広東コミューン 土地革命の開始④ー1

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革命軍の分散した部隊が集結し、広東省北部の広東市から2、3日行程にある市に達したときは12月半ばになっていた。

このあたりには地主が雇った民団や国民党軍やその他の反動軍が群がっていた。


朱徳の軍は山地を通り抜けてゆく道を探しているときに、広東市の将校訓練連隊の武装した候補生たちの一個連隊と出会った。

候補生たちは自分たちが参加した12月11日に起こった広東市の蜂起を語った。

この蜂起の中で広東コミューンが結成されたが、3日後には国民党軍と英国砲艦の共同攻撃によって打ち破られ、数千の労働者、農民、革命軍兵士に対する大虐殺が行われた。

やっと逃げ出した人々は小さな群れを作って、革命を続けるために何とか朱徳軍にたどり着こうと奮闘していたのである。


朱徳の語るこの時期の国内情勢は次のようになる。

新たに加わった二百人の候補生を含めて朱徳の直接指揮下にある軍の総数は約千七百人。

北方の茶陵には五百人の漢口守備隊。

そこからあまり遠くない井岡山には毛沢東が指揮する千人の部隊がいた。

賀竜将軍は湖南省北西部のどこかで再び農民軍を結集させていた。

農民指導者方志敏は江西省北東部で農民運動を指導していた。

黄埔軍官学校卒業生の一グループは江西省中央部の東固山岳地帯に革命基地を築き上げようとしていた。

広東省東江地方では、彭湃が「鉄軍」残存部隊と農民パルチザンとを率いて活動していた。


湖南省は農民たちが「郷紳」と総称していた中国で最も残忍な「虎地主」たちの領地として有名で、この頃農民の叛乱は湖南中を震撼させていた。

必死になった農民たちは毎晩「郷紳」の邸宅を襲撃し、すると「郷紳」は民団を率いて農民の指導者を虐殺していった。

農民たちは、逃げ惑う農民叛乱者たちをひそかに家に招き入れて匿い、女たちは遠くから米を運んできて彼らのために料理を作ったりした。

どちらも絶対に容赦ない無慈悲で残忍な闘争の悲劇が華南のいたるところで数年間続いた。


このような事実が、朱将軍をして、しばしばくりかえし、こういわせたのである。

「中国の農民は、地球上でもっとも革命的な人民だ」

中国の農民が必要としているもののすべては、すぐれた指導、堅実な綱領、そして武器だけだ、と。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-15 16:24 | 朱徳の半生