宜章占領 土地革命の開始④ー2

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城壁をめぐらした小都市宜章の近くに入ると、朱徳軍は農民自衛隊と出会った。

この自衛隊は二、三百人の兵力を持ち、十八歳の青年が指揮をとっていた。

この青年は家族は全員彼らの地主に殺されてしまい、彼だけが生き残ったのだが、自衛隊には彼のような境遇のものが多かった。

この自衛隊は朱徳軍に参加することになった。


次に参加したのは宜章にいる二人の共産党員の一人だったフー・シャア・ハイという知識人で、共産党と連絡をとっていた。

この二人の家族は地主だったので、比較的彼らは安全にすごせていた。

宜章を支配していたのは商人や国民党の役人でもあった地主の小グループであった。

地主たちはフー・シャア・ハイを使者として北部広東へ送り、叛乱した農民を鎮圧するための援軍を求めさせた。


そこでフーは一計を案じた。

もし朱徳軍から二百人の部隊を彼に指揮させてくれるなら、彼はこの部隊を率いて町に入り、民団を武装解除し、町の支配者を逮捕することができると考えた。


朱徳はただちに古参兵二個中隊を選び出し、小奇麗な服装で身を飾らせ、国民党の軍隊らしくふるまうように命令した。

1927年12月29日の朝、フーに導かれた二個中隊は宜章市へ行進していった。

市の支配者たちは彼らを歓迎し、その夜指揮官たちを宴会に招待した。

宴たけなわの頃、二個中隊は民団を包囲し、続いて宴会場も包囲した後、市の支配者たちを逮捕してしまった。

そして指揮官たちは宜章を占領したと支配者たちに挨拶した。


この二個中隊に続いて、朱徳軍も市に入った。

城壁の上には広東コミューンの赤旗がひるがえっていた。


「その時いらい、われわれは、この旗を使った」と朱将軍は、話した。

「その旗は、赤地の中央にー労働者と農民の支配のシンボルー白い星と槌と鎌とが描かれていた。


あくる朝にはそれまで弾圧されていた人民の諸組織の代表者で革命委員会が結成され、1928年1月1日には湖南省で最初の工農委員会を組織した。

工農委員会は労働者や婦人の問題を処理する機関を作り、地主、軍閥、役人の財産は没収され、地主の土地はなんらの補償なしで没収すると宣告された。


朱徳の軍は二個連隊からなる師団に改編した。

第一連隊は「鉄軍」の古参兵からなり、第二連隊はこれまでに参加していた農民自衛隊と新たに編成された約千人の宜章農民自衛隊で結成された。

新しい義勇兵がぞくぞく参加してきて、第二連隊の兵力は約二倍になった。


しかし、当時われわれの政策は、正規軍をあまり大きくしない方針であった。
われわれの政策は、農民を組織し、武装させることであった。

後の中国紅軍―現在のわが八路軍―の多くの幹部たちは、この最初の湖南省における大農民闘争から出てきている。


幹部を始め無数の戦士たちはみな兄弟を国民党軍に殺されたり、戦死したという身の上話を語ることができた。


朱徳軍の宜章占領後、湖南省南部と東部一帯で革命の炎が燃え上がり、土地の分配が始まった。

朱徳は農民たちの闘争を援助するために援兵を各地に送ったので、ほんの短い期間、彼の部隊の大部分は広い地域に分散してしまった。

地主たちは生き延びるために、国民党軍か地方軍閥の影響が強い大都市へ逃げ出していった。


敵軍が南方から迫ってきたとき、朱徳は古参兵二個大隊を派遣して農民の組織と武装にあたらせた。

また軍閥唐生智が北方に侵入してきたとき、さらに別の部隊を派遣した。

とうとう宜章を守備するものはひとにぎりの労働者自衛隊だけになってしまった。

紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-16 17:01 | 朱徳の半生