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蒋介石による井岡山地方封鎖命令が出された頃、朱徳将軍は広東省から進撃してきた封鎖部隊を切断するための牽制作戦を行おうと、紅軍三個連隊を率いて、南部湖南へ進撃した。

旧雲南軍時代の朱徳の旧友范石生将軍が友情を裏切り、反革命の側へ寝返っていたからだった。

朱徳は彼に教訓を返してやろうと決意した。


范将軍の諸部隊は南湖南のある都市を占拠し、大量の弾薬を蓄えていた。

朱将軍の部隊が突然この町を襲ってきたので、野外で訓練していた范将軍の部隊数個中隊は度肝を抜かれて何もできなかった。

ただちに范将軍の全兵士の武装解除が行われた。

さらに朱徳は数百人の敵兵が講義を聞いている大きな公会堂へ平然と入っていった。

敵兵が机にかけたままびっくりして眺めているあいだに、彼の部隊は公会堂の壁にかかっている小銃と弾薬を取り上げてしまった。

さらに残りの部隊は天秤棒と縄で弾薬箱をせっせと運び出していた。


范将軍の部隊が体制を取り戻すころには、朱徳の部隊は山のような分捕り品をかついで山に帰っていった。

その途中で彼らは二個連隊を率いて救援にきた毛沢東に出会い、井岡山の封鎖がほとんど完璧に近いという報告を聞いた。

彼らは行軍しては重荷をおろして襲撃してくる敵軍とたたかって追っ払いながら、ついに朱徳と毛沢東は曲がりくねった細い道にたどり着き、荒涼たる井岡山の山中に登っていった。


「井岡山の基地から、われわれは、敵軍を、見おろすことができた」と朱将軍はかたった。

「敵の動きは、全部わかった。やつらが、食事のしたくをするのまで、われわれは見張っていた。
月がまんまるくなる仲秋節の最期の晩、われわれは、一つの山道のふもとに露営していた敵軍六個中隊を、捕虜にしようとして、数個部隊を下山させた。
二時間後に、彼らは、敵兵をつれ、その補給物資をもって、山道をのぼってきた。
農民出身のこの六個中隊は、わが軍に参加した。
一週間後には、封鎖部隊一個大隊が、脱走して、わが軍に加わった。
この連中は、四川の部隊で、この私も四川人だということをきいて、やってきたのだった」


9月の終わりには戦線は凍結状態になり、12月になると紅軍は飢餓に悩まされ始めた。

病院や兵舎に充満していた五千人の兵士のほとんどは飢餓から病気になったもので、肺炎や結核にかかっているものもいた。

雨が続き、寒い気候になっていたが、あたたかな服を着ているものはほとんどいなかった。


12月の半ばころ、彭徳懐が千人の兵士を率いて、北方から山岳地帯へやってきた。

彼は四千人の部隊を育てたが、半数は戦死してしまい、千人の兵力を黄公略の指揮下に残し、その残りを率いて井岡山にやってきたのだった。
半数は農民だった。


彭徳懐が到着してから会議が召集され、敵の封鎖を突破する計画がつくられた。

彭徳懐は千五百人の兵力と病人、負傷者を預かって山上に残り、毛沢東と朱徳は政治部の婦人も含めた残りの四千人を率いて封鎖を破り、ゲリラ戦を行い敵軍の勢力を分散させることになった。

この同行した婦人の中に朱徳の三人目の夫人呉玉蘭もいた。


この遠征に参加した男も女も1ポンドの米のご飯を携帯する袋に入れて持っていくことになった。

いくつかの前衛分隊には各人数発の弾薬を支給されていたが、弾薬の残りはすべて井岡山に残しておくことになった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-03-24 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳は井岡山の一帯をくまなく踏破して、地形と防御方法を研究し、匪賊になった農民たちの指導者王佐や袁文才と語り合った。

この二人は自分たちと同じ匪賊の一人であった「つんぼの老チュウ」の話を朱徳に語った。

この老チュウはよくこういったそうだ。


「おまえらは、戦さのやり方なんぞ知らんでもええ。おまえらが知っとらねばならんことは、どうして敵を囲むかということだけじゃ」


王や袁はこの教えを忠実に守ったので、彼らの一生のあいだ、井岡山の守りは一度も突破されたことがなかった。

しかも彼らの部下は弓矢などという原始的な武器でしか武装していなかったという。

大砲は中をくりぬいた木の幹でできていて、中に火薬や鉄や鉛の破片を詰めて、敵が近づいたら導火線に火をつけて大砲ごと爆死させた。


朱徳もこの老チュウの戦術から多くのことを学んだ。

国民党軍は前面と左右両翼に防衛隊を配置して、一縦隊で前進するという日本軍が常用する戦術を使っていた。


朱徳たちの軍は、迅速に行動できるいくつかの小戦闘部隊に分散し、敵の背後と両側面へ迂回して急襲し、敵をばらばらに寸断するという戦術をとった。


この戦術は学べば誰でも使うことができたので、軍閥たちもこの戦術を使おうとしたが、結局失敗した。


こういうゲリラ戦には、戦場の地勢についての完全な知識が必要であるばかりでなく、なによりも一般人民の支持が必要だからだ。

人民は、国民党軍閥を憎んでおり、その動静をさぐり、その小部隊や落伍兵を待ち伏せして、殺し、輸送部隊を捕虜にしたりした。

その結果、敵軍は、遠くからやつらの動きを見張っている。

はだしの百姓を、一人でもみつけると、たちまち恐怖におそわれて、前進を中止するという時代がきたわけだった」


紅軍第四軍は1928年の6月の第一週、井岡山周辺の6つの県で、地主と軍閥に対して攻撃を始めた。

たった一週間で紅軍は3つの区から敵軍を一掃し、軍需品を奪い、1200人を捕虜にした。

区役場に人民代表会議が樹立され、各村々にも下級人民代表会議がつくられた。

土地は農民に分配され、農民は武装し訓練された。

婦人や青年、労働者の同盟が建設されて、ここで婦人は男に従属するという昔からのしきたりが取り払われた。


江西省中央部から派遣されてきた敵の諸部隊は追い返された。

子どもも老人もできる限りの働きをした。


その当時大都市の外国新聞や中国新聞には、革命軍のことが「紅匪の残虐行為」として紙面でさかんに活字になっていた。


蒋介石将軍は競争相手の軍閥と一時的に休戦協定を結んで、四万の軍隊で井岡山地方を3つの省から包囲し、「紅匪」を餓死させるように命令した。


この井岡山地帯を北方から封鎖するように命じられた湖南の諸師団の中に二人の若い士官がいた。

一人は大隊長黄公略であり、もう一人は臨時に一個師団の指揮をとっていた連隊長彭徳懐であった。

この二人はその後中国革命の歴史上目覚しい役割を演じることになった。

もう一人若い中隊長クン・ホー・チァンもいたが、1930年代に蒋介石側に寝返ってしまった。

この3人の国民党士官はみな共産党の秘密党員であった。


彼らの諸部隊は井岡山の北方地帯に駐屯していて、封鎖を圧縮するように命じられたとき、彭徳懐は旅団を率いて叛乱を起こした。

混乱状態の後、彭徳懐は二千人の部隊と数百人の鉱夫を引き連れて農村へ入り、ゲリラ地帯を作り上げたのであった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-03-23 09:00 | 朱徳の半生

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井岡山会議は朱徳の軍と毛沢東の軍を再編成して、一つの軍に統一することを決定した。

この統一軍の隊員は旧第四軍の出身者が多かったので、紅軍第四軍と呼ばれた。

この会議では主たる3つの規則が採決された。

1 農民から、たとえ針一本、糸一すじといえども、とってはならぬ。
2 没収したものは、すべて提出せよ。
3 命令に服従せよ。

これにさらに「借りたものは、すべてかえせ」「こわしたものは、すべて弁償せよ」などの8つの規則が定められた。

この会議では、井岡山をとりまく6つの県や郷を土地革命の基地に転化した上で、さらに江西省や隣接する省内にまだ存在するほかの基地を合体していくことが決定された。
そして土地は補償なしに没収され、農民に分配していき、農民や一般人民は組織されて、武装し訓練を受け、できるだけ教育も受けさせることも決定された。

その当時、朱徳はこういう意見を述べていた。

「われわれには、いろいろなものが必要だが、何ひとつ持ってはいない。
だから、山のなかに野菜畑をつくり、米は、まわりの地主から没収してきて、将来のために、山のなかに貯えるのだ」

軍の再編成に際して、朱徳が総司令官に、毛沢東が政治委員に選ばれ、
毛沢東が紅軍と大衆とのあらゆる党活動と部隊内のすべての政治教育工作を指導することになった。
政治部は軍閥への堕落を阻止する「紅軍の生命線」であった。
朱徳の説明によると、政治部の目的は

「国の解放とわが人民の解放とに献身する、教育をうけた、意識の高い、鉄のようにきたえられた、革命軍をつくることである」

各部隊は革命の歴史、中国に対する諸外国の侵略の歴史、大衆指導と組織化の方法について教えられ、兵士たちは敵に対する宣伝のやり方、歌をうたうことや演説のやり方まで教えられていた。

井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。
1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ二百ページの小さな本になっていた。
この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。


この本には歌や短い詩、紅軍の規則、共産党の歴史と原則についての短い論文、さらに紅軍が祝う記念日の一覧表などが載っていた。
インキのしみだらけの色褪せた赤い布表紙のこの小さな本をやさしくなでまわしながら、朱徳は井岡山の荒々しい岩山や緑豊かな自然をじっと思い浮かべていた。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-03-22 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳軍は毛沢東の二個大隊に導かれて、山の中の行軍を続けた。

この行軍を阻止しようとする敵の部隊を粉砕し、井岡山へ登る5、6本の細道の一つをうねりながら登っていったのである。


井岡山はまわりが150マイルもある山岳地帯の総称だった。

美しい景色に囲まれた地域だったが、一年の大半は霧に包まれていた。

このあまり生産物に恵まれない山地の真ん中に、木々に覆われた傾斜地に囲まれた広くて丸い谷が横たわっていた。

むかし「匪賊になった農民たち」がここに5つの村を作り、ずっと続いてきた場所だった。


朱徳の部隊はこの谷の中や周辺に兵舎、訓練学校、病院、兵器廠などの施設を建てた。

こうしてすでに毛沢東が農民の間で始めていた土地革命のための訓練基地と司令部にふさわしい環境が出来上がっていった。

毛沢東はこの5つの村で、農民の指導者王佐と袁文才の賛同と援助を受けて、農民を組織して訓練を始めていた。


農民たちは猫のひたいのような野菜畑を耕し、筍や茶、薬草を売って生活していたが、それだけでは暮らしていけないので、結局最後には遠方の町を襲撃して掠奪していたのである。


「中国では、匪賊と地主とは、いつでも、手をにぎっていた」と朱将軍はかたった。
「地主制度は、貧乏と無知とをそだてた。
しばしば農民は毎年、すくなくとも、一年の一部分は、匪賊にならざるをえなかったのだ。
井岡山地方と同じように、匪賊化した農民が、指導者のもとに組織化された場合には、地主は、その指導者と協定をむすぶ。
われわれが、この山にはいる前には、王佐と黄文才は、地主から、わずかばかりの貢物を受けとって、そのかわりに、彼らを平和にしておいたのである。
地主どもは、『われわれをおそわず、ほかの地主をおそってくれ』といっていた。
われわれが、土地革命をはじめ、地主の土地と財産を没収し、それを農民に分配するようになってから、これらのことは、すっかり変った。
そこで、地主どもは、われわれをやっつけるために、国民党軍を呼びよせたのである。


国民党の部隊は井岡山をめぐる6つの県の主な都市や町を守っていた。

朱徳軍がこの山岳地帯に到着した直後の共産党会議で、井岡山を基地として工農委員会を建設し、ここから革命をたえず広い地域へ拡大していく方針が採決された。


朱将軍は、この会議のことを、「反革命がはじまって以来、もっとも重要な党会議」だったと、かたっている。


毛沢東は、この会議で採決された軍事戦略と政治戦略の基礎になる中国革命戦の5つの基本的特質を指摘した。

1 毛沢東によると、中国は不均衡な政治的発展を持つ半植民地国家である。
 中国は豊富な資源をもつ広大な国家である。
 反革命的ブルジョアと封建的地主階級を代表する国民党が国を支配している。
 革命軍が弱体であり、現在は山岳地帯にある。
 土地革命と指導を共産党が行っている。

毛沢東は、そのときにもこうのべたし、またその後も同じことを書いている。
すなわち、革命軍が存在し、かつ拡大することができたのは、革命軍の隊列が土地革命から出ているからであり、また、その指揮官と下級兵士とが政治的に一つであったからである。
これに反して、国民党と地方軍閥の軍隊とは、土地革命に反対し、農民からなんらの援助も受けることができず、その隊列はたえざる政治的意見の対立でばらばらに分裂しており、したがってその将校は、兵士や下士官を奮起させて、死をかえりみずに戦わせることができなかったのである。


朱徳は軍事的戦術を要約した。

「敵が進めば、われらはしりぞく。
「敵が宿営すれば、われらは攪乱する。
「敵が戦闘をさければ、われらは攻撃する。
「敵がしりぞけば、われらは追撃する。


                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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# by far-east2040 | 2017-03-21 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳軍は戦いながら東方へ撤退していき、5月にレイ県地区に野営して井岡山へ登っていく準備をした。

その頃、毛沢東と戦ってきた江西省の国民党軍はレイ県の主な郷役場の所在地を占領していた。

この連中が湖南省との通信連絡網を破壊してしまったので、毛沢東は連絡ルートを再開するために、井岡山から一挙に攻めくだった。

毛沢東は二個大隊を率いて、みずからレイ県の朱徳に会いにやってきたのである。


土地革命の二つの主流が結びつく、このささやかな会合こそ、中国史上最代の出来事の一つとなったのである。
朱徳は、毛沢東を見たことはあったが、秘密会議のさい、うす暗い部屋のなかで、ながめたというにすぎなかった。
だから、この二人が、まだ、本当に会ったことはなかったのだ。
レイ県ではじめて、会合したときから、この二人の男の全生活は、渾然と一体になり、あたかも、一人の人間の両手のようになった。
その後数年間というもの、国民党や外国の新聞は、この二人を「紅匪の頭目、朱毛」と書きたてたり、紅軍のことを「朱毛軍」とよんだりした。


この二人の男は驚くほど似た点が多かったが、大きな違いもあった。

毛沢東は朱徳よりも10歳若く、1937年の現在42歳だった。

どちらも教育を受けた農民で、1911年の革命以来あらゆる革命闘争に参加してきた。

毛沢東は「五・四運動」で指導的役割を演じたが、その当時朱徳は四川省軍閥の泥沼のなかで混乱しながら、もたついていた。


毛沢東は湖南省最初のマルクス主義研究会を組織し、共産党を創立した第一回党大会の代議員になり、その後主たる党指導者の一人になり、国民党中央委員会の委員にもなった。

彼は強い迫力と洞察力をもった文筆家であり、時には詩人でもあった。


風采や気質の点では、朱徳の方がはるかに毛沢東よりも農民的であった。

二人とも農民のように率直でむき出しでかつ実際的であったが、毛沢東は基本的にインテリで、彼の独特の思弁的精神は絶えず中国革命の理論的諸問題と取り組んでいた。

彼は女性的な鋭敏な感覚と直観力を持っていたが、同時にあらゆる自信と決断力を持った非常に男らしい男でもあった。


二人とも強情でねばり強かったが、朱徳の方がよりはっきりしていた。

朱徳は政治的にも深い理解力を持っていたが、むしろ行動の人であり軍事的組織者であった。


しかし朱徳の性格には奇妙な矛盾があった。

頭のてっぺんから足のつま先まで男性的で、焼きを入れた鋼鉄の棒のように行動したが、内に強い謙遜の念があふれていた。

後年、この謙遜の念については毛沢東をしばしば怒らせたという。


朱徳の出身が貧農であるとか、教養と学問のある人に対する農民が持っている尊敬の念からだけではなく、彼が若いとき軍閥の一員としてすごした時代に根ざした無意識的な罪悪感にもとづいているとスメドレーは考察した。


朱徳は人間の性格と誠実さを見る力に恵まれていたので、毛沢東に会ったとき、これからの後半生をこの男の判断にまかせることができると認識したようである。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-03-20 09:00 | 朱徳の半生