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朱徳は上海ゼネストと南京事件の余波について語った。


南京事件の最中、蒋介石は船から市内に上陸したが、秩序を恢復することはしないで、急いで他の船に乗り移って上海に戻った。

そこで彼は労働者に武器を捨て、ゼネストを中止して工場に帰れと命令した。

当時上海にいた共産党書記長陳独秀は、労働者に向かってその命令に従うように勧告した。

すでにさまざまな経験を積んで目覚めていた労働者はその勧告を拒んだ。

漢口の国民党政権は布告して、今後は軍事は行政権に従うようにと命令した。

労働者は漢口の国民党政権の命を受けている上海の革命臨時政権に従うことを誓った。


労働者は蒋介石の行動を見ていた。

蒋介石は上海に戻ると、ただちに中国の銀行家、工場主、それから青幇と秘密交渉に入った。

青幇という秘密結社は何万という暴力団、アヘン売り、泥棒などから構成されていて外国人や中国人の反動派と結びついていたので、労働者や革命勢力から憎まれていた。


朱徳はさらに説明した。


もはやこの時には、革命をつぶそうとする国際的陰謀は、世界のあらゆる帝国主義国の首府から、上海に向って毒手をのばしており、外国人たちは、いつのまにか、蒋介石は結局は「過激派」ではなく、じつに善良な人物だったといい出した。
「外国人は、片手で蒋介石を撫でながら、もう一つの手で、国際武力干渉をもって、おどかした」


蒋介石もなかなかの人物で、本音を隠して計画を実行していた。

中国銀行団は蒋介石に、革命を捨てて独力で軍事独裁政権を打ちたてるなら、融資と外国の承認を約束すると申し出た。

融資の額についてはいろいろな噂があったが、スメドレーは1949年に最も信頼できる外国の情報から当時の貨幣で六百万元にすぎなかったことを知った。


この融資の代償として蒋介石に課せられた仕事は、漢口国民政府と縁を切ること、上海の労働者の武装解除をして元の工場に帰すこと、共産党をつぶしてしまうこと、国民党とソ連との同盟を断ち切ることだった。


しかしこの陰謀の全貌がはっきりわかるのは第二次世界大戦後のことだった。

朱徳はこの仕事には外国の干渉が関係しているにちがいないと信じていたが、スメドレーに物語っていた1937年の時点では証拠は掴んでいなかった。


第二次世界大戦後、上海での新聞の所有者兼編集長で反共産主義の闘士だったジョン・B・パウェル氏は自分の自叙伝『中国での二十五年』の中で、そうした外国からの干渉のことがいいことであるかのように書いてあった。


蒋介石は上海の労働者を弾圧するためには、自分の軍隊だけでは頼りにならないことがわかっていたので、秘密結社の青幇に頼った。

しかし青幇もこの仕事をするだけの十分な兵器弾薬を持っていなかった。

ジョン・B・パウェル氏は青幇の首領たちはフランス租界の行政庁といっしょになって、共同租界のアメリカ代表のスターリング・フェセンデン氏から積極的な援助を受けたと語っていた。

五千丁のライフル銃と弾薬を与えられ、反軍閥・反帝の本部がある中国人街の労働者に攻撃をかけるために、共同租界を通過する権利も得ていた。


だから、4月12日の真夜中に、同租界と中国人街との間にある門扉が音もなく開き虐殺は開始された。

夜の闇のうちに、蒋介石の軍に、「労働者の蜂起、暴動、殺人を、力をもって制圧し、法と秩序とを恢復せよ」との行動命令が下った。
三日間がたってみると、約五千の、労働者、国民党左翼党員、共産党員、無党派の知識人、などが殺されていた。
朱徳の旧友孫炳文も、殺されたものの中に入っていた。
ゼネストの組織者、周恩来は、捕えられ、広西軍の一部隊に送られたが、その隊は、彼が逃げるのを見のがした。


虐殺が終わると、蒋介石は青幇の親分を新しくつくられた労働組合の書記長に任命し、後には蒋介石の軍の政治主任にさせた。
青幇の暴力団員はそれぞれ揚子江の下流地方に派遣されて、虐殺行為を重ねた。


                               紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋








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by far-east2040 | 2017-02-26 12:20 | 朱徳の半生