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うろ覚えだけれど、政治哲学者ハンナ・アーレントの「個人にいったん身についた観念を取りのぞくことはむずかしい」という内容の文章を読んで、静かな納得を得たことがある。


『偉大なる道』は、儒教精神でつちかわれた封建社会から脱皮して、新しい社会を築くために大きな社会変革をおこしながら苦闘した、朱徳と仲間たちの物語ともよめる。

反対勢力との血なまぐさい闘争をへて、この難事業を成功させることができたのは、封建社会で虐げられてきた民衆の共感と支持を得ることができたからだ。

しかし、新しい社会が無信仰・無宗教に根ざしたものなので、その後も問題や弊害が続いていると解釈している。
竹をすぱっと割るようにことは運ばないということ。


朱徳個人に焦点をあてると、旧から新の社会をまたいでいくひとりの男の姿を詳しく記録したものになり、珍しい作品になっている。

こんな本ほかにあるかな。


あらためて儒教とは何かをネットで調べてみたが、「孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える

とあり、自分の認識とだいたい合う。


「仁、義、礼、智、信」は、一昔前の儒教文化圏ではとくに好まれる漢字で、人物の名前によく使われてきたことからも影響力がうかがわれる。


領土を治める支配者側や、一族にあっては家長、家庭の中では男にとって都合のいい思想体系であったのだろう。だからこんな何世紀にわたって維持できたのかなと思う。

辛亥革命後の混乱時期に、孫逸仙から政権をゆずりうけた悪名高い袁世凱は、儒教を国教にして復活させようとまでした。


魯迅が「死んだ人間のために、いま生きる人間が犠牲になっている」という内容で、儒教批判していた文章を読んで感動したことがある。


建国後、儒教を否定している中国でも、日本や台湾や北朝鮮などでもそれなりに残されている。

しかし、現在、儒教がいちばん根強く残っているのは韓国だ。
これは国自体が認めているし、美点として語られてもいる。


偶然、外野で育ったものから見れば、韓国は儒教精神が形式化されて、徹底されている社会に見えるし、日本の天皇制に似ているようにも感じてきた。

近代天皇家の婚姻をふくむさまざまな儀式のスタイルは、英国の王室のスタイルと儒教精神のミックスチャアに見える。

一方、韓国社会の弊害の原因をつきつめていけば、儒教精神にぶつかるのではないかと考えている。


韓国はキリスト教も盛んで、とくにカトリック信者は日本より多いはず。

個人としてクリスチャンになって儒教から多少自由になっても、一族から完全に距離はおけないせいか、ほのかに儒教の香りがするように感じる。


むかし若いマレーシアからきた女性留学生とよく話しをする機会があったけれど、宗教に関しては日本社会のなんでもありで、ゆるゆるの環境がうらやましいと言われたことがある。

マレー系のマレーシア人はイスラム教から完全に解放されることはないからだった。
イスラム教への疑問を日本でもったのだろうか、髪の毛を隠すスカーフもつけてなかった。


韓国人の儒教の関係もこれとよく似ていると思った。

ただ、韓国人は移動や結婚も信教の自由もあるので、異文化に出会うことで変化していっている感じはする。

儒教の弊害のひとつをあげるとすれば、異常な教育熱ではないか。


個人的には、儒教は博物館の展示物と考えていて、眺めるものとわりきっている。

特異な事情が重なって、ルーツがKoreaにあるにもかかわらず、自覚するかぎり儒教が身についていないし、好きになれないし、それどころか儒教批判する文章に強い共感をおぼえるようでは、どの集団にも帰属感がもてないのはあまりに当然。


『偉大なる道』に話を戻すと、儒教社会を否定することは、政権のトップから末端の民衆の男にとって、伝統的にうけついだ既得権益の半分を女にゆずりわたすことでもあるから、それはそれは大変な変革事業だった。

こういうことは綺麗事ではできなかったはずだと思う。


儒教からとりあえず解放された立ち位置から、ひとり静かに痛みをうけいれる瞬間が好きだ。

今までなんどもしてきたことだ。



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# by far-east2040 | 2017-11-29 08:07 | 朱徳の半生

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最近、元力士と綺麗な顔立ちのアナウンサーを両親にもつ息子が、靴職人というユニークな職業についたという話題を知って、「いい仕事えらんだな」と感心したり、顔立ちや雰囲気が両親に微妙に似ていて、DNAがもたらす不思議さを感じた。


いくつあるかわからないけれど、子が展開していく心身+その後のαは、両親から受けついだものにかなり強く左右されるという確信をもっている。

身辺や、子育てを通じて見えた景色や、見たり聞いたり読んだりを通じて、そう考えるようになってきた。


一昔前は「氏より育ち」という言葉があったが、今は「環境よりDNA」だと思っている。

たまたま両親のどちらかから受けついだDNAの方が、環境よりその人物の人生にあたえる影響力は大きいと思う。

ある人物の秀でた面を考えるとき、どういう両親でどういう環境で育ったかは興味ある情報だ。


「こんなこと当たり前じゃない」と思うのだが、歴史的に根強い差別のもとで、数代続いてきた劣悪な環境を、急ピッチで改善していこうとする運動を近くでながめて以来、懸案事項として頭に残ってきたが確信がもてずにきた。


この運動は、教育環境の改善のために、行政の協力のもとに相当な予算をつぎ込んできた。

行政から予算を合法的かつ持続的に取り込んでいくための理屈として、急速に環境を変えたら問題は解決されると考えていたようにも見えた。

もちろんひとりひとりの学習への動機付けもしていたけれど、限界が感じられるし、当時日本全国どこでもなされていたように、予算をとるために非効率的なお金の使い方をしていたなと振り返られる。

過ぎ去った過去の悪い具体例なんて枚挙にいとまがない。

こういう場では「環境よりDNA」とはいえない雰囲気があった。


それと遺伝に関しては、長男は母親、長女は父親に容貌、雰囲気、「好きなもの、好きなこと」が似ていている傾向が強くて、次男次女はその逆、三男三女以降については情報不足でなんともいえないという自論をもっている。


これを否定する人いるかな? 個人的には8割、9割であたっていると思っている。


『偉大なる道』で朱徳の人生を味わっていると、この遺伝について考えざるを得ない事例を発見することが何度かあった。

朱徳は、何代もつづく農民一族の出身という環境から考えて珍しいほど音楽がそれなりにわかる人だった。

スメドレーもこの件については、母方の影響を考えていた。


「朱家の子たちは、民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして生長して行ったが、それについては、おそらくチュン家の血が物をいっているのだろう。」


朱徳の母親は旅芸人の娘で、やさしい性格の持ち主でもあり、三男の朱徳は「母親似」と客観的に自分を語っている。

父親はすごく乱暴でむごい人で、朱徳は儒教社会の習いで形式的には敬意をはらっていたが、内心は嫌っていた。
後年は、父親の乱暴さは多くの人民と同じく、封建社会の貧苦のなかで形成されたものと理解し同情していた。


長男は笛や胡琴を上手に演奏できて、記憶力が優れていたので、塾では要領よく勉強して、残りの時間は短い歌を習いおぼえては笛で吹いたりした。

次男は乱暴者で小鳥を殺しては喜んでいるような子で、朱徳を悲しませた。

家族の決断ははやい。


「まったく頭が悪かったので、彼の家ではすぐに彼を退校させ、畑ではたらかせることにした」
という。


三男朱徳は塾で熱心に勉強し、長男の楽器の演奏をききながら、自分でも演奏できるようになった。


朱徳はまじめな人間だ。

その後科挙受験の勉強をしたり、家族への仕送りのために体育の先生になったり、儒教社会の規範の一つ「親への孝行」を「国への孝行」にシフトさせて、軍人になり、辛亥革命で活躍する。

革命後の挫折の日々に、再婚した女性とつかのまの安らぎをえる。


「ユ・チェンは琴を弾じ、朱は笛を吹き胡琴をかなで、後には他の楽器類を買いもとめて修得したが、その中にはオルガンもあった。」


軍人であり、写真を見る限りどこまでも農民らしい粗野な朱徳が、オルガンをひけたなんて想像しにくい。


その後フランスをへてドイツに留学する。

彼の友人たちにとって退屈であるか、大きな音を鳴らす騒音でしかなかった歌劇や演奏会に熱心にかよい、ベートベンが好きになったという。


「朱徳にとっても、演奏会や歌劇は、はじめは、一個のでかい騒音だったが、まずメロディーやモティーフをとらえることができると、やがて全体を貫流する創造的な想像力の調子をとらえることができた。それでも、夜の眠りに入ろうとするときなど、夢うつつの中を、創造の朝とか軍隊の行進とか人間の必死の奮闘、そうしたものを思わせる雄大なもののひびきが流れるのであった。」


ドイツで政治活動を続ける朱徳は3回警察につかまり、2回は領事館が介入してすぐに釈放された。
3回目のときも楽観して拘禁生活を楽しんで睡眠不足をとりもどした。


「……毎朝、守衛が私の小さな房に入ってきて、うすいコーヒーの入ったブリキ缶と黒パンの一かたまりを置いた。私はそれを平らげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。……」


ちょっとしたミュージカルを思わせる。

『偉大なる道』での名シーンのひとつととらえている。


土地革命を実施していくなか、ある地方では、貧苦のため男たちが海外に出稼ぎに出て、残された女たちは男の仕事をしながら、たくさんの「恋慕の歌」をつくった。
なかでも「いとしい人」という言葉ではじまる歌を聞いた兵士は、自らの境遇を重ねてすすり泣いたらしい。


「朱将軍はたちあがって、私の部屋の小さいオルガンのそばにゆき、この民謡をうたいはじめたーー」


朱徳はなんと弾き語りができた! 両手で弾けたのかな。

朱徳とスメドレーと通訳の3人と音楽が流れる名シーンだ。


やがて、毛沢東の軍と合流し、井岡山を拠点にして紅軍を結成したのだが、忙しいあいまをぬって、朱徳ならではのことをしている。


「井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ2百ページの小さな本になっていた。この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。」


朱徳のこのノートはいまどこで保管されているのかな。

この本には当時のことだから、とうぜん『インターナショナル』も入っている。

中国映画『黄色い大地』で若い紅軍の兵士が地方の寒村にやってきたのは、貴重な歌を収集するためだったはず。
朱将軍もすすめているという内容のセリフがあったと記憶している。

すべてがつながってゆく。


「インキのしみだらけの色あせた赤い布の表紙をし、粗末なとじ方をした、この小さな歌の本を、やさしくなでまわしながら、朱将軍は、井岡山のあらあらしい岩山や、青々とした緑の谷、竹の林や、もみの森、潅木とかぐわしいさまざまな花、ほとんど一年中、山々をつつんでいる白い雲などを、じっと思いうかべていた。」


民俗学者のようなことをしている!


当時は人民が歌をうたうということはほとんどなかったらしい。


「……まさに革命こそが、人民のエネルギーを解き放ち、ありとあらゆる歌を生み出せた。

……人民に合唱することを教えたのは、紅軍であった。

……」


こういうことは朱徳だけの功績ではないが、ずっと見てくると、朱徳の母親の影響はゼロとはいえない。

「環境よりDNA」の影響の方が強いと思っているが、それだけで人生は決まらないこともわかっているので悲観することもない。

ただ震災以降、このDNAが外部から攻撃を受ける時代になったということで、より複雑になってきている感じがして気分は暗い。



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# by far-east2040 | 2017-11-04 11:42 | 朱徳の半生

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先日、2017年のノーベル文学賞にイギリス人のカズオ・イシグロ氏が選ばれたことを知ったが、いつだったか『日の名残り』を読んで感銘を受けことを思い出した。
イギリス上流階級での執事という裏方の職業にすごく興味をいだかせてくれたし、こういうイギリス伝統社会を、5歳からイギリスに住み始めた人が描けることに驚いた。


中学生のころ好きだった本の一つ『大地』の作者パール・バックもノーベル賞を受賞している。彼女もイシグロ氏と似た立場で、中国の農民一家の姿を描いていている。
どちらも、両親や生まれた環境を考えると、書けそうには思えない世界を対象にしている感じがした。


今から書こうとしている軍閥というキーワードは、実は『大地』三部作ではじめて知って、よくわからない言葉でもあった。
貧農の主人公がのし上がっていき、息子たちは富裕な人生を歩むなか、末の息子は家を飛び出して軍閥になった。
この軍閥になった息子は自分の息子に跡をつがせようとするが、この息子は争いを好まず、親に反抗して、つつましい農民であった祖父の人生にひかれてゆく。

なんかこんな話だったと記憶している。


語るにはむずかしい軍閥だが、『偉大なる道』を読むと具体的になってほんの少し見えてくる。


財閥、学閥、閨閥、軍閥と閥がつくことばはいい意味では使われない。排他的な集団になる。


1937年にスメドレーは朱徳に聞き取りをしていたのだが、軍閥時代については、彼女ですらややこしいと思ったので、早く終わらせようとして、始まりと終わりの時期だけをきこうとした。


「それは袁世凱とともに始まったが、今日もなお終了してはいない」と彼は答えた。


軍閥を私なりにまとめると、1920年代ごろ、帝国主義諸国から金銭や武器供給の後押しを受けて、おのれの名誉欲、出世欲、金銭欲をみたすために一定の地盤を支配下において、民衆から税金という名目で金をしぼりとる。地盤を維持していくために、他の軍閥と同盟を結んだり、裏切られたりして、血なまぐさい抗争はつづく。


孫逸仙の民族革命に同調し国民党員になっていた軍人も、彼が亡くなると、軍閥への誘惑に勝てず、革命を捨て軍閥の権力争いに加わる。


結局外国勢力と銀行家に支えられた蒋介石と仲間の軍閥によって、孫逸仙がきずいてきた民族主義者の側は敗北ばかりする。

地方ごとに勢力をのばして支配している地方軍閥は、必ず外国の勢力によって支えられている。北京を含む北部は日本帝国主義によって支えられていて、南部はヨーロッパの諸勢力のようだ。

みんな金で買収されたということだ。


表面的な同盟や義理、友情でつながってはいるが、最後はみな裏切られる感じがする。


日本をふくむイギリス、フランス、ドイツなどの帝国主義諸国がからんでいるところが軍閥理解のためのキーポイントだと思う。


朱徳も出世欲、名誉欲、権力欲などの誘惑は大きかったと語る。

相手が差し出すジャラジャラ鳴る洋銀の魅力に打ち勝つのはむずかしかったようだ。


朱徳でも挫折の日々に、甥を自分の軍隊内の士官学校にいかせてゆくゆくはと配慮したことがあって、スメドレーは「軍閥めいたこと」と表現している。


スメドレーは、革命途上の朱徳が他の指導者にない謙虚さをもっていたのは、彼の経歴に四川省で軍閥闘争にまきこまれ、自身もそれに近いような生活をおくっていたことが、コンプレックスの一つになっていたからだろうと推測している。


日本帝国主義と関係が深い軍閥は多いが、有名なのは中国東北部を支配していた張作霖で、結局日本の軍部によって爆破されて亡くなった。

この爆破事件に協力した父の配下の将校を、息子の張学良はすぐに殺した。
やがて内戦なんかしてるときじゃないと、協力して日本と戦うために西安事件で蒋介石を監禁し、国共合作へと歴史をすすめていく。


軍閥のトップになる人は一族意識の強い当時の中国にあって、何らかの理由でその集団からはみ出したものが多いように思う。
理由のほとんどは貧困からの脱出だろう。

軍閥のトップになると、その人より上の世代のつながりは薄くなり、自分が家系図でいえば起点になる感じもする。

だから必ず自分の息子もしくは身内に跡を継がせようとする。


軍閥を理解するための2つ目のキーポイントは、身内で固めていこうとするところではないか。


現在の大国中国は問題山積みの国で、軍事的にも周辺国にとっては信用できないところがあるけれど、国のトップは建国以来世襲は一切ない。
「反軍閥」は中国革命の看板のひとつだ。
外国からの干渉を極度に避けているように、世襲は国として否定する共産主義国家としての常識はふまえている感じがする。


では現在の北朝鮮はどうかといえば、これは旧き時代の軍閥の慣習を引き継いでいる。
身内以外信用できないので、自分の地盤を自分の息子に引き継がせる。
この本に出てくる軍閥のやり方そのものだ。

一代目の金日成はソ連の後押しのもと登場してきて、それ以来世襲。

東北満州地域の軍閥張作霖と似たようなもので、北朝鮮は軍閥政治をしていて、国とはいえない感じがする。


朱徳は戦前戦中の帝国主義国としての日本のことも「日本軍閥」と表現している箇所があり、意外だった。トップは当然「ヒロヒト」だ。

そういえば、明治維新も諸外国が悪役としてではなく、からんでいる。

日本の近代史はあまり詳しく知らないけれど、軍閥という言葉を意識しながら見ていくと、また違ったふうに解釈できそうな感じがする。


外国からの干渉を切れず、周辺国とは秘密裏に同盟をむすんだり、裏切ったりして関係がころころ変わり、トップが世襲の国は軍閥政権の延長と考えていいのではないか。



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# by far-east2040 | 2017-10-12 21:14 | 朱徳の半生

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建国をになった中国共産党の中心人物に留学経験者が多いことは気づいていた。
ちょっと気になる人物が出てくると、ネットで調べてみたりするが、その中で「いわゆる勤工倹学でフランスへ」なんていう文面を読むことがあり、「勤工倹学」とは何だろと思ってきた。


1922年ぐらいにフランスへ向かった朱徳は、周恩来という青年が中国共産党の支部をつくったといううわさを耳にする。


「……この周恩来と、その同志たる陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)、李立三、李富春とその夫人蔡暢らは、後日中国の歴史をつくったのである……」
とスメドレーは書いている。


彼らは「勤工倹学」で留学していた若者のあくまでも一部である。

この本では鄧小平は出てこないが、やはりこのころにフランスに「勤工倹学」で留学していた。


ちなみに、朱徳は雲南で高級軍人としていい給料をもらっていたときの蓄えを使って、自分のお金で留学した。36歳という当時の中国では中年と呼ばれる年齢での決断だった。


共通しているのは、国費でもないし、かといって一族の豊かな資産を持ち出しての優雅な留学組でもないということ。

国内の学校や大学へ息子をなんとか行かせることはできても、海外へ留学させるだけの余裕はない層の出身になる。
80パーセントの農民層と数%(?)の特権階層のあいだに位置する富農、小地主、商人、知識人などの進歩的な階層と考えたらいいのかなと考えている。

岩波新書の古い『フランス勤工倹学の回想』という本を読んだが、いろいろなことがわかってくる。
「勤工倹学」の定義やいつ始まったかを説明することはむずかしい。

ただ建国にいたる中国共産党を理解するためのキーワードのひとつであることは確かだ。


清朝末期、政府は日本の日清・日露戦争勝利の影響もあって近代化をいそいだ。


「当時の政府も、かなりの留学生を派遣し、主として日本にやって軍事を学ばせたが、えらばれて派遣される人の大半は、官僚か貴族の子弟であった」


朱徳の雲南時代の師であり親友であった、辛亥革命で重要な働きをした蔡鍔(さいがく)将軍も日本の士官学校で軍事学を勉強した人だった。

魯迅もこの時期の国費留学生のひとりとして日本で医学を学んだ。


新しい思想に目覚めた青年は自費で日本留学を実現させ、ピークは3千人ぐらいいただろうという。
この人たちは生活費をきりつめて苦学したらしいので、あくまでもこれは「倹学」。
こういう日本留学組から辛亥革命で活躍する人たちを多く輩出している。


朱徳が1909年ごろ入った雲南軍官学校は、日本の士官学校などを手本にしてつくられ、教官も日本留学組が多く、その中に同盟会員がいた。
こういう留学組は国内の清朝打倒が目標だったし、このころは日本軍の大陸での行為もあまり目立たず、日本は進んだ国としてあこがれとともにまあまあ印象もよかったように思う。

それがどこでどうなったのか。


「勤工倹学」に話しを戻すと、中国建国の功労者たちは、軍事畑出身以外はほとんどヨーロッパへの留学を経験しているように見える。
唯一の例外と考えられるのは毛沢東となるから面白い。


「第一次世界大戦が勃発して、フランスの男子はほとんどみな戦場にでていき、工場では労働力の欠乏をきたした。フランス政府は中国の人口がおおいことに目をつけて、中国へいって労働者を募集しよう、と考えた」


これは両政府にとって利害が一致して、各地に労働者募集所ができて、素朴な農村の若者や職人などがフランスに労働者として渡ったらしい。

こういうことを商売にする人も出てきたり、信じる主義や思惑はいろいろあってややこしいが、「勤工倹学という方法によって、志ある貧困青年をあつめてフランスに留学させよう」という「一種独特の思想運動であり、救国運動でもあった」となる。


「これはいいことだ」とこの情報を得た人たちが、北京で留仏勤工倹学運動を起こすのだが、なんと若き毛沢東もその運動の中心メンバーのひとりで、積極的に動いて青年を送りだしていた。


フランスまでの旅費の用意が大変だった。
東南アジアで一日一食で働いてお金をためようかとかそんなことも考えていたらしい。

なんとかフランスに着くと、とりあえず3通りの方法で勉強したことになる。
昼間勉強して夜労働するか、はじめの半年か3ヵ月は働いてお金をためて、それから学校に入って数ヵ月勉強するか、あるいは少しだけお金はあるので、ひとまず勉強し、そのうえで労働する。

官費留学生や裕福な自費留学生ではない彼らは、ひとりひとり違う苦労話があったし、共産党に加入するなどの政治意識の高揚もあったと思う。

フランスで共産党に加入した青年も多かったのではないだろうか。

ロシア革命後まもないころだった。


では、なぜ毛沢東は関わっていたのにフランスに行かなかったのか。

毛沢東の聞き取りを出版したエドガー・スノウがそのへんのことを聞いている。

毛沢東は「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」と答えている。

毛沢東は行動もとる人だけれど、何より読書家でもある。
この人らしい理由だと思った。


毛沢東は北京大学の図書館で司書の助手のようなことをしていた人なので、そこで相当読書をしただろうなと個人的に思ってきた。
時間と灯りが保証されたら、いくらでも読書できるという恵まれた環境にいたことになる。

彼の頭の中には読みたい本がリストアップされていたのではないかな。

図書館で働いていたということを知って、個人的にこの大物政治思想家に親しみを感じてきた。

「同じことを考えたんじゃないかな」なんて。


勤工倹学を私なりにまとめると、1920年代前後、暗黒の国内の政治情勢の中で出口をもとめて、中国の中間20%に属する青年がフランスで慣れない肉体労働をしながら苦学し、その中からのちに中国の歴史の1ページをつくるぐらいの政治意識の高い人材を輩出してきたとなる。


バブル時代のころ、豊かな国費留学生を多く見てきて、うらやましいとは思ったけれど、政府としては無駄な出費とは思わなかった。
日本に好感を持つ人材を各国につくってきたのだから。
でもそろそろ海外の国が、日本からの留学生を受ける大皿を作ってくれてもよさそうな時代になってきていると残念ながら思う。


100年たつと、物事ががらっと変わる。



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# by far-east2040 | 2017-09-27 11:19 | 朱徳の半生

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中国革命に出てくる主要人物がどういう女性と結婚していたのかを知ることは、人間性を理解するうえで参考になる。


『偉大なる道』を読むかぎり、中華人民解放軍の総司令官朱徳は生涯において4人の女性と結婚したことになる。

革命途上で血なまぐさい波乱万丈の人生をおくってきた男性としては、4人という数字はうなづけると密かに思ってきた。


が、ネットで朱徳のことを調べているときに、朱徳は6人の女性と結婚したと羨望や驚嘆の感情が入り混じったような文章を数回見つけたことがある。

これは朱徳の人間性を貶めるための偽情報か、失意の日々にそばにおいていた複数の女のことを含めているのか、朱徳自身が何らかの理由であえて2人の女性をスメドレーの前で伏せたのか、あるいはスメドレーが2人の女性との関係は結婚とはいえないと判断して朱徳の諒解のもとで省略したのか。


中国で出版された伝記ではどのように記載されているのか調べようがない。

気になってじっくり調べると、写真つきで結婚した6人の女性を詳しく紹介する中国語で書かれたサイトを見つけた。

漢字の意味を頼りにおおよその内容をつかんだところでは、やはり6人の女性と「結婚」したことになるようだ。


東アジアは古い社会制度もとで早婚だった。正式な結婚適齢は男女とも二十歳前ではないかな。

今でもときどきインドで早婚の弊害を問題にする記事を見かけることがあるけれど、そのような結婚が中国や朝鮮半島でも一昔前には存在していた。

中国映画『黄色い大地』ではこの早婚の風習を描いていていい映画だった。


戦前戦中を朝鮮半島で暮らした女性史研究家森崎和江さんも、同級生で結婚している人が何人もいたと早婚の風習を語っていた。


そういう意味では一昔前の日本でも現代から見れば、信じられないぐらい若い年齢で結婚していたようだが、中国や朝鮮半島よりもやや年齢は高いように感じている。


中国に話を戻すと、毛沢東は14歳ぐらいで家どおしが決めた結婚をしている。

びっくりする話だけれど、当時の農村では普通の結婚だったと思う。
愛情とかいう感情は別問題。

その後2回結婚して、最後は有名な江青と結婚することになる。


孫中山(孫文)も19歳ぐらいで親が決めた相手と結婚している。

その後日本で亡命中に日本人女性としばらく夫婦のように暮らして、子もいたようだ。

やがて親が決めた相手とは離婚して、宋慶齢と革命事業を共にしていくことになる。


1881年生まれの作家魯迅も17歳ほど年下の女性と恋愛結婚したが、形の上では親が決めた妻がいたようだから重婚になる。

この作家も旧社会の結婚制度から自由ではなかった。


周恩来はちょっと違う。
毛沢東より5歳、朱徳よりも12歳若くて、農村出身ではなかった。
夫人ともども親が官吏のような職業で都会に近いところで学生生活をおくる知識人だった。

周恩来夫人は志を同じくする仲間であり、周恩来にとっては妹のような存在として出会ったらしい。

あの激動の時代に相思相愛でそのまま結婚し革命事業を担い、共に晩年をすごすという極めて珍しい夫婦像を作りあげている。

どこまでも周恩来と夫人は「清い」。

若い頃写した二人が寄り添う写真を見ると、信頼し合っていたことが伝わってくる。

作家ハン・スーインが周恩来の伝記を書くために晩年の夫人にインタビューしたとき、夫人は恥ずかしそうに出会った頃の思い出を語っていたらしい。


朱徳も旧社会の結婚制度から自由になりきれなかったようだ。

二十歳ぐらいのときに成都で纏足をしていない自然な足の女学生を初めて見て、金がない朱徳は遠目であこがれていて、将来結婚するときはそういう女性としたいと思っていた。


しかし、朱徳一人のための学費を捻出するために貧苦に耐え、多額の借金の返済に追われていた家族は別のことを考えていた。

学問を身につけた朱徳はやがて科挙に合格し、えらい役人になることは約束されている。


「みなが、私に嫁を持たせねばならぬと思っていることがわかった」


「私ならば、家の借金を返済できるだけの持参金を要求できると考えていた」


この本では朱徳が結婚を勧めてくる家族ともめたらしいことだけは書かれていた。

朱徳はそういう話を振り切って家を出たと思っていたが、どうやらこの時期形式的には結婚したらしい。

実際のところはわからないが、多分かなりの持参金つきで纏足をした女性を嫁にして、生涯養父母に仕えさせたのではないだろうか。

中国語の文章を読むと、朱徳の「最初の妻」は寂しい人生をおくったようなことが書かれている。


『偉大なる道』では軍人になったとき、友人の妹と初めての結婚をしたと書かれている。
しかしこの女性は息子を生んだ後病死した。

母を失った息子のことを考えて同じように別の友人の妹と結婚し、ここで幸せな結婚生活をおくった。

本の中では理知的な女性として描かれている。


その後朱徳はフランスとドイツ留学を果たす。

ドイツ留学中大いに活躍して勉強して充実した日々をおくっていたが、女性の存在なんてまったく書かれていない。

ところが写真つきの中国語のサイトによれば、その時いっしょにいた数少ない女性の留学生が朱徳と結婚していたとなるらしい。

中国語なので詳細はわからないけれど、ありえる話だと納得できた。

実際はどうなのかわからないけれど、正式な結婚ならば重婚になるし、同志としていっしょにすごした女性とするなら「不倫」になるし、いずれにせよ扱いがデリケートになる。

『偉大なる道』ではこの女性についてはまったく触れられていない。

当時としては恵まれた境遇の女性だから、どんな人生をおくったのかしら。


その後帰国して革命途上で呉玉蘭という作家であり活動家でもある女性と結婚したが、これは平和な時代であればはっきり重婚になる。

しかしこれについては朱徳は、遠く離れていて普段会えない妻も自分の活動をしていて、革命事業に忙しい夫といっしょに住むことはないと悟っていたとスメドレーに説明していた。

後にこの妻は朱徳のもとに逃避行中に、国民党の軍隊に殺されてしまった。


最後は康克清と結婚し、建国後豊かな晩年をすごした。


スメドレーはこの本の中で何度か朱徳のことを男性的だったと語っていたが、結婚生活の語りを読み返すと、男性として誠実でノーマルな人物像が浮かび上がってくる。



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# by far-east2040 | 2017-09-11 17:30 | 朱徳の半生