2017年 03月 02日 ( 1 )

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秘密会議が終わると、集まっていた仲間たちはそれぞれ指名された任地へ向かった。

毛沢東は漢口に帰って待機し、南昌蜂起と同時に、漢口守備隊内の多数の黄埔軍官学校生とともに守備隊を率いて湖南へ南下することになった。

蘇兆徴は揚子江流域の労働者組織への工作をすすめ、蜂起の準備をするために出発した。


南昌蜂起の指導をする前線委員会に選出された多くのものはただちに南昌に向かった。

議長は劉伯承で、副議長は周恩来だった。

朱徳も一員に選ばれていた。


「南昌の事情については、私がいちばんよく知っていたので、敵と味方を問わず、蜂起に関連してくるすべての諸勢力についての情報を、前線委員会へ報告するという仕事をあたえられた。
調査する時間はほんのちょっとしかなかったが、私はすぐ、あらゆる情勢に通じることができた。


南昌の隣接地帯に駐屯していた国民党第六軍に属する多くの連隊、南昌市内や周辺に駐屯する雲南軍(第五路軍)の多くの連隊、さらに南昌へ二日以内に行軍できる距離まで移動してきた雲南軍の一、二師団が敵にまわると予想された。

反革命の嵐が広がるにつれて、これらの部隊は南昌を占領し、大衆運動を粉砕しようと準備していた。


一方、味方の陣営は、労働組合、農民組合、学生同盟など南昌のすべての人民組織と農民運動講習所だった。

この講習所の所長である方志敏も共産党の秘密会議に出席していた。


「鉄軍」に属する部隊の多くに頼ることはできたが、総司令官張発奎と第四軍司令官などは汪精衞の追随者なので、信頼できなかった。

第四軍の大部分の部隊は、張発奎将軍が司令部を置いていた揚子江岸の九江に駐屯していた。


南昌にある「鉄軍」の支隊司令部は第十一軍司令官葉挺将軍の指揮下にあった。

第十一軍と第二十軍の全軍は南昌市内とその周辺にいて、九江―南昌鉄道の沿線には蜂起に参加する準備をしていた第四軍の一個連隊が待機していた。


さらに警察は軍官学校とともに朱徳の指揮下にあったので、南昌の全警察力をあてにすることができた。


朱徳が秘密会議に出かける前に、雲南軍から軍官学校の一千三百名の生徒を全員ただちに卒業させるように命令されていた。

雲南軍の司令官は蒋介石に寝返って南昌を占領する計画を立てた。

そこで市内から若い生徒を追い出しておきたいので、各部隊に強制的に配属させ身動き取れないように企てたからだった。

それでも朱徳は限られた時間で努力してなんとか三百人だけは残し、蜂起に参加する用意をさせた。


蜂起の夜、朱徳は、前線委員会の命令にしたがって、南昌市内にいた第五路軍と第六軍の全将校を集めて、大宴会を開いた。
彼は、連隊長級以上の将校だけを招待した。
彼らはまだ、朱徳が雲南軍の将校で、国民党の指導者の一人だと思っていたので、みんなやってきた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-02 09:00 | 朱徳の半生