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中国が多言語国家であることに気づくまで、日本は日本語を母語にする人々の国であり、韓国は韓国語を母語にし、中国は中国語を母語にする人たちの国だと漠然と捉えていたように思う。


ところがアジアのことをいろいろ知るようになって、学校教育を受けた中国人は中国語とは別の地域ごとの言語を母語にしているバイリンガルであることを知って、英語コンプレックスを持っていたこともあって驚いたものだった。

他国では単なる方言にすぎないものを言語といってるのかな。

それと地域ごとの言語がどれほどの違いがあるのだろうか。

これは未だによくわからないままだ。


「日本語と沖縄の言葉を話せます」
「日本語と大阪の言葉がわかります。あと京都の言葉も少し」なんていう日本人はほとんどいないと思うので、単なる方言ではないことは理解している。

実際に中国で母語で話している人たちの会話は母語が違う人にはまったくわからないことは見聞で知っている。

やはり「日本語と英語が話せます」に等しい能力かな。


むかし接した中国人は中国語とは別にモンゴル語、朝鮮語、客家語、広東語、台湾語などを母語にしていた。

話したことのある中国系フィリピン人はフィリピン語とは別に福建語がわかるといっていた。
さすがに中国語は習得する機会はなかったと思うが、英語はできたはずだ。

インドも中国に似たような言語情況がある。


多少の違いはあっても同じアルファベットを使っているヨーロッパで考えてみれば、例えばドイツ人とスペイン人は互いの母語はまったくわからない。
フランス語と英語は別言語だ。

ヨーロッパと中国の領土はあまり変わらないように見えるので、中国で北方の言語と広東などの南方の言語が別言語と言われたら納得できそうだ。

中国は建国後本格的に中国語という標準語を教育を通じて普及させたので、中国人どうしの意思疎通は困らない。

ヨーロッパでもかつてのエスペラントという人工言語を普及させる運動があったけれど、無理な話でもなかったのかなとちょっと思う。


話を戻すと、日本と韓国のような少数の国を除けば、アジアで少なくとも大学教育を受けた人たちは言語に関しては複数の言語理解者だ。

英語を「ご主人さまの言語」と捉える時代はもうとっくに終わっている。


日本人が日本国内でバイリンガルになるのはほんとむずかしい。

因みに日本でバイリンガルを育てている教育機関はKoreanChineseの民族学校だと思う。

あとInternational Schoolも?

好き嫌いがあると思うが、言語習得の面だけを考えたら、ユニークな教育環境にある。


『偉大なる道』では朱徳は自らの言語環境についても語っていて、そこが多言語社会に生きる中国人らしいと思う。

朱徳の一族は何代も前に南部の広東から移住してきた人たちで客家だった。1886年生まれの朱徳は自分たちの親の世代までは広東で使っていた客家語を使っていたが、朱徳の世代になって客家語と四川の言葉を両方あやつれるようになったという。


1916年生まれの作家ハン・スーインも四川生まれだが、伝記の中で客家語は自分たちの親の世代あたりで使われなくなったと書いていた。
こういうことを語るところがなんとも中国らしい。


太平天国の乱の指導者や兵士たちは客家が多かったので、彼らの母語は客家語だった。

広東出身の孫逸仙や四川省出身の朱徳を始めとするトウ小平や陳毅など有名無名の建国の功労者たちの多くは客家語を母語とする人たちだった。

当然のことだが、湖南省出身の毛沢東は客家語で話されている会話はまったくわからなかったはずだ。

なお現在客家語の推定使用者は5500万人ほどらしく、客家を自称する人たちのおおよそ半分ぐらいになる。

広東など中国南部や台湾、海外の華僑たちの住む地域で残されていることが多いらしい。

あと香港で話されることが多い広東語も独特の世界観を持っている。


アジアの言語のことを考えていると、迷路にはまったような感じになるのでここで終える。


この本では、朱徳の言語に関して言文一致運動の影響についても少しふれている。
朱徳は科挙に合格した知識人として、中国の古典語である「文理」の読み書きができた。

1910年代あたりでこの「文理」を排除する言文一致運動が起こり、当時知識人であった若者の多くはこの影響を受けて、型にはまらないやさしい話し言葉を習得していった。


朱徳は四川省で挫折の日々をおくっていて、この流れに加わることができず、ずっと後になって「文理」に代わる新たな言語を努力して獲得したと書いてある。

このことは朱徳のコンプレックスの一つになっていたようだ。


一般的に中国人は異なる言語が混在する環境に慣れているような気がする。



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# by far-east2040 | 2017-08-12 14:23 | 朱徳の半生

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数年前にハリウッドの女優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースの中で、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしている事実を知ってちょっと驚いた。


もう数十年もむかし外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように子どもたちが立っていて、その中に明かに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして日本でも韓国でも外国の子どもを養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。


同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知り、当時は奇異に感じたものだった。


養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないだろうが、経済的な余裕だけで語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じてきた。


儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。


朱徳も養子であった。

朱徳の家は祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちで構成されていた。


「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」


家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配を奮って一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意を持って扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。


一方で子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たよなものだったと思う。


朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。彼はそのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。


「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」


当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。


儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札としてこういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。


韓国では再婚した女性の前夫の子が姓を変えることは可能らしいが、今でも子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。


日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で繋いできている。天皇家もそうだ。婿養子を認めてきていないところが共通している。


あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

二人は孤児を何人か養子にして慰みを得てきたようだが、その一人は朱徳の雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は女優志望というだけあって、目鼻立ちが整った美人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。


ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに身寄りのない女の子を養女にした。


男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきている。



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# by far-east2040 | 2017-07-28 14:10 | 朱徳の半生

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この本は朱徳が、どのような時代背景の中で問題意識を持ち、なおかつ挫折を繰り返しながら共産主義者になっていったかが描かれている点が一番の特徴だと思っている。


朱徳のファンだからといって個人的に、「共産主義万歳」「人類を救うのは私有財産制度を否定した共産主義以外ない」「資本主義の否定」「だから中国人はすばらしい!」「中国は偉大」などなどよくわかっていないことを声高に述べようと考えているわけではない。

強いていえば、中国革命をもたらした人々の情熱、友情に魅力を感じているということだ。


朱徳たち紅軍や中国共産党が江西省から出発し1万2500キロを徒歩で行軍し、北部にある延安にたどりつくまでの長征が完了したとき、作家の魯迅は中国共産党が無事に生き延びたことを喜び「中国の未来はあなた方に託す」という内容を打電したという。


1916年生まれの作家ハン・スーインは革命前の中国で、皮と骨だけの痩せて丸くなった苦力(クーリー)の背中、壁際に捨てられた新聞紙に包まれた赤ん坊の死体、工場で目が見えなくなるまで酷使された挙句に戸口に捨てられた少年の姿などそれまでに見てきた悲惨な情況を語り、「あの時代の中国を救えるのは中国共産党しかなかった」と率直に語っていた。

因みに彼女は日本軍による重慶爆撃も現地で体験し、悲惨な情況を本に書き残している。
日本では映画『慕情』の主人公としてだけあまりにも有名になりすぎた感じがする。


革命の最中ハン・スーインの妹やベルギー出身の母親(この女性は結婚時にベルギーで中国国籍に変更している)は海外へ逃れたが、義和団の乱後にベルギーで鉄道技術を学び、帰国後は鉄道技師として働いてきた父親は中国に残った。


朱徳のもとで指揮官として活躍し、建国後は外務大臣までやった陳毅が四川省にいた父親を訪問し、留まって技術者として建国に協力してほしいと要請したという。

そういうわけで、彼女自身は建国後の中国に住むことはなかったが、何度も父親のもとを行き来し、文芸活動を通じて亡くなるまで中国を支援していた。


もし私があの時代を生きる人間として生まれていたら、魯迅やハン・スーインや多くの大衆のように共産主義の方が人間らしい国家を目指していると判断できるそういう人間でありたいとは思っている。


蒋介石を代表とする国民党支持者たちは、中国の特権階級は古来悲惨な情況の人間の大多数の犠牲のもとで成り立ってきたので、今更変えようがない仕方がないと考えていたようだ。

だから圧倒的多数の自国民の犠牲で成り立つ近代国家を目指した。

朱徳たちは国民の80パーセントを占める農民や労働者を圧迫してきた封建制を否定し、彼らを納得させる国家理念を提示することなしに中国は外国勢力を排除した独立国家になりえないと捉えて、粘り強く戦ってきたのだ。

それが当時は西洋から導入された共産主義やマルクス・レーニン主義だったというわけで、それが別のXイデオロギーだったとしてかまわなかったように見える。


『偉大なる道』では、19世紀に起こった太平天国の乱をブルジョア民主主義革命の起点と捉えて、それから64年後になって朱徳や毛沢東が創建した紅軍がこの太平革命を熱心に研究して、法や戦術を多く学び、同じ過失を繰り返さないことを決意したことが一貫して語られている。

そして文字を知らない農民たちを含めて民衆は、負けた英雄たちの物語を記憶するまで心の中に刻んできた。


一方ハン・スーインも自伝の中で太平天国の乱を勝者の側から詳しく語っている。

彼女の父方の祖母は太平天国の乱を制圧した清朝側についた有名な曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。

自伝を書くために集めた文字で書かれた祖先の英雄伝は多数あり、太平天国の指揮官や兵士は謀反を起こした犯罪者として描かれていた。

そこで彼女は自分の先祖は間違った選択をしたとしみじみ振り返る。


私は太平天国の乱は世界史で言葉を知ったぐらいであまり知らなかったので、中国ではすごく大事な出来事だったと感慨深いものがあった。

学校でよくわからないまま記憶してきた歴史用語に実態をともなった感じだった。
歴史を学ぶためには時間がかかる。


太平天国の乱が中国の国土を耕し、そこへ孫逸仙が同志とともに種をまき、苗を踏まれても諦めずにまき続け、やがて朱徳たち紅軍も種をまきながら、こぼれ種から育った苗を含めて大きく育てていき、ついに独立国家を建設したというふうに考えると私の頭の中はかなりすっきりしてくる。


朱徳は中国共産党は数千年の歴史をもつ中国文化の最良の伝統、つまり勤勉と忍耐と学問に対する尊敬を受け継いだと語っている。

さらに大革命と土地革命と抗日戦争の経験を積み重ね内容的に成長していく中で、共産党はマルクス・レーニン主義を中国化し、われわれの歴史的遺産を中国社会の当面の必要に適合させたと述べていた。


中国革命の勝因と強さはこの朱徳の言葉で言い尽くされていると思う。


建国後の中国の政治のことはあまり詳しくないが、国土がヨーロッパ全土ぐらいあり、香港、台湾や少数民族の問題、都市と農村部との格差など中国を治めていくことのむずかしさを外野から眺めて感じている。

政治は綺麗事ではないので、裏側は想像以上にどろどろしているのだろう。

中国は領土も人口も桁違いの国なので、問題がそんなに簡単に解決されるはずがない。


ただ何世紀も続いた封建主義を取り払い、外国勢力に侵略されない独立国家を苦難の歴史を経て一旦は創ったという経験が、今流行りの言葉でいえば「凄い」と思っている。



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# by far-east2040 | 2017-07-08 12:17 | 朱徳の半生

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客家(ハッカ)いう言葉はアジア図書館に勤めていた頃初めて聞いた。
それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。
どうやら中国の歴史において被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。


台湾人の女性留学生が「私も客家です」といっていたのが耳に残っていて、こういう風に表現するんだわなんて思ったものだ。

このいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり客家語が母語かも知れないことがわかる。


四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。

彼女は読書人階級だったおかげで文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページを割いて説明していた。

こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。


同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。

中原呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。

ハン・スーインの自伝では、確かイングランドかスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。

中国らしいスケールの大きさを感じる。

しかも現在客家を自称する人は1億を越えるだろうというから、一つの国と考えてもよさそうだ。


客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。

客家の典型的な住居は何家族も一緒に住む丸い家で観光地になっていることがある。

なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。


さらに何世紀も経て広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。

ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え学問を身につけていって、やがて読書人階級を形成するまでになったという。

四川省出身の政治家トウ小平や朱徳の配下にいた陳毅も似たような階級形成の歴史を持つ一族と思われる。


朱徳の一族も広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。


「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」


朱徳の家族は80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。
朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。


先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。

世の中の不正義に対して敏感であることや勤勉であることも客家の特質として語られる。

海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。


有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも客家が多かった。

孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。

その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東も客家について論文を書いている。

革命途上で客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。

客家の歴史への興味は尽きない。



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# by far-east2040 | 2017-06-30 23:34 | 朱徳の半生

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この本は朱徳の波乱万丈の半生記だけでなく、封建社会での農民の暮らしが細かい所まで書かれている。

作家ハン・スーインは朱徳と同じ四川省の生まれだが、何代も前から読書人階級として暮らしてきた名門出身なので、自伝では特権階級の暮らしぶりが書かれている所が興味深かった。

それに比べると、朱徳の生まれた家の暮らしのつつましさには驚くことが多かった。


この本は中国だけでなく東アジアの封建社会での民衆の習俗を考える材料も提供してくれた感じがする。


たとえば、男子の名前について考えてみると……。


現在の韓国では、一族の男子の世代ごとに行列字を設定して名前の一字に使い、どの世代に属する人間かわかるようにする慣習を残していることが少なくない。


韓国の前大統領朴槿恵氏の父親の元大統領朴正煕の名前は煕という漢字が行列字だと思っている。
朴正煕の同じ派に属する一族で従兄弟を含めた横広がりの同世代の男子は朴○煕という名前になっていることがほとんどというか多いはずだ。

これは現在名目上だけになっているかも知れないし、必ずしも保持されている一族が日本語の「名門」と考えるものではないと思っている。


作家ハン・スーインの生まれた家は何代も前から商売に成功し、息子たちは学問を身に付け、一族のものは労働をする必要がなかった。

使用人をたくさん雇い、女たちも日中から集まって麻雀をするなど家事労働を一切しなくても生活はまわっていく家だった。


この作家の自伝を読んでいたときに、韓国の行列字に相当するものが書かれている箇所があり感動した覚えがある。

韓国での行列字に相当するものを中国では輩字と呼ぶらしい。別の呼び方もあるかも知れない。

当然これは中国大陸から朝鮮半島に伝わったものだろう。

ハン・スーインは一族を語るときに、曽祖父の世代から父親の世代の輩字について必要な情報として何のてらいもなく紹介していた。


個人的に韓国の行列字は身近に感じて調べたことがあるので、「あ、一緒だわ」なんて思いながらこのあたりはすーっと入っていけた。

ハン・スーインの家が特権階級なので、輩字や行列字を保持してきた一族は名門であることの条件の一つかなと密かに思ったものだった。


ところが、『偉大なる道』では朱徳も祖父や父や自分の輩字を名前に関する必要な情報としてさりげなく語っていた。

具体的には朱徳の長兄の名前はタイ・リーで、次兄はタイ・フォンそして朱徳はタイ・チェンで、タイが輩字で従兄弟たちも同じようにタイがつくはずだ。

ただ朱徳の家は貧農で、字が読めた人は一族にいなかったので、この輩字の情報は音と意味だけで伝承されてきたと思われる。


何代にもわたって重労働の農作業を繰り返してきて、誰ひとり文字も読めなかった朱徳の一族にも先祖代々輩字が伝わっていることが意外だった。


私の見識では、こういう慣習は日本にはまったくない。
男系の血縁集団を表す姓と家の名前になる苗字との違いも関連してるのかな。他の東アジアのように姓が一般に普及しなかったのが不思議だし、日本の独自性だと思う。


現在の中国では輩字を使用する慣習はまったくないはず。

『偉大なる道』に書かれているように、封建社会を一変させる大嵐のような出来事がすべてをひっくり返したからだ。

朱徳も息子の名前を名付けるときまったく輩字から自由だったように読み取れた。


北朝鮮についてはわからないが、韓国ではまだこの行列字を保持する集団は存在する。少子化、男女同権意識、キリスト教思想の普及などの外因で薄れてきてはいると思うが、社会の根底から払拭しようという動機がなかったからだと思う。


別に行列字があっても不都合はないし、一族にあっては優雅で誇り高い気分をもたらしてくれるものだが、女性は排除されているので、遅かれ早かれ時代の遺物になっていくことは間違いない。

おそらく発祥の地であった中国ではほとんど廃れたものが、韓国社会ではまだ生きているという構造になっている。


それと、建国前の中国では、姓は男系を表しているので神聖なもので不変だが、名前に関してはそうではないようだ。

幼い時の名前とは別に、学校に入学したときとか科挙に合格したときなど、人生の節目に心機一転を期して名前を変えてきたような記述が目に付く。
日本でいう戸籍名のような「本当の名前」という意識はあったのかな? 
実際、朱徳という名前も軍官学校に入学したときに自分でつけた名前だ!

科挙に合格したときは恩師につけてもらっている。


孫文も孫逸仙とか孫中山とかいろいろあって、私から見ればややこしい。


そういう伝統があるから、香港を始め、中国の都市部に住む若者が西洋の名前も持つことが多いし抵抗もないのかな。

日本でいうニックネームやネット上のハンドルネームとは違う独特の格式を持っている感じがする。


見識不足で断定できないが、こういう節目に名前を変えることも封建社会の名残なので、現代の中国にはないと思っている。韓国にもないと思う。

過去を清算したいという動機以外、現代社会で名前を変えることに利点はないと思う。


でも、ひょっとしたら、生涯にわたって本名は一字たりとも不変と捉えていることは世界的には少数かも知れないとも思ったりしている。
混乱してきた。




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# by far-east2040 | 2017-06-28 08:10 | 朱徳の半生