2017年 03月 06日 ( 1 )

f0364260_21352630.jpg

8月5日の夕方、「鉄軍」の二つの縦隊は10から20マイルの間隔を保ちながら、南方の広東に向って進軍を開始した。

先鋒隊と呼ばれた朱徳の部隊は、二日行程ほど前方を進み、人民に対する工作、後続部隊のための食糧と宿舎の用意をしたりした。


しばらく進軍したあと、鉄軍第十師司令官の蔡挺階将軍が急に怖気づいて、部隊を率いて真東の福建省内へ逃げ込んでしまった。

その後数ヶ月のうちに、蔡将軍は「鉄軍」の前司令官張発奎の指揮下に加わった。

この間張発奎は九江にいた軍のうち二個連帯を引き連れて、別の道から南へ向かった。

彼もまた広東を目指し、その地に自分の指導者である汪精衞のための拠点を確保するために地方軍閥をまとめていた。


第十師が脱走したというニュースが「鉄軍」の兵士に広がると、兵士たちはしきりに脱走し始めた。

国中が混乱していたときなので、兵士たちは秋の収穫を期した蜂起に自分たちの家族を助けるために故郷に帰ろうと考えて、本隊を横道にそれていくように少しずつ離れていった。


こういう兵士たちは決して革命から離れていったのではないと朱徳は語った。

彼らは秋収蜂起で戦ったし、その後多くのものは革命軍に再び加わっていたからだった。

南昌蜂起は敵の体制を混乱させたので、江西省の南端に達するまではまったく抵抗を受けなかった。

地主たちもこういう情勢を知らず、朱徳の先鋒隊と穀物の取引をしてくるものもいた。


「私もまた、農民の状態を勉強するひまがあった」と朱将軍は話す。
「江西省の農民も、私の郷里の百姓と同じように、ひどく圧迫されていたが、それよりもっともっと困窮し、絶望的な状態で、これを宿命として、あきらめの生活を送っていた。


「江西省の大部分は山地で、作物の収穫はとぼしい。
地主は、小作料として収穫の七割をとっていたし、たいていの百姓は、毎年、地主から高利の借金をしなければならなかった。
その結果、百姓は、その息子、孫にいたるまで、この借金にしばられて、永久に地主の奴隷の状態におちいっていた。

……

みんなやせこけて、半裸で、文盲で、暗い不潔な小屋に住んでいた。
その村々は、門が一つしかない、高い泥の壁でかこまれていた。


石城県はほかの多くの県の典型で、土地の大部分はレイ一家が所有し、この家族からは二人の男が国民党軍の将校になっていた。

この一家は大邸宅のほかに地方にも大邸宅を持ち、そこに穀物や金などの財宝を貯め込んでいた。

さらに農奴と変わらないような小作人や数百人の農業労働者を使っていた。

                               紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋





[PR]
by far-east2040 | 2017-03-06 09:00 | 朱徳の半生