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              韓国ドラマ「黄金時代」のオフィシャルサイトより借用

戦中、日本の銀行との確執で民族系銀行の頭取であるチェフンは苦悩の日々を送っていた。
そんな時に、彼がカンチョルに「親日派(韓国語でチニルパ)ではない」という内容のセリフを語っていたシーンが印象に残った。

いい意味合いでは使われていないことを再確認した。

日本語の「親日」ということばには、ほとんど悪いイメージはない。

韓国語の「親日派」は日韓併合以来「反民族的な響き」を伴うことは免れていないようだ。
定義がむずかしく、あいまいなまま使われているような感じもする。

簡単にいえば「日本の植民地行政に対して協力的な立場をとった政治家、軍人、知識人、文化人、官公庁の役人など」となるのだろうか。

確信犯もいただろうが、「協力的な立場」にいることの葛藤は大なり小なりあったと思う。
現在の韓国でも「親日派」の罪を問う法や風潮があるらしい。詳しいことはわからないので、ここまで。

戦中の面事務所に勤める下級官吏の末端だった父も、いつのまにか親日派と呼ばれるグループに属する人間であることに気がついた。

当時健康な日本人男子は戦地にいっていたので、面事務所では管理職だけが日本人で、他は現地採用の朝鮮半島出身者が多かったという。

この管理職の日本人は戦地に行かなくてもよかったのだから、45歳以上の中年になると思われる。

父の周辺では、思想を取締まる刑事も朝鮮半島出身者が担っていたという。
因みに父が面事務所に着いた初日に、この刑事から「思想」を調べるために徹底的な持ち物検査を受けたらしい。
こういう人たちとともに「親日派」と呼ばれていた。

戦中の徴用については、父の周辺では親日派と呼ばれる人たちが中心になって担っていたようだ。このあたりはデリケートな問題になると感じている。


この徴用はどうしても「強要」になってしまう。日本本土では健康な男子は戦地に行き、女・子どもは軍需工場に動員されて、本土決戦に備えて準備がなされていた時代だから、朝鮮半島出身者の徴用先はより労働環境の悪い炭鉱あたりだということはわかっていた。
「お国のために」と自ら積極的に動員されることを望む朝鮮半島出身者はほとんどいなかったというのは、少し想像力を働かせれば当然のことだと思う。


この徴用(強制連行というやや強い表現をする人もいる)で日本に来た人の手記をいくつか目を通したことがあるが、実際に誰に寝ているときや働いているときに無理やり連れて来られたかということを書いていることはほとんどなかった。

言いにくかったか書きにくかったのではないだろうか。

これは親日派と呼ばれた朝鮮半島出身者だろう。管理職がこんなことはしないだろうし、現場でこんなことができる日本人男子はとっくに戦地に行ってるはず。


父は一度だけ徴用のために男を連れ出す現場を目撃している。

夜間に新婚家庭の寝込みに入り、男を連れ出したと。

親日派と呼ばれる人たちがやったのだが、まだ若い父は現場の見張り役をさせられたらしい。

この記憶を父はずっと抱えてきたと思う。

おそらくこういう話題に興味を持っていた私にしか話していないのではないか。


こういう話を聞いている頃は慰安婦についてもニュースで話題になっていたが、慰安婦の件は父の記憶にはないと語っていた。

しかし元慰安婦の証言をする老いた姿をテレビで見ていると深く同情し、「誰か証言してやったらいいのに」といっていた。

こういうことを証言するために表に出てくるのはかなりむずかしいし、おそらく解放後の混乱期や朝鮮戦争ですでに命を失ったと思える。


話を戻すと、1945年8月の解放後、「親日派」に属していた父ではあったが、末端の技術者だったことと「人の供出」に直接は関わっていないということで、身体的な迫害はまったく受けていないといっていた。


父の身体検査をした刑事はおそらく徴用にも濃厚に関わっていたのだと思う。解放後すぐに公開の裁判のようなものにかけられて大変だったらしい。逃げてもどこまでも追求するぐらいの恨みは買っていたらしい。

父から聞き取りをして発見したことは、解放後、身の危険を感じた人は人の供出に直接関わった親日派と呼ばれる朝鮮半島出身者だったということ。


その一方で日本の植民者やその家族は周囲から「かわいそうに」といって同情を寄せられながら、整然と帰国していったらしい。

父は何も悪いことはしていないけれど、解放後は過去の経歴を語ると、「親日派か」と特別視される傾向はどこまでもついてまわったという。

チェフンのセリフから父の「生きにくさ」を発見した。


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by far-east2040 | 2016-10-03 23:23 | 父からの聞き取り

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ドラマの中で背景として時おり写る遠景の山の姿を見て思うことがあった。

朝鮮半島にも山の幸をもたらしたり、人が隠れたり、または虎が出てくるような鬱蒼と茂る山ももちろんあるだろう。

そういう山を背景にした民話や絵本を見たことがあるし、徴兵制に反対する若者が山に逃げたという事実もある。

しかし、ドラマだけを観ていると、主人公の子役時代も戦中時代も木々が豊かに生い茂る山が登場するシーンが少なかったように思う。

若い頃読んだ本の中に、韓国の釜山の町の背景に写る山肌を見た日本人識者と在日か韓国人の識者の会話があったことを思い出した。
日本人の識者が日本の山と違って「はげ山」であることを率直な感想として口にしたので、「植民地時代に伐採されてしまったから、こうなってしまったんですよ」というような内容で返すと、その日本人識者は何もいえなくなったというようなくだりが、哀感を帯びた文章で書かれてあった。

これを読んで、私も「そうなんだ」としみじみとした感慨を持ったものだった。
もっと時代を遡ったころに似た話しを亡くなった父から聞いていたので、確認したような感じだった。

父も「韓国の山がはげているのは、植民地時代に日本が木を切ったかららしい」という不確かな伝聞を語ったことがある。
父は経歴からこういう論調には傾きにくい傾向があって、半信半疑で受け止めていたように見えた。


ドラマを観て、はげ山の伝聞は狭い世界で流布した「誇張された情報」ではなかったかと再考する瞬間を持った。

植民地時代、朝鮮半島から日本に持っていかれてしまったものはあると私は考えている。
これは揺るがない。

日本人なら「お国のために」と多少の例外があるにしても、気持ちよく差し出せたかもしれないが、朝鮮半島出身者は神社参拝や宮城遥拝、日の丸掲揚というような様々な方法で忠誠を強制されても、日本人が到達した程度の精神を持つことはできなかった。

もちろん朝鮮半島出身者にも親日派と呼ばれた文化人や知識人のような例外があった。しかし反日の立場をとる人はもちろん普通の庶民の感覚でも持っていかれたとなると思う。

話を戻すと、「はげ山」になっている理由を100パーセント日本の植民地時代のせいにするのは、科学的ではないことはちょっと考えたらわかるのにと今思う。
36年間でどれだけの伐採事業がやれるかな。

木材の需要があるとすれば、鉄道の枕木? と素人は考えてみるが。

日本の高度経済成長期以来の急激な家具や住宅の需要をまかなうためにインドネシアなどの森林破壊が問題になったことがあるが、これと比べても無理があると思う。

気候風土、きびしい冬を越すための燃料、植林意識、朝鮮戦争、などの要因もあると思うのだが。

現代よりももっと感情的なしこりを強く持っていた人が多かった時代、複合的な要因を考える余裕が持てなかったこと、特定の思考へ傾く勢いがあったことをちょっと振りかえることができた。



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by far-east2040 | 2016-10-02 15:54 | 父からの聞き取り

族譜

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韓国語では「チョッポ」と発音する。
 
父系血縁集団である宗族の重要な人物の事績や重要な事件や家訓などを記載した文書である。
中国が発祥で朝鮮半島も影響を受けて作られたもので、15世紀まで遡るらしい。

15世紀に何かあったんだろうか? それとも16世紀ぐらいに出自を明確にしようという運動が地方であったのだろうか?
 
私が育った家にも「族譜」があった。
かんたんにいえば、中祖の偉人を同じとする一族の家系図やそこに連なる男系男子の個人情報である。
最近のものは、時代の変化を受けて、女子の情報も載るが、家系図には連ならない。 

これは韓国にいる親族が、アイデンティティ確立の一助にと考え、好意で父に贈ったものだった。
電話帳のような厚さの本が10数冊並ぶもので、1メートルは超える。1冊1冊の背表紙がしっかりしているので、立てても倒れにくい。
しかし狭い部屋に置くには存在感がありすぎて、息苦しささへ感じてしまう。
 
儒教世界に片足は置いていた父なので、一応男系男子の名前を確認しながら、一族の検証はしていた。
歴史に興味があるという点では私がその傾向を持っていたので、いろいろなことを聞いた。
女子である私には関係ないが、行列字という一族が世代ごとの男子につける名前も父から聞いていた。
 
私は親族のことをあれこれ調べる際、とても便利な資料として2冊だけ手元に置いていた。
最新のものが作成されていることは聞いていたので、父が亡くなったときの身辺整理の際、残りは処分した。
日本でいえば、赤の他人の個人情報を保持するメンタリティーがないからである。
あくまでも資料として私は保持していた。

つい最近その2冊も大事な情報だけをノートに抜き書きして、処分してしまった。
 
在日の方で「自分は
○○中祖から○○世だ」「ルーツは新羅の○○王」という表現を他人になさる人を見かけたことがあるが、ちょっと恥ずかしい。
「それがどうしたん?」と思える感覚の方が日本社会では健全だと思う。

といっても、在日の方ももう世代を重ねてきて、こういう朝鮮半島由来の出自を語る習慣はほとんどなくなってきていると思う。

北朝鮮では建前としては封建制度を否定しているので、こういう習慣はほとんどないと読んだことがある。

よくは知らないので断定できないけれど、韓国の伝統文化としては現代も生きているように思う。
お見合いとかで重要な情報になるのかしら? そうでもない気もする。
とにかく日本に持ち込んで他者にひけらかすことには違和感があるということである。

日本ではそういう情報に価値を置く人はほとんどいない。
 
私の名前も女子にもかかわらず記載されている。これは韓国にいる親族が生年月日は定かでないが、名前だけは載せておきたいという配慮がなされた結果である。
 

韓国で族譜を保持して家で飾る慣習は、日本でいえば床の間の置物とか掛け軸へのこだわりと似ているように思う。または節句に飾る雛人形、鎧兜?

あくまでも保持していることに価値を置いている感じがする。

日本では15世紀までさかのぼる家系図を持っている家庭はほとんどないと思うし、先祖で社会的に出世をした人物を特別に顕彰する伝統もない。


最近山口県の名門の大内氏の先祖が百済の○○王だという情報を知って、その家系の辿り方が朝鮮半島の慣習に近いものを感じて、地理的になるほどありえる話だと思った。


むかし、たぶん私の前だから話題にしたかったのだと思う。九州出身の男性から母方の先祖は庶民に一般化する以前から苗字を持つ家柄で朝鮮半島の貴族に辿れるという珍しい話を聞いたことがある。これぐらいしか直接人と出自に関する話題をしたことがない。

これは部落解放運動の功績だろうか?


こういうことがはっきりくずれるのは、やはりroyal family周辺の婚姻の時だと思う。


日本で儒教的慣習からほとんど自由というか放ったらかしの環境で育ったので、儒教から完全に離れてしまった。
族譜から抜き書きしておいた情報も不要のものになってしまうのも時間の問題だろう。



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by far-east2040 | 2016-08-29 16:13 | 父からの聞き取り


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在野の女性史研究家であり作家でもある森崎和江さんが書いた『慶州は母の呼び声』という本を興味深く読んでいたときがあった。

1991年筑摩書房から発行された文庫本だった。

姉妹編のような『こだまひびく山河の中へ』という戦後の韓国への訪問記も後半部に収録されている。

この本は、森崎さんの戦前の朝鮮半島での回想記なので、私にはすべてのページの一字一句が貴重な資料となり、父からの聞き取りの内容を検証するのにも便利だった。
 
森崎さんはその他に日本の女性史に関する著作も多いので、書いたものはすべてアジア図書館の蔵書になるはず。

私が若い頃運営に関わった民間のアジア図書館では被差別者としての「女性」というキーワードでも蔵書を蒐集している。

著者紹介より抜粋する。

「1927年、日本統治下の朝鮮慶尚北道大邱に生まれる。1944年、帰国。福岡女子専門学校卒業後、筑豊に住んで創作活動を始める。主著に『まっくら』(三一書房)『ふるさと幻想』(大和書房)『悲しすぎて笑う』(文春文庫)『からゆきさん』(朝日文庫)ほか多数。」
 

森崎さん現在89歳!


「からゆきさん」という存在が知られるようになった頃、からゆきさんについては他の女性作家も書いているけれど、この方の書いたものが一番好きだといってた人がいた。

私はそこまでいえるほど読み比べていないけれど、「からゆきさん」以前に存在した地方のコミュニティにおける性に関する慣習にまで遡って書いていたところに感服した記憶がある。


現在の慰安婦の問題についても、こういう女性史の見識が高い女性にしっかり書いてもらうとよかったように思う。できれば韓国人女性の方がいい。
そこにいくまで時間をかける前に政治や外交問題にすり替えられどうしようもない状態になっている感じがする。


で、この本は彼女のお父さんがヒューマニストで朝鮮人のための中等教育機関の教員だったこと、すごした時期が多感な少女時代だったこと、後年女性史への関心を深めていく作家になる資質を持っていたことで、独特の視点を持つ作品になっていると思っている。


私の父は植民地下の朝鮮半島をわずかな期間すごしているのだが、そのことがとても貴重な体験に思われて、亡くなる前に積極的に聞き取っておいた。たとえば大邱という町に触れる際、父は「りんごのおいしいとこやった」になり、森崎氏は

「八十連隊のある町。りんご園のある町。大邱はそのようにいわれていた。」

と綴っている。


父は朝鮮半島南部の大邱という町の近くで就職したのだが、日本の兵力不足を補うために1944年4月に朝鮮人に徴兵が施行された前後だった。1944年9月には国民徴用令や徴兵が適用されることになっていた。


父は最初は小さな旅館で寝泊りしていたらしいが、ある日旅館が夜中に火事になり、かろうじて逃げて命は助かったらしいが、旅館は丸焼けになってしまった。

父のあの時死んでいたかもしれないという語りの1つでもあった。


この話は最初聞いたときはさほど気に留めなかったが、森崎さんの本からもう一度考えてみた。

この本によると、森崎さんの教員をしていた父親は、徴兵を忌避して山へ逃げ込んだ朝鮮人生徒たちを探し出すためにある夜遅くに学校側から呼び出された。

留守を守っていた森崎さんは裏口に気になることがあって外に出てみると、何かが燃えていてすぐに消し止めた。森崎さんは父親が心配するといけないから、そのことは黙っていたという内容だった。


これは放火である。実は父の泊っていた旅館の夜中の火事も放火で、面事務所で「親日派」として働き始めた内地日本から来た父への殺意による行為と思えなくもなかった。

このように父の記憶と森崎氏の記憶に小さな重なりを発見することが多く、私にはよくぞ書いて残していただいたと感謝したい作品である。



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by far-east2040 | 2016-08-16 15:03 | 父からの聞き取り

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オードリー・ヘップバーン主演の映画『尼僧物語』は1959年製作のフレッド・ジンネマン監督による古いアメリカ映画。
1920年代のベルギーが舞台で、カトリックの宗教行為に従事する人間の内面の闘いを終始描き、最終的には「祈りの生活」から「具体的な行動」を選択していくのだが、そこにたどりつくまでの葛藤の連続が描かれる。

ちょっと暗い映画ではあったが、生き方を考えさせてもくれる。

オードリー・ヘップバーンといえば、華やかなファッションに身を包んで登場し恋をするヒロイン役が多かったことを思えば、ほとんど修道女の服で通したこの映画はとても地味な作品だと思う。
それだけにこの女優の顔立ちの美しさが映えたし、顔の表情を基本にした演技力も際立つ。
後年の人生におけるアフリカへの関わりはこの映画の影響ではないかともいわれている。

原作はキャサリン・ヒュームという女性作家。
最初はご自分の体験談かなと思ったのだが、そうではなくて、実際のベルギー人の還俗した尼僧の体験を聞き取りして書いた小説とのこと。
原作は日本では絶版になっているが、映画よりももっと背景がわかるらしい。


医師の娘であるヒロインは、恋人とも別れて厳しい修行を積んで、最終的にはベルギー領コンゴに看護婦として派遣されることを望む。

やがてコンゴで看護の奉仕をする中、結核にかかる。ここで彼女の働きを評価する医師から献身的な治療を受けて復帰する。
さらにこの医師からからかい半分に「今まで見てきた修道女と違う、この世界に向いていない」と指摘され、ひそかに心乱れる。
この映画には「恋の駆け引き」は一切ないけれど、このあたりのシーンがそれに近いものを連想させてくれる。

で、ベルギーに戻ってきて、しばらく医療施設で働いていたときにパルチザンの関係者でもある若い女性と接触するシーンも画かれる。

「あなたはこういう働き場で求められる人材ですよ」という感じで。
やがてベルギーもドイツ軍に占領され、なおかつ父親を殺されてしまう。ヒロインの内面は一層揺さぶられる。
ついに修道院を出て、パルチザンと連絡をとるだろうなと思わせるシーンで終わっていく。

この映画も原作もカトリックへの批判がテーマではないが、問題提起と解釈できそうな雰囲気はある。出版されたときは話題になったらしい。

私はこの映画を振り返ると、誰の人生も、ある時期からは「葛藤を経て、自分で選択する」という行為のくり返しであることに気づく。
葛藤
選択解釈新たな葛藤選択解釈さらに新たな葛藤……という感じ


話は変わるが、この映画は洋画好きの父親が特に好きな映画でもあった。
今のようにテレビで放映されたものを録画する方法がまったくなかった昭和の時代。
夜中によく洋画が放映されていて、見たいときはその時間帯まで起きて観るしかなかった。

父もみなが寝静まった夜中に一人起きて観ていた。


父は戦中の後半は朝鮮半島南部の山間部の面事務所に籍を置いて働いていたが、このポジションは「親日派」と呼ばれていた。

仕事自体は戦場から遠く離れた農村で、農業指導するというのんびりしたものだったらしい。
朝鮮半島は空襲もなかったし、ぜいたく品はなかったかもしれないが、飢えることもなく徴兵免除も受けていて恵まれていた。


この当時は内地日本と同様、アカの思想や反日帝イデオロギーの弾圧は厳しくて、そのような活動は表だってできないので、「地下」に潜っていた。

父は数回程度ではなくて何回も「地下」活動している人が接触してきて「自分たちの仲間に」と誘われていたらしい。

まだ若いのにこんな日帝の協力者のような仕事ではなくて、われわれといっしょに」という感じだろうか。

このとき初めて「キムイルソン」という名まえを聞いたらしい。

「キムイルソン将軍ががんばってるから」と自分たちの活動に参加するように説得もされたと。

父は精神的な苦痛を感じながら仕事をしていたので、かなり葛藤はあったと思う。

「何度も何度も誘われた」と。


父が「地下」活動に加わらなかった理由を私なりに整理すると以下になる。

① 両親や弟妹が内地日本にいた。

② いわゆるアカの思想なんて知らなかったし、まったく興味関心がなかった。
  どちらかといえば、情で動くタイプだった。

③ 戦中末期、徴兵検査を受けたときに「尼僧物語」の主人公のように結核を宣告されていた。たまに血痰を吐くぐらいで通常の生活を送っていたが、周囲からはもうすぐ死ぬ人間と思われていた。

④ 朝鮮語をまったく話せなかった。朝鮮語ができない人間が朝鮮半島での「地下」活動なんてできるはずがないし、そのことで疎外感もあったと思われる。

というわけで、朝鮮半島の山間部の面事務所で働く「親日派」の末端として8月15日を迎えた。
父にとってはまた新たな苦悩の始まりだった。

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by far-east2040 | 2016-08-14 13:17 | 父からの聞き取り

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この記事のオリジナルを書いていたのは、春にお墓参りのために韓国へ行く準備をしていた頃だった。

日付を見ると、なんと2011年3月11日。

書いて旧ブログにアップした後、あの東北大震災を知ったことになる。

そのために以前考えていたことは吹っ飛んでしまった。それからしばらくテレビに釘付けになり、何も考えられないような落ち着かない日々が始まった。

あれから6年たって、震災で得た死生観のために、やっともう一度考えて書いておきたい気持ちになってきた。


父は1925年生まれなので、昭和の年代がそのまま父の年齢ととれるので、何かと考えやすかった。
18歳ぐらいで朝鮮半島南部の大邱という町に近い所で就職し、20歳で祖国解放を迎えている。
わずか2年ほどの短い期間、山間部の面事務所で農業技手という立場で働いていたが、いつのまにか周囲から「親日派」と呼ばれるようになっていた。

父が初めて面事務所に着いたとき、すぐに刑事が近づいてきた。
この刑事は日本人ではなく朝鮮半島出身者だった。
こんなところで刑事をやれる日本人男子なら、とっくに戦地に赴いていたはず。


この刑事から何者であるか根掘り葉掘り質問攻めに合い、

「創氏改名してるか? ここでは創氏改名してなかったらだめだよ」

という内容で確認してきた。

さらにその日泊まることになっていた旅館にまでついてきて、ボストンバッグの中身を全部出させて1つ1つチェックまでされた。

どうやら父の思想を所持品で確認しようとしていたらしいが、父は当時マルクスという言葉も聞いたことがないような青年だったし、あやしいものは所持していなかったので無事に済んだとのこと。

因みに戦局が悪くなっていたので、朝鮮半島にいる健康な日本男子は戦地に行く時代だった。面事務所で働く人は7:3ぐらいの比で朝鮮半島出身者の方が多かったらしい。日本人はほとんど管理職だったという。
父は内地日本育ちで日本語しか話せないので、仕事を離れても主に日本人の同僚と付き合っていたという。

仕事は農村をまわって収穫を上げさせるための助言をするのだが、言葉ができないので現地の通訳をつけてもらっている。周囲は内地の日本人と思っていた父が、実は朝鮮半島出身者であることがわかると、言葉も文化も知らない青年ということで「かわいそうに」とさかんに同情されたらしい。

微妙な立場で精神的苦悩を胸に秘めて2年間をすごした人であった。しかし戦地や徴用先の苛酷な現場と比べたら、はるかに恵まれた環境だったはず。
こういうブログを書いていると、生前にもっといろいろなことを深く聞いておけばよかったと後悔している。

そんな父が見た当時の朝鮮半島について、聞き取りからかんたんにまとめると次の2点になると思う。あくまでも父の遠い記憶であり、聞き取った私の判断も入る。
 
大和民族以外は劣等民族として扱われた。

父の給与には大和民族の日本人なら付いていた6割増しの「外地手当て」が付かなかったし、昇進もあきらかに阻まれていた。自分よりも明らかに現場処理能力が劣っている者が、目の前で昇進していく悔しさを体験している。これは私がかつて目撃した日本社会にある学歴差別の実態とよく似ている。

戦争が終わったとき、父の周辺の日本人はまったくといっていいほど朝鮮半島出身者から危害を受けずに帰国していった。「あれだけ押さえられていたのに」と当時を振り返り、大らかな民族性に感動したと語っていた。
これは戦争末期、現場で実際に手を汚したのは、「親日派」が多かったことも関係しているように私は考えている。

日本は朝鮮半島で悪いことばかりしたとは写らない。

いいこともしているという。「これだけはいっておきたい」ということで、朝鮮半島の近代化を促したのは日本だと断定していた。
残念ながらいいことの中身を具体的に聞き出すことはできなかったが。
「植民地時代、日本は悪いことばかりした」というような感情的な主張や論調を嫌っていた。




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by far-east2040 | 2016-08-10 14:28 | 父からの聞き取り

祖父と協和会

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祖父が日本にいた20年ほどのことを語るとき、協和会という団体について触れないわけにはいかない。
協和会というのは戦前戦中に日本在住の朝鮮半島出身者を対象に組織されていた官製の団体なので、当然現在の在日の団体や研究者からの評価はいいものではない。

むしろ同胞を抑圧するもの、または民族性を抹消することに積極的に加担したと捉える人もいる。


私は「協和会」ということばを知ったほぼ同時期に祖父も係わっていたことを知ったので、無碍にこの団体を非難することはできなかった。

祖父は大分県の国東半島に1930年代から定住していた。
そのためAB町の協和会支部の1940年代の発足時から役員をさせられてきた。
戦前の日本人がみななんらかの戦争協力にすすんでいった時代、祖父も朝鮮半島出身者の立場で戦争協力に巻き込まれていったということである。
 
私は1992年発行の『私の見て来た大分県朝鮮民族五十年史』を読んだことがある。
著者は1921年朝鮮半島で生まれ、1943年徴用で熊本県荒尾三井鉱業で産業報国隊として働き、戦後大分県に住むようになった人である。

北朝鮮を支持する立場をとっており、著書にもはっきりと思想的立場が反映されているが、戦前については当時の大分合同新聞記事を中心にまとめてあり、私のように戦前の状況を知りたいと思っているものにはとても貴重な資料となっている。

この本の戦前編では、4分の1ページを使って協和会についてまとめられている。この団体は「皇民化政策」の実行組織として、朝鮮半島出身者に少なからぬ影響を及ぼしていた。
「仕方なしにやっていた」というぐらいで、父も積極的に語ることはなかった。

韓国にいる叔父の一人と手紙でやりとりをしたことがある。

「どんな家でした?」という問いかけに、「特高刑事が出入りする家だった」と返事があり驚いたことがある。

「特高」はあの時代の社会主義思想や自由主義思想を取締る刑事で、人々から恐れられていたのである。十代の叔父はそのことが強く印象に残っていたのだろう。

さらに祖父が協和会から福岡の炭鉱に「報国隊」として短期間赴いている間は、家を留守にしていたと語っていた。

決して若いとはいえない祖父が福岡の炭鉱に入った時期は、18歳ぐらいの徴兵適齢の父が朝鮮半島に就職で帰った時期と重なる。

その頃特高刑事などがさかんに家に出入りして、叔父は祖父から目立たないようにじっとしておれといわれていたらしい。

祖父の福岡の炭鉱入りもひょっとしたら何らかの報復とかいやがらせの類ではなかったかと今振り返って思う。

祖父が戦後すぐに結成された「在日本朝鮮人連盟」の地元のリーダーの一人になり、帰国を希望する同胞の世話を精力的にしていた後ろ姿を叔父は記憶していた。

叔父は韓国人なので、「朝鮮」ということばにはデリケートな感情を持っていて、手紙では当時はすべての朝鮮半島出身者を「朝鮮人」といっていたと但し書きを書いていたことを覚えている。

この戦後まもない頃に結成された在日本朝鮮人連盟のことを自然発生的に結成されたという文面をどこかで読んだことがあるが、あの混乱時期に自然発生的はないと思う。

協和会の枠組みがそのまま水平移動して結成されたと表現した方がいいのではないか。

B町を最後に出た」と書く叔父の文面から、一度も会うことはなかった祖父ではあるが、その生き方は立派なものだと思う。



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by far-east2040 | 2016-08-07 20:57 | 父からの聞き取り

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祖父が日本へ出稼ぎ労働のために日本に行ってしまったあと、祖母は父を出産している。
祖父からの仕送りや便りはあったのだろう。それをあてにしながら、祖母は自らも父を連れて祖父と合流する機会を待っていた。
父が語る自らの母の印象は「発展家」「進取の気性に富む人」だった。

祖母が一刻も早く故郷を出ようとしていた理由がもう一つある。
祖父は次男であった。長男夫婦は自分たちの親の家にそのまま同居していた。

祖父は結婚後自分たちの「祖父の家」に同居することになった。

その家に妊娠している祖母を置いて出稼ぎに出ている。

しかし「祖父の家」は跡継ぎの子どものいない家、そして子を残そうと努力した家だった。
だから「祖父の家」には族譜に記載された二人の配偶者のうち、1943年まで生きた配偶者だけがいた。

「後妻、第二夫人、妾?」と表現されるその女性と祖母と生まれたばかりの父が起居していたことになる。
たいていはうまくいかないもの。
祖母は生活苦だけでなく、「祖父の家」での息苦しさをかかえていた。

祖父が故郷を出て数年たったころ、祖父からの便りに日本に来るようにと書かれた文面とお金と面(村)の警察で渡航証明がとれるための何らかの書類が同封されていたのだろう。

祖母と父と祖父と同行した青年の妻の3人は、渡航希望者で混雑する釜山から連絡船に乗った。父は二人の女性に代わる代わるに抱かれてきたような記憶がかすかにあるという。
それはいつかというところでは、韓国の親族は父が2歳というが、父は自分が3歳ぐらいという。私は1928,9年(昭和3、4年)あたりと考えている。

釜山港から出た連絡船は下関港に到着したのだが、祖母たちがそこから自由に動けたとは思えない。下関港で合流して、その後夫婦として行動を共にしただろうと想像している。


初期の一世の渡日背景は、土地調査事業などの植民地行政を遠因とする故郷での生活破綻ということでみな似ているが、それとは別に個々の家の事情も渡日へと促したというふうに私には見える。




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by far-east2040 | 2016-08-06 15:58 | 父からの聞き取り

祖父の渡日事情ー今治市

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祖父が日本で最初に働いたところは愛媛県今治市らしい。1925年前後。
肉体労働だったと聞いているが、どんな仕事だろう。
父は今でいう土木建設作業だろうと推測していた。

この地で朝鮮半島から安い労働者を使わないとこなせない労働需要があったのか。そこで手配師が募集するために慶尚南道の山間部まで来た。
一世の男子の聞き取りでも、「建設関係の土木作業」を口にする人は多い。
では、当時今治市で生じた土木建設労働需要は何だろう。

ネットで調べていると、今治市で発行された『今治港80年のあゆみ』という地域資料が今治市立図書館にあることがわかったので、近所の公共図書館を通じて借りることができた。

公共図書館で蔵書の貸し借りができるシステムのおかげで、その土地に行かずとも読みたい本が借りることができた。

この資料によると、今治港の築港工事が、明治から大正・昭和にかけてさかんになされたことが書いてある。今治港が飛躍的に発展していった時期だった。

明治43年、今治尾道間鉄道連絡船就航
大正9年  港湾修築第一期工事着手
大正11年 今治港が四国唯一の開港場に指定される
大正12年 第一期工事完成
       引き続き第二期工事が向う9ヵ年継続事業として着工される
昭和9年  第二期工事完成

祖父は大正15年生まれの父が生まれる前に、故郷を離れている。
私は今治港第二期工事に関係する土木建設作業現場で働いただろうと考えている。
そこでは祖父たちと同じような立場の朝鮮半島出身の男子が多くいたはずである。

祖父はそこでいろいろな情報を得ながら、しばらく慣れない肉体労働に耐えたのだろう。
祖父はまだ二十代前半の若者だった。

と、こういうことをネットでも調べていたときに、新たにわかったことがある。
現在、四国各県の自治体が韓国の慶尚南道陜川郡と姉妹都市の関係を結んでいるケースがいくつかある。理由の一つに陜川郡出身の在日コリアンが多いということを挙げていた。一つの流れがあったんだろう。

叔父の一人はこの今治市で生れている。祖父たちはその頃は九州各地の木賃宿を渡り歩く行商だったと聞いているので、祖母が出産するために女手が期待できる今治市に戻り出産したと考えられている。戸籍ではこの叔父も他の叔父や叔母もみな国東半島で生れていることになっている。

この叔父は「日本に行ったら、一度今治市は生れたところなので行ってみたい」といってたが、決して国東半島とは言わない。15歳で帰国してるので、その地に置いてきたものが大きかったのではないかと想像した。



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by far-east2040 | 2016-08-05 17:08 | 父からの聞き取り

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手元にある家系図のような情報が書いてある族譜を見れば、祖父と同行した青年はどちらも次男であることがわかる。
儒教の伝統が強い社会にあって、宗家としての役目を担う長男でないことが、私には意味深く思われる。


祖父とこの青年は族譜上では12親等の関係である。しかし祖父の父は養子なので、実際は父親同士は従兄弟なので、お互いははとこいうもう少し近い関係であることは父から聞いていた。
族譜を眺めていたら、こういう事実がリアルにわかってくるからおもしろい。
 
因みにこの同行した青年は、ある時期から祖父と行動を共にすることはなく、戦後もそのまま日本に残って亡くなっている。族譜はその事実と息子たちの名前のみを記載している。


祖父は終戦後まもなく帰国する準備を始めたのだが、あの混乱期、同行した青年家族とは連絡を取れずに終わった。帰国してからもそのことが気がかりだったのだろう。父は日本に行ったら、この家族を探し出して会うようにといわれたようだ。


戦後まもない混乱期、戦場から戻ってきていない人もまだ多かっただろうし、ラジオでは尋ね人の情報が流されるような時代だった。父は役所にはがきで問い合せたりしてなんとか探し出すことが出来た。

とてもしんどい状況にいたその人に父が「誰誰の息子だ」というと、泣き崩れて喜んでくれたと語っていた。

族譜に記載された簡単な情報は父から祖父にもたらされたものだと思われる。

日本の国内の農村でも次男以下の男子が都会に働きに出るという状況はよくある社会現象である。彼らが築いた家庭の営みが日本の高度経済成長を支えてきたとも考えられる。私は工場や商店の多い市街地で育ったので、同級生はそういう家庭の子どもが多かったように感じている。同級生の多くは社宅住まいだった。

ただ朝鮮半島から宗主国日本への出稼ぎ労働者の場合は、異民族ゆえに手荒で屈辱的な対応で扱われた経験を得ることになった。まったく経験していない一世はいないはず。


とりあえず戦中は「徴用」で連れて来られた人も多く同様には考えにくいが、戦前の出稼ぎ労働者の現象としては、日本国内の農村部から都市への出稼ぎ労働者と似ている。

祖父はさらに「あと2、3人連れて出た」と語ったらしい。
この同じ面(村)に住む2,3人の若者と祖父と一族の青年は、自分たちだけで渡日したことになるらしい。

父がことばができない不自由を問題にすると、
「筆談で来た」
と祖父は説明したという。
祖父は山間部の故郷の面(村)で日本語の語学書を初めて購入した人と伝え聞いている。出稼ぎを意識したためか、単なる好奇心かは分からない。多分前者だろう。
 
祖父が初めて宗主国日本で働いた場所と中身については、父もはっきりは聞いていないようだ。
しかし愛媛県今治市での肉体労働についただろうと推測できるだけの情報はもらっていた。





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by far-east2040 | 2016-08-04 08:38 | 父からの聞き取り