学生六個中隊 土地革命の開始④ー3

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宜章占領後3週間目に、蒋介石軍の二個師団が宜章に向かって進軍してきた。

司令官の許克祥将軍は、1927年の5月湖南省で数千の農民をみな殺しにしたので、「百姓殺し」と呼ばれた有名な人物だった。

市内は恐慌状態に陥り、みんな付近の村々に逃げ出した。


朱徳は分散していた部隊を呼び戻し、宜章の工農委員会と人民組織の指導者たちを連れて、湖南と広東の省境の山岳地帯へ撤退した。

そしてこの地域の二千人の民団を武装解除し、その武器を農民に引き渡した。


「匪賊どもめ!」とののしりながら、「百姓殺し」は彼らをみな殺しにするために二個連隊を派遣してきた。

ところが誰も結果を報告してこないので、許将軍は自ら五個連隊を率いて攻めてきた。

このとき革命軍がとった戦闘方法が、その後ずっと朱徳軍の作戦の基本になった。

朱将軍は次のように説明した。


「われわれは、人民に基礎をおいている。
われわれは、自分で戦場をえらび、山を背にして布陣し、われわれの望むところへ敵軍をひきいれ、しかるのち、敵の輸送隊を寸断し、敵の両側面を襲撃し、こうして、敵を包囲し、せん滅した。


「百姓殺し」自らが指揮をとっていることがわかった農民たちは、棍棒から猟銃にいたるあらゆる武器で武装し、四方八方から約千人が増援にかけつけた。

一週間朱徳の軍と敵の主力どうしが闘っている間、農民たちは敵の輸送隊をせん滅した。

農民たちはバラバラになった敵兵を狩りたて、橋が崩れ落ち川に投げ込まれたものが這い上がってきても徹底的にたたき殺した。

この戦闘の混乱の中、「百姓殺し」は小舟の底に身を潜めて逃げてしまった。

「百姓殺し」を取り逃がしたことを知ったとき、農民たちは泣いて悲運を呪った。


しかし、この戦闘で獲得した立派な小銃で二千人の農民が武装することができた。

また「百姓殺し」の司令部があるシーピンを占領したときは一個師団分の軍需物資や食糧、現金を見つけ出すことができた。

山岳地帯に逃げた敵兵を、朱徳の数個部隊はその地域の農民たちと追跡し、完全に息の根を止め、さらに五百の小銃を獲得することができた。


勝ち誇った革命軍は宜章に帰って、工農委員会を再建した。

一方朱徳は敵の軍閥唐生智将軍が十一個中隊で守っていた地域へ、古参兵を引き連れて北進していた。

その途上で情勢を嗅ぎつけた一群の農民と出会った。


彼らは朱徳に軍閥唐生智将軍の十一個中隊のうち六個中隊は旧式の傭兵ではなくて、徴兵された小学校や中学校の生徒たちであり、将校にするために独立訓練隊にいれられたものだと報告した。

さらに彼らの待遇は良好で、将来は将校になることを誇りに思っているものもいる。

現在朱徳の軍と闘うために宜章に進軍しているが、この戦いが彼らの最初の戦闘になるだろうし、朱徳たちを匪賊と思いこんでいるという。

怯えさせたらかえって戦ってくるだろうから、彼らだけを捕虜にしてはどうかと進言してきた。


じっと聞いていた朱徳の目は輝いた。


「学生六個中隊――しかも、もういくらか軍事訓練をうけている! 
われわれは、ちょうど、そういう連中を必要としているんだ。
われわれは、連中を宜章につれていって、再訓練することができるし、それから、わが軍に参加しろと要求することもできる」


朱徳と陳毅は、彼らのまわりに集まった兵士たちにこの学生六個中隊を革命軍に加えることの重要性を語り、戦闘に入ったら、ひとりの死傷者も出さずに捕虜にする作戦を説明した。


この計画は成功し、六個中隊全員が捕虜になり武装解除された。

丘のあいだの窪地で、朱徳と陳毅は革命軍の性格と綱領について説明した。
まるで友だちに語りかけるような陳毅の演説は捕虜たちに深い感銘を与えた。


というのは、陳毅自身が古い学者の家柄の出身で、四川省とフランスの大学と、さらに孫逸仙が創建した有名な黄埔軍官学校を卒業していたからだった。

彼は、捕虜たちと同じ階級に生まれたが、軍国主義と帝国主義に対して戦い続ける道をなぜ選んだかを説明したあと、捕虜たちにこのまま護衛兵といっしょに宜省に行き、いろいろな人とよく話し合いをするように説得した。

その後、帰りたいものは旅費と通行証を支給するので帰っていいと、しかし長く厳しい道になるけれど、革命のために戦いたいという人は大歓迎すると語った。


「われわれ中国の青年には、奴隷にされることよりも恐ろしいことがありうるだろうか?」

陳毅は、みんなにたずねた。
捕虜のなかから、多くの声がいっせいに答えた。
「ない!」と。


ある若い革命家の指揮官も立ちあがって説明を始めた。

彼もかつては学生だったが、反革命が始まったときに兄弟を殺された。

続いて一人の農民兵が封建的地主と戦った彼の家族の悲劇的な運命を語り始めたが、彼の頬にとめどなく涙が流れ、とうとう最後まで続けられなかった。

朱徳は捕虜たちの中にもすすり泣いているものを見た。

学生六個中隊は宜章に送り返されたが、わずか十五人を除いて全員が革命軍に加わった。


朱将軍が筆者に話をしてくれた1937年には、すでに彼らの多くが、朱徳軍の軍事的あるいは政治的幹部になっていた。

                         紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-17 09:00 | 朱徳の半生