井岡山会議 土地革命の開始⑤ー2

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朱徳軍は毛沢東の二個大隊に導かれて、山の中の行軍を続けた。

この行軍を阻止しようとする敵の部隊を粉砕し、井岡山へ登る5、6本の細道の一つをうねりながら登っていったのである。


井岡山はまわりが150マイルもある山岳地帯の総称だった。

美しい景色に囲まれた地域だったが、一年の大半は霧に包まれていた。

このあまり生産物に恵まれない山地の真ん中に、木々に覆われた傾斜地に囲まれた広くて丸い谷が横たわっていた。

むかし「匪賊になった農民たち」がここに5つの村を作り、ずっと続いてきた場所だった。


朱徳の部隊はこの谷の中や周辺に兵舎、訓練学校、病院、兵器廠などの施設を建てた。

こうしてすでに毛沢東が農民の間で始めていた土地革命のための訓練基地と司令部にふさわしい環境が出来上がっていった。

毛沢東はこの5つの村で、農民の指導者王佐と袁文才の賛同と援助を受けて、農民を組織して訓練を始めていた。


農民たちは猫のひたいのような野菜畑を耕し、筍や茶、薬草を売って生活していたが、それだけでは暮らしていけないので、結局最後には遠方の町を襲撃して掠奪していたのである。


「中国では、匪賊と地主とは、いつでも、手をにぎっていた」と朱将軍はかたった。
「地主制度は、貧乏と無知とをそだてた。
しばしば農民は毎年、すくなくとも、一年の一部分は、匪賊にならざるをえなかったのだ。
井岡山地方と同じように、匪賊化した農民が、指導者のもとに組織化された場合には、地主は、その指導者と協定をむすぶ。
われわれが、この山にはいる前には、王佐と黄文才は、地主から、わずかばかりの貢物を受けとって、そのかわりに、彼らを平和にしておいたのである。
地主どもは、『われわれをおそわず、ほかの地主をおそってくれ』といっていた。
われわれが、土地革命をはじめ、地主の土地と財産を没収し、それを農民に分配するようになってから、これらのことは、すっかり変った。
そこで、地主どもは、われわれをやっつけるために、国民党軍を呼びよせたのである。


国民党の部隊は井岡山をめぐる6つの県の主な都市や町を守っていた。

朱徳軍がこの山岳地帯に到着した直後の共産党会議で、井岡山を基地として工農委員会を建設し、ここから革命をたえず広い地域へ拡大していく方針が採決された。


朱将軍は、この会議のことを、「反革命がはじまって以来、もっとも重要な党会議」だったと、かたっている。


毛沢東は、この会議で採決された軍事戦略と政治戦略の基礎になる中国革命戦の5つの基本的特質を指摘した。

1 毛沢東によると、中国は不均衡な政治的発展を持つ半植民地国家である。
 中国は豊富な資源をもつ広大な国家である。
 反革命的ブルジョアと封建的地主階級を代表する国民党が国を支配している。
 革命軍が弱体であり、現在は山岳地帯にある。
 土地革命と指導を共産党が行っている。

毛沢東は、そのときにもこうのべたし、またその後も同じことを書いている。
すなわち、革命軍が存在し、かつ拡大することができたのは、革命軍の隊列が土地革命から出ているからであり、また、その指揮官と下級兵士とが政治的に一つであったからである。
これに反して、国民党と地方軍閥の軍隊とは、土地革命に反対し、農民からなんらの援助も受けることができず、その隊列はたえざる政治的意見の対立でばらばらに分裂しており、したがってその将校は、兵士や下士官を奮起させて、死をかえりみずに戦わせることができなかったのである。


朱徳は軍事的戦術を要約した。

「敵が進めば、われらはしりぞく。
「敵が宿営すれば、われらは攪乱する。
「敵が戦闘をさければ、われらは攻撃する。
「敵がしりぞけば、われらは追撃する。


                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-21 09:00 | 朱徳の半生