほとんどKOREAの枠組みで文学の存在が見えてなかったようだけれど、現在のアジア図書館のKOREAコーナーの文学には数多くの蔵書が並んでいる。北朝鮮の文学関連は少ないかも知れないが、韓国で発行された本の原書や翻訳書、在日コリアン側が表現する文学も増えている。


アジア図書館の蔵書の並べ方は従来の公共図書館の分類法に問題を投げかけている。



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by far-east2040 | 2016-08-01 06:52 | アジア図書館

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アジア図書館へ留学生たちが持ち込んでくれる本国のおみやげは楽しみだった。アジア図書館の棚や壁を飾る民芸品は彼らの寄贈によるものが多い。


共通しているのは民族衣装を着たお人形や、お面、民族楽器のミニチュア、テーブルセンターなどの布製品で、原色の布と竹や木を素材にするものが多かった。
これらの民芸品がアジア図書館をアジア独特の素朴でやわらかな雰囲気に包んでくれていた。
 
私が一番好きだったのは、どのような角度から見ても心をなごませてくれる小さなお人形だった。
休みを利用して帰省する留学生の方から「何か買ってきましょうか」と訊いてくれるときもあり、その場合は絵本や地図が日本では手に入りにくいのでお願いした。
絵本や地図は、アジア図書館の原書の蔵書として、日本国内にいるアジアの国々出身者に貸し出したり、語学スクールの生徒の副テキストの読み物として貴重だった。

私はベトナム語を習っていた時期があるので、ベトナムで買ったという簡単な装丁の小さな越日辞典を講師からもらったことがある。何冊かはアジア図書館に寄贈してくださった。20数年前には越日辞典は貴重なものだった。大手書店でもなかなか並んでいなくて、見つけてもかなり高価だった記憶がある。今はどうだろうか。


また講師がベトナムへ帰省した折には、アジア図書館の蔵書用に絵本も買ってきてもらったが、日本ではもう見ないようなざらざらした紙質のものだったと記憶している。日本の色彩豊かで上質の紙でしっかり製本された絵本と比べたら見劣りするものだが、それはそれでいろいろなことを考えさせてくれた。


因みにアジア図書館では蔵書については大人用と児童用に分けていないので、絵本などもベトナムの文学の翻訳物や解説書などといっしょに文学というジャンルで並ぶ。書かれている言語も分けないので、日本語、英語、ベトナム語で書かれた本がいっしょに並ぶ。


もしアジア図書館をしっかり運営していこうとするなら、英語は必須でアジア各国の公用語ができるスタッフが求められると思う。

こういうブログを書いていると、アジアの民芸品の写真がほしくなって、気軽に撮影させてくれるような施設を探してみたのだが、案外所蔵している場所がない。
アジア各国の民芸品を数多く所蔵して飾っているのは、実は大阪にあるこのアジア図書館だということを再発見した。

それも余裕のある資金で購入してきたものではなく、善意でアジア各地から集まってきたものだ。

珍しいもの、貴重なものが所狭しと飾られているはずだ。

重ね重ね広いスペースがほしいところだ。







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by far-east2040 | 2016-07-31 07:52 | アジア図書館