毛沢東と朱徳 土地革命の開始⑤ー1

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朱徳軍は戦いながら東方へ撤退していき、5月にレイ県地区に野営して井岡山へ登っていく準備をした。

その頃、毛沢東と戦ってきた江西省の国民党軍はレイ県の主な郷役場の所在地を占領していた。

この連中が湖南省との通信連絡網を破壊してしまったので、毛沢東は連絡ルートを再開するために、井岡山から一挙に攻めくだった。

毛沢東は二個大隊を率いて、みずからレイ県の朱徳に会いにやってきたのである。


土地革命の二つの主流が結びつく、このささやかな会合こそ、中国史上最代の出来事の一つとなったのである。
朱徳は、毛沢東を見たことはあったが、秘密会議のさい、うす暗い部屋のなかで、ながめたというにすぎなかった。
だから、この二人が、まだ、本当に会ったことはなかったのだ。
レイ県ではじめて、会合したときから、この二人の男の全生活は、渾然と一体になり、あたかも、一人の人間の両手のようになった。
その後数年間というもの、国民党や外国の新聞は、この二人を「紅匪の頭目、朱毛」と書きたてたり、紅軍のことを「朱毛軍」とよんだりした。


この二人の男は驚くほど似た点が多かったが、大きな違いもあった。

毛沢東は朱徳よりも10歳若く、1937年の現在42歳だった。

どちらも教育を受けた農民で、1911年の革命以来あらゆる革命闘争に参加してきた。

毛沢東は「五・四運動」で指導的役割を演じたが、その当時朱徳は四川省軍閥の泥沼のなかで混乱しながら、もたついていた。


毛沢東は湖南省最初のマルクス主義研究会を組織し、共産党を創立した第一回党大会の代議員になり、その後主たる党指導者の一人になり、国民党中央委員会の委員にもなった。

彼は強い迫力と洞察力をもった文筆家であり、時には詩人でもあった。


風采や気質の点では、朱徳の方がはるかに毛沢東よりも農民的であった。

二人とも農民のように率直でむき出しでかつ実際的であったが、毛沢東は基本的にインテリで、彼の独特の思弁的精神は絶えず中国革命の理論的諸問題と取り組んでいた。

彼は女性的な鋭敏な感覚と直観力を持っていたが、同時にあらゆる自信と決断力を持った非常に男らしい男でもあった。


二人とも強情でねばり強かったが、朱徳の方がよりはっきりしていた。

朱徳は政治的にも深い理解力を持っていたが、むしろ行動の人であり軍事的組織者であった。


しかし朱徳の性格には奇妙な矛盾があった。

頭のてっぺんから足のつま先まで男性的で、焼きを入れた鋼鉄の棒のように行動したが、内に強い謙遜の念があふれていた。

後年、この謙遜の念については毛沢東をしばしば怒らせたという。


朱徳の出身が貧農であるとか、教養と学問のある人に対する農民が持っている尊敬の念からだけではなく、彼が若いとき軍閥の一員としてすごした時代に根ざした無意識的な罪悪感にもとづいているとスメドレーは考察した。


朱徳は人間の性格と誠実さを見る力に恵まれていたので、毛沢東に会ったとき、これからの後半生をこの男の判断にまかせることができると認識したようである。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-20 09:00 | 朱徳の半生