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先日、2017年のノーベル文学賞にイギリス人のカズオ・イシグロ氏が選ばれたことを知ったが、いつだったか『日の名残り』を読んで感銘を受けことを思い出した。
イギリス上流階級での執事という裏方の職業にすごく興味をいだかせてくれたし、こういうイギリス伝統社会を、5歳からイギリスに住み始めた人が描けることに驚いた。


中学生のころ好きだった本の一つ『大地』の作者パール・バックもノーベル賞を受賞している。彼女もイシグロ氏と似た立場で、中国の農民一家の姿を描いていている。
どちらも、両親や生まれた環境を考えると、書けそうには思えない世界を対象にしている感じがした。


今から書こうとしている軍閥というキーワードは、実は『大地』三部作ではじめて知って、よくわからない言葉でもあった。
貧農の主人公がのし上がっていき、息子たちは富裕な人生を歩むなか、末の息子は家を飛び出して軍閥になった。
この軍閥になった息子は自分の息子に跡をつがせようとするが、この息子は争いを好まず、親に反抗して、つつましい農民であった祖父の人生にひかれてゆく。

なんかこんな話だったと記憶している。


語るにはむずかしい軍閥だが、『偉大なる道』を読むと具体的になってほんの少し見えてくる。


財閥、学閥、閨閥、軍閥と閥がつくことばはいい意味では使われない。排他的な集団になる。


1937年にスメドレーは朱徳に聞き取りをしていたのだが、軍閥時代については、彼女ですらややこしいと思ったので、早く終わらせようとして、始まりと終わりの時期だけをきこうとした。


「それは袁世凱とともに始まったが、今日もなお終了してはいない」と彼は答えた。


軍閥を私なりにまとめると、1920年代ごろ、帝国主義諸国から金銭や武器供給の後押しを受けて、おのれの名誉欲、出世欲、金銭欲をみたすために一定の地盤を支配下において、民衆から税金という名目で金をしぼりとる。地盤を維持していくために、他の軍閥と同盟を結んだり、裏切られたりして、血なまぐさい抗争はつづく。


孫逸仙の民族革命に同調し国民党員になっていた軍人も、彼が亡くなると、軍閥への誘惑に勝てず、革命を捨て軍閥の権力争いに加わる。


結局外国勢力と銀行家に支えられた蒋介石と仲間の軍閥によって、孫逸仙がきずいてきた民族主義者の側は敗北ばかりする。

地方ごとに勢力をのばして支配している地方軍閥は、必ず外国の勢力によって支えられている。北京を含む北部は日本帝国主義によって支えられていて、南部はヨーロッパの諸勢力のようだ。

みんな金で買収されたということだ。


表面的な同盟や義理、友情でつながってはいるが、最後はみな裏切られる感じがする。


日本をふくむイギリス、フランス、ドイツなどの帝国主義諸国がからんでいるところが軍閥理解のためのキーポイントだと思う。


朱徳も出世欲、名誉欲、権力欲などの誘惑は大きかったと語る。

相手が差し出すジャラジャラ鳴る洋銀の魅力に打ち勝つのはむずかしかったようだ。


朱徳でも挫折の日々に、甥を自分の軍隊内の士官学校にいかせてゆくゆくはと配慮したことがあって、スメドレーは「軍閥めいたこと」と表現している。


スメドレーは、革命途上の朱徳が他の指導者にない謙虚さをもっていたのは、彼の経歴に四川省で軍閥闘争にまきこまれ、自身もそれに近いような生活をおくっていたことが、コンプレックスの一つになっていたからだろうと推測している。


日本帝国主義と関係が深い軍閥は多いが、有名なのは中国東北部を支配していた張作霖で、結局日本の軍部によって爆破されて亡くなった。

この爆破事件に協力した父の配下の将校を、息子の張学良はすぐに殺した。
やがて内戦なんかしてるときじゃないと、協力して日本と戦うために西安事件で蒋介石を監禁し、国共合作へと歴史をすすめていく。


軍閥のトップになる人は一族意識の強い当時の中国にあって、何らかの理由でその集団からはみ出したものが多いように思う。
理由のほとんどは貧困からの脱出だろう。

軍閥のトップになると、その人より上の世代のつながりは薄くなり、自分が家系図でいえば起点になる感じもする。

だから必ず自分の息子もしくは身内に跡を継がせようとする。


軍閥を理解するための2つ目のキーポイントは、身内で固めていこうとするところではないか。


現在の大国中国は問題山積みの国で、軍事的にも周辺国にとっては信用できないところがあるけれど、国のトップは建国以来世襲は一切ない。
「反軍閥」は中国革命の看板のひとつだ。
外国からの干渉を極度に避けているように、世襲は国として否定する共産主義国家としての常識はふまえている感じがする。


では現在の北朝鮮はどうかといえば、これは旧き時代の軍閥の慣習を引き継いでいる。
身内以外信用できないので、自分の地盤を自分の息子に引き継がせる。
この本に出てくる軍閥のやり方そのものだ。

一代目の金日成はソ連の後押しのもと登場してきて、それ以来世襲。

東北満州地域の軍閥張作霖と似たようなもので、北朝鮮は軍閥政治をしていて、国とはいえない感じがする。


朱徳は戦前戦中の帝国主義国としての日本のことも「日本軍閥」と表現している箇所があり、意外だった。トップは当然「ヒロヒト」だ。

そういえば、明治維新も諸外国が悪役としてではなく、からんでいる。

日本の近代史はあまり詳しく知らないけれど、軍閥という言葉を意識しながら見ていくと、また違ったふうに解釈できそうな感じがする。


外国からの干渉を切れず、周辺国とは秘密裏に同盟をむすんだり、裏切ったりして関係がころころ変わり、トップが世襲の国は軍閥政権の延長と考えていいのではないか。



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# by far-east2040 | 2017-10-12 21:14 | 朱徳の半生

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建国をになった中国共産党の中心人物に留学経験者が多いことは気づいていた。
ちょっと気になる人物が出てくると、ネットで調べてみたりするが、その中で「いわゆる勤工倹学でフランスへ」なんていう文面を読むことがあり、「勤工倹学」とは何だろと思ってきた。


1922年ぐらいにフランスへ向かった朱徳は、周恩来という青年が中国共産党の支部をつくったといううわさを耳にする。


「……この周恩来と、その同志たる陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)、李立三、李富春とその夫人蔡暢らは、後日中国の歴史をつくったのである……」
とスメドレーは書いている。


この若者たちは「勤工倹学」で留学していた若者のあくまでも一部である。

この本ではトウ小平は出てこないが、やはりこのころにフランスに「勤工倹学」で留学していた。


ちなみに朱徳は雲南で軍人としていい給料をもらっていたときの蓄えを使って、自分のお金で留学した。36歳という当時の中国では中年と呼ばれる年齢での決断だった。


共通しているのは、国費でもないし、かといって一族の豊かな資産を持ち出しての優雅な留学組でもないということ。

国内の学校や大学へ息子をなんとか行かせることはできても、海外へ留学させるだけの余裕はない層の出身になる。80パーセントの農民層と数%(?)の特権階層の間に位置する富農、小地主、商人、知識人などの進歩的な階層と考えたらいいのかなと考えている。

岩波新書の古い『フランス勤工倹学の回想』という本を読んだが、いろいろなことがわかってくる。「勤工倹学」の定義やいつ始まったかを説明することはむずかしい。

ただ建国にいたる中国共産党を理解するためのキーワードのひとつであることは確かだ。


清朝末期、政府は日本の日清・日露戦争勝利の影響もあって近代化を急いだ。


「当時の政府も、かなりの留学生を派遣し、主として日本にやって軍事を学ばせたが、えらばれて派遣される人の大半は、官僚か貴族の子弟であった」


朱徳の雲南時代の師であり親友であった、辛亥革命で重要な働きをした蔡鍔将軍も日本の士官学校で軍事学を勉強した人だった。

魯迅もこの時期の国費留学生のひとりとして日本で医学を学んだ。


新しい思想に目覚めた青年は自費で日本留学を実現させ、ピークは3千人ぐらいいただろうという。この人たちは生活費をきりつめて苦学したらしいので、あくまでもこれは「倹学」。こういう日本留学組から辛亥革命で活躍する人たちを多く輩出している。


朱徳が1909年ごろ入った雲南軍官学校は日本の士官学校などを手本にしてつくられ、教官も日本留学組が多く、その中に同盟会員がいた。こういう留学組は国内の清朝打倒が目標だったし、このころは日本軍の大陸での行為もあまり目立たず、日本は進んだ国としてあこがれとともにまあまあ印象もよかったように思う。

それがどこでどうなったのか。


「勤工倹学」に話しを戻すと、中国建国の功労者たちは、軍事畑出身以外はほとんどヨーロッパへの留学を経験しているように見える。唯一の例外と考えられるのは毛沢東となるから面白い。


「第一次世界大戦が勃発して、フランスの男子はほとんどみな戦場にでていき、工場では労働力の欠乏をきたした。フランス政府は中国の人口がおおいことに目をつけて、中国へいって労働者を募集しよう、と考えた」


これは両政府にとって利害が一致して、各地に労働者募集所ができて、素朴な農村の若者や職人などがフランスに労働者として渡ったらしい。

こういうことを商売にする人も出てきたり、信じる主義や思惑はいろいろあってややこしいが、「勤工倹学という方法によって、志ある貧困青年をあつめてフランスに留学させよう」という「一種独特の思想運動であり、救国運動でもあった」となる。


「これはいいことだ」とこの情報を得た人たちが北京で留仏勤工倹学運動を起こすのだが、なんと若き毛沢東もその運動の中心メンバーのひとりで、積極的に動いて青年を送り出していた。


フランスまでの旅費の用意が大変だった。東南アジアで一日一食で働いてお金をためようかとかそんなことも考えていたらしい。

なんとかフランスに着くと、とりあえず3通りの方法で勉強したらしい。昼間勉強して夜労働するか、はじめの半年か三ヶ月は働いてお金をためて、それから学校に入って数ヶ月勉強するか、少しだけお金はあるので、ひとまず勉強し、そのうえで労働する。

官費留学生や裕福な自費留学生とは違う彼らは、ひとりひとり違う苦労話があったし、共産党に加入するなどの政治意識の高揚もあったと思う。

フランスで共産党に加入した青年も多かったのではないだろうか。

ロシア革命後まもないころだった。


では、なぜ毛沢東は関わっていたのにフランスに行かなかったのか。

毛沢東の聞き取りを出版したエドガー・スノウがそのへんのことを聞いている。

毛沢東は「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」と答えている。

毛沢東は行動もとる人だけれど、何より読書家ですからね。この人らしい理由だと思った。


毛沢東は北京大学の図書館で司書の助手のようなことをしていた人なので、そこで相当読書をしただろうなと個人的に思ってきた。時間と灯りが保証されたら、いくらでも読書できるという恵まれた環境にいたことになる。

彼の頭の中には読みたい本がリストアップされていたのではないかな。

図書館で働いていたということを知って、個人的にこの大物政治思想家に親しみを感じてきた。

「同じことを考えたんじゃないかな」なんて。


勤工倹学を私なりにまとめると、1920年代前後、暗黒の国内の政治情勢の中で出口をもとめて、中国の中間20%に属する青年がフランスで慣れない肉体労働をしながら苦学し、その中からのちに中国の歴史の1ページをつくるぐらいの政治意識の高い人材を輩出してきたとなる。


バブル時代のころ、豊かな国費留学生を多く見てきて、うらやましいとは思ったけれど、政府としては無駄な出費とは思わなかった。日本に好感を持つ人材を各国につくってきたのだから。
でもそろそろ海外の国が、日本からの留学生を受ける大皿を作ってくれてもよさそうな時代になってきていると残念ながら思う。


100年たつと、物事ががらっと変わる。



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# by far-east2040 | 2017-09-27 11:19 | 朱徳の半生

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中国革命に出てくる主要人物がどういう女性と結婚していたのかを知ることは、人間性を理解するうえで参考になる。


『偉大なる道』を読むかぎり、中華人民解放軍の総司令官朱徳は生涯において4人の女性と結婚したことになる。

革命途上で血なまぐさい波乱万丈の人生をおくってきた男性としては、4人という数字はうなづけると密かに思ってきた。


が、ネットで朱徳のことを調べているときに、朱徳は6人の女性と結婚したと羨望や驚嘆の感情が入り混じったような文章を数回見つけたことがある。

これは朱徳の人間性を貶めるための偽情報か、失意の日々にそばにおいていた複数の女のことを含めているのか、朱徳自身が何らかの理由であえて2人の女性をスメドレーの前で伏せたのか、あるいはスメドレーが2人の女性との関係は結婚とはいえないと判断して朱徳の諒解のもとで省略したのか。


中国で出版された伝記ではどのように記載されているのか調べようがない。

気になってじっくり調べると、写真つきで結婚した6人の女性を詳しく紹介する中国語で書かれたサイトを見つけた。

漢字の意味を頼りにおおよその内容をつかんだところでは、やはり6人の女性と「結婚」したことになるようだ。


東アジアは古い社会制度もとで早婚だった。正式な結婚適齢は男女とも二十歳前ではないかな。

今でもときどきインドで早婚の弊害を問題にする記事を見かけることがあるけれど、そのような結婚が中国や朝鮮半島でも一昔前には存在していた。

中国映画『黄色い大地』ではこの早婚の風習を描いていていい映画だった。


戦前戦中を朝鮮半島で暮らした女性史研究家森崎和江さんも、同級生で結婚している人が何人もいたと早婚の風習を語っていた。


そういう意味では一昔前の日本でも現代から見れば、信じられないぐらい若い年齢で結婚していたようだが、中国や朝鮮半島よりもやや年齢は高いように感じている。


中国に話を戻すと、毛沢東は14歳ぐらいで家どおしが決めた結婚をしている。

びっくりする話だけれど、当時の農村では普通の結婚だったと思う。
愛情とかいう感情は別問題。

その後2回結婚して、最後は有名な江青と結婚することになる。


孫中山(孫文)も19歳ぐらいで親が決めた相手と結婚している。

その後日本で亡命中に日本人女性としばらく夫婦のように暮らして、子もいたようだ。

やがて親が決めた相手とは離婚して、宋慶齢と革命事業を共にしていくことになる。


1881年生まれの作家魯迅も17歳ほど年下の女性と恋愛結婚したが、形の上では親が決めた妻がいたようだから重婚になる。

この作家も旧社会の結婚制度から自由ではなかった。


周恩来はちょっと違う。
毛沢東より5歳、朱徳よりも12歳若くて、農村出身ではなかった。
夫人ともども親が官吏のような職業で都会に近いところで学生生活をおくる知識人だった。

周恩来夫人は志を同じくする仲間であり、周恩来にとっては妹のような存在として出会ったらしい。

あの激動の時代に相思相愛でそのまま結婚し革命事業を担い、共に晩年をすごすという極めて珍しい夫婦像を作りあげている。

どこまでも周恩来と夫人は「清い」。

若い頃写した二人が寄り添う写真を見ると、信頼し合っていたことが伝わってくる。

作家ハン・スーインが周恩来の伝記を書くために晩年の夫人にインタビューしたとき、夫人は恥ずかしそうに出会った頃の思い出を語っていたらしい。


朱徳も旧社会の結婚制度から自由になりきれなかったようだ。

二十歳ぐらいのときに成都で纏足をしていない自然な足の女学生を初めて見て、金がない朱徳は遠目であこがれていて、将来結婚するときはそういう女性としたいと思っていた。


しかし、朱徳一人のための学費を捻出するために貧苦に耐え、多額の借金の返済に追われていた家族は別のことを考えていた。

学問を身につけた朱徳はやがて科挙に合格し、えらい役人になることは約束されている。


「みなが、私に嫁を持たせねばならぬと思っていることがわかった」


「私ならば、家の借金を返済できるだけの持参金を要求できると考えていた」


この本では朱徳が結婚を勧めてくる家族ともめたらしいことだけは書かれていた。

朱徳はそういう話を振り切って家を出たと思っていたが、どうやらこの時期形式的には結婚したらしい。

実際のところはわからないが、多分かなりの持参金つきで纏足をした女性を嫁にして、生涯養父母に仕えさせたのではないだろうか。

中国語の文章を読むと、朱徳の「最初の妻」は寂しい人生をおくったようなことが書かれている。


『偉大なる道』では軍人になったとき、友人の妹と初めての結婚をしたと書かれている。
しかしこの女性は息子を生んだ後病死した。

母を失った息子のことを考えて同じように別の友人の妹と結婚し、ここで幸せな結婚生活をおくった。

本の中では理知的な女性として描かれている。


その後朱徳はフランスとドイツ留学を果たす。

ドイツ留学中大いに活躍して勉強して充実した日々をおくっていたが、女性の存在なんてまったく書かれていない。

ところが写真つきの中国語のサイトによれば、その時いっしょにいた数少ない女性の留学生が朱徳と結婚していたとなるらしい。

中国語なので詳細はわからないけれど、ありえる話だと納得できた。

実際はどうなのかわからないけれど、正式な結婚ならば重婚になるし、同志としていっしょにすごした女性とするなら「不倫」になるし、いずれにせよ扱いがデリケートになる。

『偉大なる道』ではこの女性についてはまったく触れられていない。

当時としては恵まれた境遇の女性だから、どんな人生をおくったのかしら。


その後帰国して革命途上で呉玉蘭という作家であり活動家でもある女性と結婚したが、これは平和な時代であればはっきり重婚になる。

しかしこれについては朱徳は、遠く離れていて普段会えない妻も自分の活動をしていて、革命事業に忙しい夫といっしょに住むことはないと悟っていたとスメドレーに説明していた。

後にこの妻は朱徳のもとに逃避行中に、国民党の軍隊に殺されてしまった。


最後は康克清と結婚し、建国後豊かな晩年をすごした。


スメドレーはこの本の中で何度か朱徳のことを男性的だったと語っていたが、結婚生活の語りを読み返すと、男性として誠実でノーマルな人物像が浮かび上がってくる。



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# by far-east2040 | 2017-09-11 17:30 | 朱徳の半生

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中国が多言語国家であることに気づくまで、日本は日本語を母語にする人々の国であり、韓国は韓国語を母語にし、中国は中国語を母語にする人たちの国だと漠然と捉えていたように思う。


ところがアジアのことをいろいろ知るようになって、学校教育を受けた中国人は中国語とは別の地域ごとの言語を母語にしているバイリンガルであることを知って、英語コンプレックスを持っていたこともあって驚いたものだった。

他国では単なる方言にすぎないものを言語といってるのかな。

それと地域ごとの言語がどれほどの違いがあるのだろうか。

これは未だによくわからないままだ。


「日本語と沖縄の言葉を話せます」
「日本語と大阪の言葉がわかります。あと京都の言葉も少し」なんていう日本人はほとんどいないと思うので、単なる方言ではないことは理解している。

実際に中国で母語で話している人たちの会話は母語が違う人にはまったくわからないことは見聞で知っている。

やはり「日本語と英語が話せます」に等しい能力かな。


むかし接した中国人は中国語とは別にモンゴル語、朝鮮語、客家語、広東語、台湾語などを母語にしていた。

話したことのある中国系フィリピン人はフィリピン語とは別に福建語がわかるといっていた。
さすがに中国語は習得する機会はなかったと思うが、英語はできたはずだ。

インドも中国に似たような言語情況がある。


多少の違いはあっても同じアルファベットを使っているヨーロッパで考えてみれば、例えばドイツ人とスペイン人は互いの母語はまったくわからない。
フランス語と英語は別言語だ。

ヨーロッパと中国の領土はあまり変わらないように見えるので、中国で北方の言語と広東などの南方の言語が別言語と言われたら納得できそうだ。

中国は建国後本格的に中国語という標準語を教育を通じて普及させたので、中国人どおしの意思疎通は困らない。

ヨーロッパでもかつてのエスペラントという人工言語を普及させる運動があったけれど、無理な話でもなかったのかなとちょっと思う。


話を戻すと、日本と韓国のような少数の国を除けば、アジアで少なくとも大学教育を受けた人たちは言語に関しては複数の言語理解者だ。

英語を「ご主人さまの言語」と捉える時代はもうとっくに終わっている。


日本人が日本国内でバイリンガルになるのはほんとむずかしい。

因みに日本でバイリンガルを育てている教育機関はKoreanChineseの民族学校だと思う。

あとInternational Schoolも?

好き嫌いがあると思うが、言語習得の面だけを考えたら、ユニークな教育環境にある。


『偉大なる道』では朱徳は自らの言語環境についても語っていて、そこが多言語社会に生きる中国人らしいと思う。

朱徳の一族は何代も前に南部の広東から移住してきた人たちで客家だった。1886年生まれの朱徳は自分たちの親の世代までは広東で使っていた客家語を使っていたが、朱徳の世代になって客家語と四川の言葉を両方あやつれるようになったという。


1916年生まれの作家ハン・スーインも四川生まれだが、伝記の中で客家語は自分たちの親の世代あたりで使われなくなったと書いていた。
こういうことを語るところがなんとも中国らしい。


太平天国の乱の指導者や兵士たちは客家が多かったので、彼らの母語は客家語だった。

広東出身の孫逸仙や四川省出身の朱徳を始めとするトウ小平や陳毅など有名無名の建国の功労者たちの多くは客家語を母語とする人たちだった。

当然のことだが、湖南省出身の毛沢東は客家語で話されている会話はまったくわからなかったはずだ。

なお現在客家語の推定使用者は5500万人ほどらしく、客家を自称する人たちのおおよそ半分ぐらいになる。

広東など中国南部や台湾、海外の華僑たちの住む地域で残されていることが多いらしい。

あと香港で話されることが多い広東語も独特の世界観を持っている。


アジアの言語のことを考えていると、迷路にはまったような感じになるのでここで終える。


この本では、朱徳の言語に関して言文一致運動の影響についても少しふれている。
朱徳は科挙に合格した知識人として、中国の古典語である「文理」の読み書きができた。

1910年代あたりでこの「文理」を排除する言文一致運動が起こり、当時知識人であった若者の多くはこの影響を受けて、型にはまらないやさしい話し言葉を習得していった。


朱徳は四川省で挫折の日々をおくっていて、この流れに加わることができず、ずっと後になって「文理」に代わる新たな言語を努力して獲得したと書いてある。

このことは朱徳のコンプレックスの一つになっていたようだ。


一般的に中国人は異なる言語が混在する環境に慣れているような気がする。



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# by far-east2040 | 2017-08-12 14:23 | 朱徳の半生

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数年前にハリウッドの女優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースの中で、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしている事実を知ってちょっと驚いた。


もう数十年もむかし外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように子どもたちが立っていて、その中に明かに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして日本でも韓国でも外国の子どもを養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。


同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知り、当時は奇異に感じたものだった。


養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないだろうが、経済的な余裕だけで語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じてきた。


儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。


朱徳も養子であった。

朱徳の家は祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちで構成されていた。


「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」


家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配を奮って一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意を持って扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。


一方で子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たよなものだったと思う。


朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。彼はそのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。


「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」


当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。


儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札としてこういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。


韓国では再婚した女性の前夫の子が姓を変えることは可能らしいが、今でも子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。


日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で繋いできている。天皇家もそうだ。婿養子を認めてきていないところが共通している。


あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

二人は孤児を何人か養子にして慰みを得てきたようだが、その一人は朱徳の雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は女優志望というだけあって、目鼻立ちが整った美人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。


ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに身寄りのない女の子を養女にした。


男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきている。



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# by far-east2040 | 2017-07-28 14:10 | 朱徳の半生