2017年 03月 19日 ( 1 )

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新しい妻呉玉蘭の悲惨な最期を語った後、長い間沈黙が続いたが、ようやく辛い思い出を振り切って、莱陽での勇気ある農民たちの物語を始めた。


農民たちはそれまでの数々の勝利に自信をつけて、自分たちだけで国民党の正規軍にぶつかっていったが、そのたびに大虐殺を被るのであった。

たとえば、工業都市である衞陽の町を占領した広西軍二個師団を追い出すために、正規の革命軍が来るのを待たずに自分たちだけで激突したこともあった。

指導したのは大劉と小劉という名で知られていた農民で、戦場で数千の農民とともに殺されてしまった。


その頃、水口山のアンチモン鉱山の鉱夫八百人が朱徳の軍に加わった。

もとは鍛冶屋で鉱夫になっていた宋・チャオ・センという男は古くからの共産党員で労働運動の組織者であった。

40歳になる宋は組合と研究会を組織するために、アンチモン鉱夫を指導して何度も流血の闘争を行ってきた。

棍棒と鉄の棒をもって、鉱山会社の武装した守衛と戦い、小銃30挺を分捕ったあと、朱徳の軍に参加するために行進してきたのであった。


ところが鉱夫たちの多くはまだ11歳か12歳の子どもだった。

朱徳は革命軍に従っていた大勢のほかの貧しい子どもたちと同じように、いつでも正規の教育が受けられるようにひとまず政治部に入れて、司令部付きの看護兵や伝令を務めさせた。


朱徳が鉱夫の話をしていた1937年には、彼らの多くは革命軍に残っていて、将来軍司令官や政治指導者になるために一生懸命働いていた。

しかし彼らの指導者宋はすでに戦死していた。


1928年4月、広西軍五個師団が湖南の革命軍に攻撃を開始してきたときには、朱徳軍は約一万の兵力になっていた。

しかしそのうち制服を着ていたのはたった二、三百人にしかすぎず、大部分は莱陽の女たちが「靴を作る運動」を起こして、綱とわらじでできた靴を補給してくれるまでは裸足だった。

強力な装備をもった広西軍や湖南の軍閥唐生智軍とのたびたびの戦闘から、朱徳たちはこれ以上戦闘を続けると全滅させられると判断した。

朱徳の旧友范石生将軍の部隊の援助も受けたが、結局大損害を被り、広東省へ追いかえされてしまった。


そこで、朱徳軍と毛沢東軍との共産党軍事委員会代表の合同会議が開かれた。
その決定にもとづいて、朱徳軍の主力は、湖南―江西の省境に近いレイ県に集結したうえで、戦略的山岳基地、井岡山へ撤退することになった。
彼らは、この井岡山を基地として、江西省西部と湖南省東部の全域とを農村革命の基地に化そうというわけであった。
朱徳軍の幹部の多くは、便衣隊をつれて、湖南省にのこり、活発に農民運動をつづけさせることになった。


朱徳がこの期間に改善し発展させた部門の一つは通信だった。

通信組織が網の目のように湖南省南部と江西省西部の全体を覆い、さらに地下組織を通じて敵側の区域にまで広がっていた。

すべて農民の人力で行われた。

一人の農民が3から6マイル走って、次の農民に手紙や報告、命令を渡し、その農民はさらに次の連絡場所まで走っていくというやり方だった。

舟を使えるときはもっと早かった。

敵軍から馬を捕獲してからは「早馬速達便」を開設した伝令も出てきた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-19 11:15 | 朱徳の半生