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朱将軍と捕えられたばかりの張輝サン将軍との対談はそのまま劇になりそうだった。

張将軍は階級の記章で飾られた素晴らしいカーキの軍服とピカピカの黒長靴を身につけて、朱徳の司令部に送りこまれてきた。

まるで苦力のようなぼろ服を着た痩せこけた男が何人かいるのを彼は見た。


朱将軍は、つめたくきびしい声でいうのだったが、「彼は、われわれを無知蒙昧な匪賊と見、こんなものは自分の残りの二師団ですぐに敗ることができ、自分はそれで自由になるのだ、と信じたにちがいない。

「だから、敗北して捕らえられたことでは弱っていたが、それでもまだ傲然として、私を手玉に取ろうとした。
でぶの男で、その司令部にはありとあらゆる美味がいっぱいあり、乗馬は持ちながら、旅をするのには、人間の背にかつがせる駕籠椅子をもちいた」


張将軍の最後の傲慢な質問は「わしの身代金はどのくらいほしい」だった。

朱徳は威厳をもって答えた。


「わしは商人ではない! 
お前を、お前の部隊と、それから江西省西北部でお前に家族を殺されたわが軍の一部隊との前に引きずり出して、裁判にかける」


捕虜になった将軍の傲慢は少しくじけたようだった。


「私は彼にたずねて」と朱将軍はいった。
「われわれが設立する計画の新軍官学校で教える意思はあるか、とためしてみた。
その気はある、と彼は答えたが、じつは、――他の師団がきて救出することを予期しながら、時をかせごうとしているにすぎない、ということは私にわかっていた。
それから私は、われわれは次にどの白軍を攻撃すべきか、君の意見をきかせてくれ、といった。私がこの男の意見など聞く必要はなかった、というのは、わが軍は、すでに彼の第五十師に向って進撃していた。
だが私は、こいつはどんな男か、ということを試してみたかったのだ。
彼は、それは十九路軍を攻撃すべきだといい、その軍に関する軍事的情報をすらしゃべったが、それはわれわれの方の情報網の報告と合致していた。
彼は、味方を裏切りながら、われわれを手玉に取っていると思っていたのだ」


朱将軍は張将軍に彼の他の師団もどんなふうに撃破できるのかを見せてやろうと思い、彼と部下の士官どもを連れ出して、紅軍が24時間以内で第五十師団を破るところを見せた。

紅軍はさらに旋回して東固の第二十八師団に向かったが、その師団は逃げた。

すでに十九路軍は興国から撤収を始めていて、はるか南の故郷広東省に帰っていった。


第十八師団に対する勝利から三週間で、敵の諸軍は紅軍の迅速な攻撃によって崩れてしまい、第一回の紅軍せん滅作戦はぶざまな失敗に終わった。

張将軍と彼の幕僚は、旧部下の三千の兵と、東固の人民たち、彼に家族を殺された黄公略軍の兵たちの前で裁判にかけられた。

朱徳がいうには、その頃には張将軍の傲慢は恐慌に変わっていた。

彼は幕僚とともに死刑の宣告を受け、彼のために家族を殺された兵たちによって斬首された。


何週間か過ぎた頃、上海の共産党中央委員会から一人の使者が朱将軍の司令部に来た。

持参した手紙によると、蒋介石が張将軍の釈放を請い、その代償として多数の政治犯を釈放し、二十万ドルを払うというのであった。


「処刑したことを、われわれは後悔した」と朱将軍はいった。
「しかし、それは金のためではなかった。蒋介石は、復讐として、獄中のわれわれの同志の多くのものを殺したのだ」


紅軍の勝利は国民党とそれを支持する外国人たちや財政援助者を愕然とさせ、そのために新しいテロの波が国民党支配下の中国に広がっていった。

蒋介石元帥自らが南京政府の教育部長になり宣言を発表して、学生たちが共産主義に関係する集会を開いたり、ビラを撒いたり、大学の学長に反抗することがあれば、学生といえども容赦なく射殺すると声明し実行し始めた。


五つの大学が閉校され、多数の学生が秘密裡に上海で捕らえられ消息不明になった。

上海の新聞は北京国立大学の六十名、天津で十余名、そのほか広東、長沙、漢口で多数が捕えられたと簡単に報道した。

1931年2月7日には、上海のイギリス警察は若い作家、美術家、俳優など24名を捕えて、国民党の守備隊長に引き渡し、その夜射殺されて自分たちが掘らされた大きな穴の中に捨てられた。


南昌の国民党が発行する『反共月刊』の1931年2月号に、国民党高官の談話が載っている。


「もし政府が、紅匪問題の解決に、今日用いつつある方法以上のものを見出し得ないとするならば、われわれは、すべての紅匪地区をまず隔離し、毒ガスをもって一人のこらず殺すほかないであろう。
これらの地区の、十歳以上六十歳までのあらゆる男と女とは、紅軍のためにはたらくスパイであるか、紅軍兵そのものであるかだからである」

                                   紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-04-26 22:50 | 朱徳の半生

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朱将軍は張将軍との戦闘が行われた戦場の略図を描き、敵の司令部と部隊の配置、味方の司令部、戦闘部隊、予備隊、野戦病院、敵の捕虜収容施設なども示した。

さらに紅軍の補助部隊である人民武装隊の配置地点も示した。

彼らは敵の小部隊や輸送隊を攻撃し、紅軍のために輸送したり、戦場の負傷者を運搬したりした。


朱徳と毛沢東の司令部は、張輝サン将軍が司令部を置いた竜岡からほんの四マイルほど離れた山村にあった。

張将軍の第二十八師団は彼らのすぐ近くの東の東固の山を占め、第五十師団は北西のニントウにあった。

彭徳懐の紅軍第三軍団は敵を牽制するために、竜岡と敵の第二十八師団と第五十師団との間に展開していた。

南と西南に向かって一日強行軍をすれば、国民党十九路軍のところに着くだろう。


紅軍の通信機関はすぐれていて、司令部の伝令は、みな若い農民で、きわめて敏捷だった、と朱将軍はいった。


朱徳と毛沢東は12月29日午後8時、明け方に開始される予定の戦闘に関する詳細な命令をすべての戦闘本部隊と予備部隊に向けて出した。

いつものように「政治動員」の集会を持つこと、軍指揮官は兵士たちに戦闘計画、敵の戦力、位置、装備と志気に関する情報をすべて教えること、政治指導者はこの戦闘の意義と革命運動全体の意義を集会で説明するように指示していた。


朱将軍の命令中で、強調されていた一点は、すべて紅軍部隊はたがいに密接に連絡をもち情報を交換し、また、医療品の収集に特別の注意をはらい「捕獲した無電機はこれを大切にせよ」というのであった。


戦闘は12月30日の夜明けに始まった。

林彪と黄公略は敵第十八師団を竜岡から狩り出し、敵がばらばらに解体し崩壊するまで攻めては引き、引いては攻めた。

黄公略の部隊は江西省西北部の農民と鉱山労働者で編成されていた。

さきに敵の張輝サン将軍の三個師団はこの地方に入って何百の村々を破壊すし、紅軍に息子を送っていたすべての家族を殺戮していたので、黄公略の部隊は胸中に煮え返る憎しみを持って戦った。


朱将軍にいわせれば、その部隊は、「われわれの司令部の眼の前でたたかい、敵の機関銃が壁にぱちぱち当った」


戦闘が高潮に達したとき、張将軍は第十八師団の応援のために第五十師団の出動を命じ、その直後に紅軍は無電局を占領した。

第五十師団は進撃を始めたが、その後まったく通信を受けなかったので、ニントウ郊外で彭徳懐の部隊と遭遇しても退却して待機した。

東固の第二十八師団も少しも動かず、南方の第十九路軍も動かなかった。


ついに午前中に第十八師団の千名が殺され、九千名が捕虜となり武装解除された。

張将軍と彼の参謀以下すべての士官も捕虜になった。

鹵獲品は小銃八千、軽重機関銃、追撃砲その他の小野戦砲、第十八師団の精密な無電機と技術者、野戦用電話、医療品、馬、大量の食糧、敵三個師団の軍資金だった。


「われわれはただちに、捕虜兵の大会をひらいた」と朱将軍はいった。
「そこで彼らに、われわれは何ゆえに戦うかということを話し、もし戦いたいならばこちらに加わるようにと勧誘した。
三千人が加わり、ほかのものには、一人三元ずつあたえて、家庭にかえらせた」


敵はすぐれた火力と軍需品を持っていたが、紅軍の方が信念と士気と機動力においてすぐれていたことが迅速で決定的な勝利に導き、続いて全敵軍の崩壊の原因になったと朱将軍は分析した。

戦いは二ヶ月以上も続き、第十八師団も何らかの攻撃を受けることは予想していたので、不意打ちだったということで説明できなかった。

さらに国民党軍はソビエト地区に入っていたのだが、そのこの全人民は彼らを不具戴天の敵としていた。

勝利のもう一つの原因は心理的なものもあったと朱将軍は付け加えた。

「敵は、われわれが匪賊だという味方の宣伝を信じ、わけなく叩きつぶせる、と思っていたのだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-04-26 15:30 | 朱徳の半生

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朱将軍は張将軍との決戦の話をする前に、紅軍内部での反逆行為のことを語り始めた。

あやうく形勢を一変して敵に利するものになり得たかも知れなかったのである。

何週も続く戦闘の最中に、リュウ・チ・ツァオというある地主の息子が東固の農民からなる第二十紅軍を率いて反乱を起こした。

10月に吉安で入手した反ボルシェヴィキ(AB)団に関する書類によれば、少なくとも東固の一人の地主の家族のものが、国民党の秘密情報機関と連絡していることはわかっていたが、しかもリュウは吉安の近くの富田地域の防衛の任を与えられていた。


リュウ・チ・ツァオと東固と興国地方の政治指導者でAB団と連絡をとっていることがわかっていた地主の家の息子である李文林は、朱徳と毛沢東が反対していた李立三主義の最も忠実な信奉者だった。

李立三主義とAB団との繋がりがいつどこで出来て、こうした指導者たちがいつどのようにして李立三主義からAB団に関わっていったのかは、朱徳と同志たちは当時はわからず、ずっと後になって知ったのであった。


とにかく、こうした複雑怪奇なことはどうでもあれ、朱将軍は、共産党が一掃しなかったところの東固の地主階級こそが、第二十紅軍の叛乱の真の原因だと信ずるのだ。


リュウや李文林は腹の底で考えていることを農民兵たちに明かす勇気はなかったので、朱徳を「第二の蒋介石」、毛沢東のことを共産党を裏切る「党皇帝」とののしった。

彼らの雄弁は目的通り富田地方で反乱を起こし、多くの共産党指導者が殺された。

それから彼らは吉安地方の国民党の勢力地域に逃げていき、そこで共産党の小さな一派を作り、わけのわからぬ宣言を次々に出した。

たとえば、朱徳は急に高潔なる人物と褒めたてられ、毛沢東は反逆者の烙印を押されたり、逆に毛が褒められて、朱徳が非難されたりした。


朱将軍はいうのだがーーいかに包みかくそうとも、紅軍は事実を見抜いたのであり、その明らかな事実とは、国民党軍は、この叛逆者に対して何らの行動にも出なかった、ということである。しまいには、東固の農民たちは、事実を知って、逃亡して元の部隊に帰ってきたのだが、そこでは彼らは、迎え入れられ、再編成され、再教育された。


しかしこの反乱のおかげで、国民党第十九路軍は興国を占領し、張輝サン将軍の第二十八師団は東固を占領することができた。

東固ではパルチザンと人民が敵と戦ったが、村々は破壊され、何百の人民が殺され、最後に東に逃げて紅軍の本隊に合流した。


以上が、朱徳と毛沢東や幕僚が張輝サン将軍の第十八師団に決戦を挑んで、本隊を粉砕しようと決意したときの周囲の状態であった。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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# by far-east2040 | 2017-04-25 20:53 | 朱徳の半生

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1930年の10月末、いよいよ「アカ」を絶滅するという仕事が行われることになり、上海や他の大都市では沸きかえるさわぎだった。

北方の敵を征服して帰ってきた時の英雄蒋介石は、十万の精鋭部隊を江西の「紅匪」にむけるのであった。


中国では共産主義は帝国主義や封建主義とはどうしても妥協しない唯一の勢力で、党員は主義のために喜んで死ぬということを実証した唯一の組織だった。

こういう人間は危険ではあるが弱いので、手遅れにならないうちに攻撃を加えたら叩き潰すことができる。

今こそその時であり、結果は明らかだ。

いったい江西の「アカ」とは何者かといえば、百姓と労働者、つまり人間のクズの集まりでしかない。

全世界で知られているように、中国の百姓は誰が天下を支配しようとかまわず、少しばかりの土地を耕せてもらえればいいという人間ではないか。


国民党の機関紙と外国の協力紙はこのように鳴り物入りで騒いだ。

機関紙は堂々と紅匪討伐に向かう軍の計画の詳細、行進路まで発表した。

だが、国民党軍に破れて吉安から敗走したという朱毛軍の方からは何らの気勢もあがらなかった。

紅軍はいまや「敗残の匪賊」でしかなく、まもなくこれを完全に包囲し絶滅することができるだろう。


その江西では朱徳、毛沢東と同志たちは丹念に国民党新聞を研究し、朱徳は強気で書いてある戦争記事すべてに印をつけて傍線を引いた。

紅軍はラジオはまだ持っていなかったが、通信機関と情報網はかなり進歩していて、国民党新聞の軍事報道と紅軍の通信情報はよく合っていた。

まだ上海からの報道は来ていなかったが、朱徳と毛沢東は使者を上海に送り、共産党中央委員会の李立三理論への反対を表明していた。

結果がどうであれ、二人はこれが正しいのだと信じていた。


10月中旬、朱徳と毛沢東と同志たちは吉安北方の彭徳懐の司令部で軍事会議を開き、吉安を撤退することを決定した。

数の上では倍の敵軍に対して死守するための犠牲に耐えられないと判断したためであった。

彼らが軍の主力四万人を率いて撤収して、すでに強化されている東固山基地と広昌の城市との中間の地域にあるソビエト地区に入るならば、そこで人民の完全な支持を得るだろう。

朱将軍の言葉を借りると、


「自己の好む戦場をえらび、迅速な集中と散開とによって、われわれをせん滅すべく送られてきた敵師団の中の、まず一つを、つぎに一つをと、包囲し攻撃することができるだろう」


その後四ヶ月間にわたって続いた戦闘のうちで、特に一つを朱将軍は抜き出して紅軍の戦いぶりの例証とした。

毛沢東が後に『中国革命の戦略問題』という軍事教科書を書いた時にも、この戦闘は彼の脳裏にあったに違いない。


「戦史では、一つの敗戦が、それまでのすべての勝利の収穫を無とする場合や、また、多くの敗戦ののちの一つの戦闘の勝利が、新しい情勢を打倒する場合が、多いのだ」


この戦闘は1930年の12月末日の張輝サン将軍が率いる第十八師団との戦いで、国民党軍の全戦争計画を崩壊させてしまったものだった。

張将軍は他に第二十八師団、第五十師団を持ち、その3つの師団は国民党軍の中堅になっていた。

すべて欠員のない正規師団で、外国製の武器で完全武装され給与も最高だった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-04-25 17:36 | 朱徳の半生

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朱将軍は敵軍司令部から重要な書類を発見したことで、特に吉安陥落のことを憶えていた。

これらの文書の一部は第一次「掃共戦」計画に関するものであった。

蒋介石は華北での戦争をすでに中止し、紅軍を攻撃するために十万の国民党軍を江西に向けて移動させていた。

戦争は10月の末に開始されることになっていた。


もう一つの文書は、いわゆる「反ボルシェヴィキ団」すなわち「AB団」に関するものだった。

これは国民党秘密警察の暗殺スパイ組織で、ソビエト区全域でサボタージュとテロとの網を張り巡らせていた。

文書に目を通した朱将軍は不吉な予感におそわれた。

というのはソビエト区に潜入している暗号で書かれていたAB団員の名前を共産党側は数ヶ月かけても解読することができなかったからだった。

しかし敵の側にも隙があった。

東固―興国ソビエト区のある地主がおおっぴらに署名した現金領収書のような重要な手がかりが見つかったのである。

李文林というこの地区の主たる共産党指導者の一人はまさにこの地主の息子であった。

朱将軍は李文林がAB団と連絡しているという事実はどうしても信じることができなかった。


それまでに紅軍は敵の秘密謀略に対抗する委員会を持っていたが、特に反革命対策特別委員会を組織して真剣に活動を始めたのは吉安事件以後のことだった。

朱将軍によれば、紅軍がだれひとりも逮捕しなかったし、新設された特別委員会のものはAB団員と友だちになり、その秘密グループに加わり、敵の全組織網を入手できるまで活動を続けた。

「そのころ」と朱将軍は恐ろしい悪夢を思い出したかのような表情で声を強めた。


「われわれのもっともすぐれた多くの同志が暗殺された。
また東固部隊として編成されていたわが軍の一部が、東固の地主の息子たちの指導のもとに叛乱をおこし、その結果、非常な混乱と疑惑との空気が作り出され、だれもが自分の兄弟を信用していいものかどうか、わからないような状態におちいった。
AB団員は、そっと、いくつかの迷信的な宗教団体を組織し、紅軍の滅亡を予言させていた。
彼らは、こうしてわれわれを大衆から孤立させようとしたのだ。
そのためには、彼らは『自由恋愛会』さえつくりあげて、そこで地主どもは、自分の家族の女たちまで動員して、紅軍の戦士たちを堕落させようと狂奔した」


紅軍は道徳についてはきわめて厳密な規律を持っていたので、農民と衝突することはなかった。

紅軍の道徳性の高さが非常に評判がよかったので、地主どもはぶちこわそうと躍起になったが、失敗したのである。

朱徳は直接兵士にぶつかってAB団が使っているあらゆる戦術を説明し、警戒心を呼び起こした。

朱徳や毛沢東、その他の指導者の身辺は特別に訓練された護衛兵が警戒にあたった。

しかしAB団の根を永久に絶滅するまでには、三人の護衛兵が暗殺されたのである。


肉食獣のような支配階級はむかしながらの特権的地位を取り返そうと戦っていたが、彼らの邪悪な権謀術数に対しては長く粘り強い闘いが必要だった。

朱将軍がこの闘争について語ってくれていた1937年の始め、筆者(スメドレー)はある大昼食会で彼と「反革命対策委員会」の主任とをじっくり見比べてみたことがあった。

当時この委員会の主任は11歳から鉱夫になった人で、中国のもっとも初期からの労働運動組織者の一人だった。


朱将軍は人だかりの中でも猫のように平静でのんびりしていた。

農民たちがキャベツを売ったり、心ゆくまでおしゃべりしたりして集ってくる市場などであれば、いつでもその中に紛れて溶け込んでしまえる。

彼はその平凡な容貌から動作にいたるまでどこまでも農民である。


これに反して、反革命対策委員会の主任の方は、どんな農民の集まりでもそのなかに溶け込んでしまうことはできない。

彼には休息もなければ息抜きもなく融通性というものがまったくない。

話し方も動作もきびきびと鋭敏で、よく統御された精力の化身のようである。

大闘争に立ちあがっているときの西欧諸国の工業労働者がしばしば示す特徴でもある。


朱徳や毛沢東はじめ、紅軍と共産党その他の指導者たちが、敵の秘密組織の手による暗殺から免れたのは、疑いもなくこの主任またはこの人と同じような人たちのおかげであった。


1949年1月に人民革命軍が北京に入城し、国民党の秘密警察、藍衣社の全メンバーに対して、ただちに武器を捨てて降伏し北京警察署に登録せよ、そうしなければ徹底的に掃滅すると命令したときに、筆者はふたたびこの主任のことを思い出したのである。


この命令に従って、北京郊外にある清華大学の人当たりのいいある教授が警察本部に出頭し、自分は藍衣社の「大尉」で、特に学生、教授、知識階級のあいだに恐怖心をばらまいてきたと登録した。

彼は正式に登録され、従来通り清華大学で講義を続けるように言い渡された。

だが、警察の新しい長官は彼に向かって穏やかに知らせた。


「あなたは、自分の登録内容について、ちょっとした間ちがいをおかした。あなたは、藍衣社では大尉ではないーーあなたは中佐だった!」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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# by far-east2040 | 2017-04-24 14:01 | 朱徳の半生