2017年 02月 28日 ( 1 )

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孫逸仙夫人宋慶齡は国民党に対する歴史的宣言で、まさに中国の肺腑をえぐった。


「わたしたちは、人民をあざむいてはなりません。
わたしたちは、人民のあいだに、偉大な希望をそだてあげてきました。
人民は、わたしたちに深い信頼をささげてきました。
この信頼にたいして、わたしたちは、最後まで、忠誠をつくす義務があります」


しかし国民党はすでに人民を裏切り、あらゆる主要都市や地方の街や村の路上は、労働者や農民、知識人たちの血の洪水となった。

「あれは共産主義だ」という野蛮な叫びをあげながら、胸の奥に希望のともしびを燃やしていた貧しい人々をかたっぱしから殺していたのである。


いたるところで希望が失われていくなか、中国共産党は敵と戦うか、それとも降伏するかを選ばなければならなかった。


19世紀の半ば、太平天国の乱の指導者のひとりの石達開も同じような窮地にたたされた。

そのとき彼はこう叫んだ。


「戦っても死ぬ。戦わなくとも死ぬ。

それならいっそ、戦おうではないか」


だが、歴史は決してそのままくり返すことはないことを共産主義者は知っていた。

彼らは断固として戦い、かつ生き延びようと決意したのである。


1927年7月18日、朱徳は南昌からそれほど遠くない一小村で開かれる共産党秘密会議に出席せよという招請を受け取った。

その会議では共産党の主な指導者たちがたくさん集まっていた。


上海で殺されそうになってあやうく脱出した周恩来、四川省でかろうじて死地を脱出した劉泊承、漢口政府の労工部長をしていた蘇兆徴、農業部長の譚平山、「鉄軍」の第十一軍と第二十軍の指揮官や参謀たち、さらにその政治指導者である葉挺、賀竜、葉剣英、李立三、劉志丹が来ていた。

これらの人たちが後の歴史を作っていくことになる。

その他朱徳が会ったことはあるが、名前は知らない人たちもいた。

その一人は背の高いやせた男で、農民運動の指導者で共産党の政治局員であり、国民党の中央委員にもなっていた男だった。

この男が毛沢東だった。


朱徳はこの会議で採決した大筋だけをスメドレーに説明した。

反軍閥、反帝国主義闘争は続けながら、同時に農民と労働者に武装させ、土地革命を始めるという方針を採択した。

朱徳も発言して、この決議に賛成した。


この新しい政策を実行に移す最初の行動は、南昌で「鉄軍」の武力蜂起を行い、続いてこの軍隊を広東へ進軍させ、新たに国民革命政府を樹立することだった。

南昌蜂起は収穫期を期した農民蜂起の合図となり、立ち上がった農民は地主の傭兵部隊から奪い取った武器で武装することになっていた。

後にわかったことだが、軍隊を使って農民蜂起を援助した指導者は毛沢東だけだった。


この秘密会議で採択された政策は、

反軍閥・反帝国主義闘争をつづけろ

南京と闘え、蒋介石と闘え

農村革命を開始せよ

人民を武装させろ

というスローガンに要約できる。


「私は、これらの対策のすべてに、賛成の票を投じた。
われわれみんなは、混乱とテロのまっただ中に立っていたのだが、私は、ついに肩の重荷をおろしたように感じた。
そのときまでは、私は、党の政策について、なんらの発言もしていなかったが、自分に与えられた任務だけは、能うかぎりの力をつくして、遂行していた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2017-02-28 16:52 | 朱徳の半生