2017年 03月 10日 ( 1 )

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汕頭攻略に向かった「鉄軍」は、万一敗北したときには朱徳の部隊がいる三河埧に退却してくることになっていたので、朱徳はまだ戦闘が続いていると思っていた。


四日目に、南下してきた敵師団が舟が見当たらないので、対岸から朱徳の部隊に向かって砲撃してきた。

さらに驚いたことに「鉄軍」ではなくて、敵軍数個連帯が汕頭から朱徳の部隊めがけて北上してきたのであった。


朱徳は、彼の部隊と救援にかけつけてきた千名の武装した農民男女を山麓に待機させ、東方からの道を見下ろす地点で戦闘開始を命じた。

この戦いは一週間続いた。


救援にきた農民たちはいくつかの大隊に編成され、自発的に担架輸送隊を作り上げた五百人の女たちは戦場の片付けに活躍した。

彼女たちは少しも怯まず、負傷者を背後の村々に運んだ。

さらに老人と子どもの部隊もいくつか作られ、戦闘員のもとに食糧や水を運んだ。

はだしの農婦たちは司令部と部隊との間を行き来する伝令を務めた。

婦人の斥候は敵軍に関する詳細でかつ正確な情報を持ってきた。


汕頭の主力部隊からはまだ報告がない。

戦闘を始めて一週間、朱徳の部隊の損害は一千五百で正規軍の約半分におよんだ。

朱徳は持ちこたえることはできないと判断し、ついに退却を命じた。

船頭や農民兵に案内されて、朱徳の小さな縦隊は北方の山地へ向かった。

福建省に近い驍平の町で、朱徳の部隊は賀竜将軍の学生訓練支隊約三百人と出会った。

そのとき彼らから「鉄軍」の汕頭敗戦の悲報をきいたのであった。


強力な敵の増援軍が到着して、四日間の戦闘で、「鉄軍」はばらばらに分断され、粉砕された。

参謀部は戦闘部隊から遮断されてしまった。
朱徳はのちになって知ったのだが、彼らはある漁村にのがれ、そこからさらに香港へ密航した。賀竜と劉伯承は上海に向った。
それから、劉はモスクワへいって、赤軍の陸軍大学に入学した。
一方賀竜は、新しい軍隊をそだて、革命をつづけるために、揚子江をさかのぼって、湖南省西部のその故郷へかえった。
葉挺将軍と葉剣英将軍とは、香港にとどまり、そして、マラリアの高熱に悩まされて意識不明の状態にあった周恩来の看病をした。
病気が全快したのち、周もモスクワへいった。
葉挺と葉剣英とは華南にとどまって、十二月の広東コミューンで軍隊を指揮したが、これまた血なまぐさい敗北をこうむった。


「鉄軍」が汕頭で粉砕されたのち、農民指導者彭湃は分散した兵士を集めて奥地の海陸豊地方へ連れていった。

彼は集まった約二千人の兵士たちをパルチザンやゲリラ隊に組織した。

これらのパルチザンは農民たちといっしょに土地を没収し分配した。

そして中国で最初の小さなソビエト共和国つくるが、軍閥に荒らされて三ヶ月しか続かなかった。


スメドレーは1929年に広東の軍閥たちがお祝いに発行した写真入りのパンフレットを見たことがある。

そこには死体が秋の木の葉のように散らばっている写真や、立派に制服を着こなした国民党の将軍たちの写真と捕らえられ首をはねられた農民指導者たちのやせて鋭い顔とが並んでいた。


彭湃はこの地方にのこって、三十年代のはじめまで、地下の農民同盟を動かしていた。
その後、共産党の会議に出席するために上海へ行ったとき逮捕され、同志を裏切ることをあくまで拒否したので、蒋介石の部下に首をはねられた。


「鉄軍」の敗北のあと、朱徳の小部隊は敵の軍隊と地主たちから四方八方追いまわされ狩り立てられる羽目に陥った。

そこで福建省境で短い会議を開いた。

その結果、全部で百人ほどの農民兵は引き返して彭湃の部隊に加わり、7人いた看護婦のうち3人は身体が弱かったので、隊を離れて汀州に行くように命じた。


さらにこの会議で朱徳は、部隊が山岳地帯を西に進み、農民運動が強大で戦闘的な湖南省南部に行くことを提案した。

しかし朱徳の参謀の一人は他の多くの幹部の支持を受けながら、あきらめて軍を解散しようと提案した。

朱徳は誰もが小銃を持っているし、軽機関銃や臼砲もあるし、食糧は地主から没収できるし、弾薬は敵から奪い取ることもできると説得した。

なんとか朱徳の提案はみなから支持されることになったが、西方に向かって行軍を始めてからも、混乱と絶望の気分に支配されていた。

                              紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-10 09:00 | 朱徳の半生