2017年 03月 08日 ( 1 )

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8月末頃、江西省南部の瑞金に近づいたとき、ついに朱徳の先鋒隊は国民党第二個師団の哨戒地帯に入った。

この国民党軍はさらに南へ30マイルほどの距離にある会昌に本部を置いていた。

この会昌への接触点から「鉄軍」は四日四晩の戦闘に入った。

これは土地革命を始めてから最初の戦闘であり激戦であった。

勝利をおさめることはできたが、数百人の死者と約千人の負傷者を出し、朱徳の先鋒隊でも三百人を失った。


多くの負傷者をかかえて最初の計画通りの高い山脈を行軍することはできないので、「鉄軍」は真東に方向を変えて、福建省西部の山地にある汀州市に向かった。

大革命時代に有名になった汀州の革命派の中にはクリスチャンの一家があり、その何人かは医師で、息子たちの一人ネルソン・フー博士は汀州にある英国バプテスト病院の医師だった。


朱将軍の声の調子は、彼が話してゆく物語に応じて、たえず変った。
いまはやさしくなり、まるで奇蹟に感動したかのようであった。

「ネルソン・フー博士とあの外国病院の英国人の医師たちは、わが軍の負傷者の手当てをしてくれた! 
重傷者は病院にいれられ、それほど重くないものは民家に収容された。
だが軽傷者は、われわれと行をともにした」


ついに「鉄軍」は広東省の境まで南へ数マイルの地域に達した。

広東の東江地方出身の農民指導者彭湃は、この地方についてはすみからすみまで知り抜いていた。

彭湃は1926年の終わりに数百の戦闘的農民を引き連れて、当時漢口にあった「鉄軍」に参加した人物だった。

朱徳は江西省南部の戦闘の後は、みずから一個連隊の指揮をとり、前衛部隊にはこの彭湃と彼の農民兵をあてた。

農民兵たちは四方に散らばり、敵軍の動きや後続部隊のための食糧と宿舎の用意をした。


朱徳の部隊はすでに危険地帯に入っていたので、行動の迅速さが一切を意味する。

夜中の一時に汀州を出発した彭湃は「鉄軍」を導いて、彼の故郷である広東省東江地方へ向かって、真南へ強行軍をした。

この東江地方こそ、かつて孫逸仙の保護のもとに、最初の農民組合と農民自衛隊が生まれた土地であった。

だが今では、この地方の農民運動は地下に追い込まれ、「虎地主」と武装部隊である民団が再び覇権を握っていた。


彭湃の前衛隊から出た斥候兵はすぐさま福建と広東省境を越えて、村々に「鉄軍が来るぞ」という言葉を広めていった。

そのすぐ後から、迅速に行動する諸部隊が地主の民団を粉砕しながら省境を越えて、有名な東江地方に入っていった。


汕頭の港で海にそそぐ韓江に沿って南下しはじめた瞬間から、朱徳の部隊の行軍はお祭りのようになった。

はじめは小さな農民の群れだったけれど、だんだん大きくなり、男も女も部隊を迎え、部隊に加わった。

どの村も食糧と飲み物を用意して部隊を待っていた。

韓江の岸辺には、部隊を渡河させるために数百の船頭が集まっていた。

この岸辺で、部隊は行軍を中止し、汕頭攻略の作戦計画をねった。

すでに国民党軍一個師団は集結を終わって待機していて、さらにもう一個師団が南から北上中であった。

農民は食糧の入ったかごを天秤棒でかついで、いくつもの長い列を作って野営地へやってきた。

彼らはみんな目を輝かせていった。


「お前さんがきた、とうとうきてくれましたな! とうとうきてくれましたな!」


船頭たちは汕頭から川をさかのぼってきて、敵軍の防衛準備の情報をもってきた。

汕頭港内には、英国の砲艦がおり、国民党軍の将校たちがその砲艦に出入りしているという警報も入った。

国民党軍の別の諸部隊が海上から汕頭に上陸するという噂も広まっていた。

北方からやってきた農民たちは、別の敵軍一個師団が福建省を南下中だという警報をもってきた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-08 09:00 | 朱徳の半生